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『金魚鉢』 # シロクマ文芸部

咳をしても金魚。
結果的には、咳をしてもしなくても金魚だった。
「咳をしてもひとり」
そんな句があったが、あれは、人生の孤独と諦観を詠んだものだろう。
だが、俺は違う。
孤独とはほど遠い人生を歩んできた。
実は、俺の咳をしても金魚には、その前段がある。
咳をしたら金魚。
そういうことだ。
咳をしたら金魚になったのだ。
いつも通り仕事をしていた。
同僚と机を並べて、上司の顔色をうかがいながら、キーボードを叩いていた。
ちょっと喉がいがらっぽくて、軽く咳をした。
すると、次の瞬間、俺は金魚になっていたのだ。
咳をしたら金魚になった。
金魚になったからといって、泳いでいるわけではない。
普通に、座っている。
エラ呼吸ではなく、鼻で呼吸している。
念の為に顎から耳元までさすってみるが、エラのようなものはない。
手もある。
足もある。
ただ、自分ではわかるのだ。
俺は金魚だと。
ついさっきまで、俺は人間だと無意識に自覚していたのと同じくらいの確かさで、俺は金魚なのだ。
もちろん、このままでいいわけはない。
早く人間に戻らなくては。
もし、誰かに気付かれたら、説明が面倒だ。
咳をして金魚になったのだから、もう一度咳をしてみれば。
だめだった。
咳をしても金魚のままだ。
どうして、この俺が。
不条理じゃないか。
俺が何をしたというんだ。
そう言えば、昔、ヨーロッパで、毒虫になって亡くなった作家がいたらしい。
でも、あいつらは、存在がどうのこうのと屁理屈をこねているからバチがあたったんじゃないか。
俺は、そんなことなんか考えもせずに、毎日、仕事をして、家に帰れば、ビールを飲みながらテレビを見て寝るだけ。
この世界で生きることに、なんの疑問も不満もない。
それなのに、どうしてなんだ。
俺は、パソコンの横のペットボトルに手を伸ばした。
水をひと口飲む。
飲んだはずの水が、俺を包み込んだ。
気がつくと、俺はオフィスの書類棚の上の金魚鉢の中にいた。
ようやく落ち着いた。
やはり、金魚はデスクではなくてこっちだな。
隣のデスクの後輩が顔を寄せて何か言った。
内容はわからないが、上からパラパラと何かを落としている。
どうやら俺の餌のようだ。
それにしても、俺が金魚になったのに、どうして誰も驚かないんだ。
俺はいつから金魚なんだ。
もしかして、最初から金魚だったのか。
あの時咳をしてからだと思っていたが。
もう一度咳をしてみたが、小さな泡しか出ない。
咳をしても金魚。


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