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あなたはあなた わたしはわたし

今日は実はとても体調を崩してしまってベッドでパソコンを叩いている。
でも眠れないので、私の一番の薬、書くことをしてみようかなって。


人の「気質」について、長年考えてきた。
たとえばカッときた・・とか、
自分のプライドに抵触した・・という理由だけで
自分にとり「安全な相手」なら、
グサッとナイフでも刺すように言葉の暴力を投げつける人の行為。
それは、いったい許されるのだろうか?
答えは、断じて、NOだよね。
それは、自分の気持ちをコントロールできない弱さ、未熟さからきている行為だから。
どんな理屈をもってしても、やはり正当化はできない。


カッときたり、
プライドを揺さぶられるような
(しかし、それも自分の感じ方、受け止め方であり、自分の勝手な解釈や感覚である場合がほとんど)
ことが起きても、

「相手を尊重して自分の気持ちを伝える方法」はたくさんある。
方法を、きちんと学ぶなおす必要があるんだね。
人を無為に傷つけてはいけないよ。
自分の気持ちを、平和な雰囲気で、
どう伝えたらいいのか
練習をすればいいだけ。


練習ってどうするの?と思う人は
「なぜ相手を尊重して、丁寧に自分の意図を伝えることが自分はできないのか?」
「なぜ自分はカッときたら、すぐ自動装置のように暴言を吐くのか?」の、
理由を探ってみよう。

しんどくても、じっとひとりで自分と向きあってみるのが
なにより、いちばん近道。



「なぜ自分は、感情のコントロールができないのか?」
「なぜ、安全な相手(つまり最終的には抵抗してこない相手)にはグサリと剣を刺せるのか?」

その理由は、おそらく過去において、
他の誰でもない自分自信が、
ときに親、教師、友達、あるいはそのほかの人によって
無抵抗なまま、
誤解をされた、傷つけられた、
とにかく、ひどいことをされた経験があったからではないかな?
それを、チェックするといい。
もしそんな経験があったとしたら、
その傷は今も癒えていないのではないだろうか・・・?

“癒されていない”と気づくのは
まったく恥ずかしいことではない。
だって、そもそも最初に、
あなたに恥をかかせたり、
あなたを無慈悲にあしらった人が悪い。
あなたもその時は、犠牲者だったんだから。

だから、今、癒されよう。
自分も楽になるし、周囲も楽になるよ。


癒される手順は
1)その「過去の辛くて悔しい場面」を思いだし
2)自分を傷つけ自分のプライドを踏みにじった相手を思い浮かべ
3)「あなたを、もうゆるします。なぜなら人間は不完全だから」と
言葉にしてみてほしい。

最初は、儀式みたいで、
まったく感情がともなくても
「言葉自体が力を有している」から効果あり!
試してきたから、わたしも。


私は、かつて
親に対して
「ゆるします」という独り言のような祈りを
毎日毎日一人で静かにつぶやいた。
その結果、
最初は感情がまったく伴わってなくて
ぎこちなかったけれど、
しだいに、”ゆるします”と唱えるのが習慣化し

ある日
心がスーッと、
軽やかになっているのを感じた。

「おや? 過去のあの出来事を思い出しても、もう胸が痛くないぞ…」と感じた日。
私の中に住みついていた
「得体の知れぬケモノ」は
去っていったのだな…ときがついた。
わたしはとってもらくになった。


その後の年月の中でも
人に対して
なんらかの「不健康な反応をしてしまう習慣」が自分にあると気づいた時は
いつも意識的に、
「過去に似たような不健康な反応をせざるを得なかった出来事が、自分になかったかなあ?」とチェックをするようになった。


一例をあげると、
私は、誰かが”不快さ”をあらわにすると
「私が悪いからだ・・!」と自動的に感じ
相手を気遣い、ひたすら謝ったり、
その相手が好む行動を必死でやってみたり・・という喜劇(悲劇?)を演じていた。

その結果、相手は支配的態度をエンドレスゲームみたいに私につきつけてきた。
いじめるのは、ひとまずは、痛快だったのだろうか?
いや、その人もきっと幼少期に傷があって、
それがゆえに
自分に対して抵抗できない、反逆しない人を犠牲にしていたのではないだろうか? 
(あなたが、犠牲にされている人なら、今すぐその関係から去ってよい。自分を守るために。)



私は、大人になってからのある日、
運命のように、ある詩に出会った。
そして
「え? それでも・・・いいの?」と・・・驚いた。

その詩は

【わたしはわたし あなたはあなた】

と始まっていた。

なに、これ、、、?

私は、キッチンのよく見える場所に、
その詩を小さな紙に書いて貼った。
そして声に出して
毎日読んだ。
毎日、毎日。


そのうち、他者からの理不尽な怒り、
自分を操作しようとする他者の不機嫌さ、
他者の自分への一方的で、ときにヒステリックな要求に
しずかに、最初はおそるおそる「NO」と、言えるようになった。
言えなかった単語、NOを。
もう支配はやめてほしい。
もうそれはできないと、おそるおそるだけど言えるようになった。


私は謝る必要がないことに対して、謝らなくていいんだ。



“あなたは悪くない。あなたに無理な要求を押し付けてもいいとかんちがいして、あなたを支配しようとしているその相手が、悪いんだよ。あなたは悪くない。あなたは謝らなくて良い”


なにかが明確になり、
自分の中でひきだしが
だんだん整理できていった。


他者に支配され、
他者の要求を飲んでしまう習性があるとき、
その根っこは、長く太く、執拗だ。
でも、その根っこは、
台所に立ってあの詩を読むたびに
少しづつ死んでいき、枯れていき、
いまではほとんど消えた。


(*この内容は、ゆいごん日記としても大事なことなので、続きはまた書きます。今日はまだ頭痛と胃痛があるので、黄ばんでぼろぼろになるまで台所に貼っていた詩を、この写真の下部に掲載させてもらって今日は寝ますね。この詩は、たとえ、夫婦でも恋人でも親子でも友人でも・・すべての関係に当てはまる真理だから、あなたも書き留めてどこかに貼ってほしいな)



【 私は私のために生きる。
  あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えるために、この世に生まれたわけじゃない。
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世に生まれたわけじゃない。
私は私。
あなたはあなた。
もしも、私があなたの期待に応えられたなら、それはすばらしい。
しかし、たとえ私があなたの期待に応えられなくても、それでよいのだ。】

フレデリック・パールズ