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花火大会の後のゴミに思う

先日、見るともなしに、隅田川花火大会のニュースを見ていた。
過去最多の103万人が訪れたという。
関西に住む者としては、はっきり言ってどうでもいいニュースだが、コロナの反動とはいえ、日本人てこんなにお出かけ好きだったかなあと考える。
そして、映像が切り替わる。
ゴミだ。
見物客が帰ったあとに放置された大量のゴミ。
それを見た時に、僕の頭に浮かんだこと。

「あれが誹謗中傷の正体だ」

なぜ、そんなことを考えたのだろうか。

誰のものかわからない、当然だが無記名の、責任を放棄され、今は人混みに隠れて見えないが、みんなが去ったあとに、その存在を主張してくるゴミ。
捨てた本人には、あれが私のゴミだとわかるかも知れないが、その匿名性は、本人にさえも気付かせずに過ぎて行くのだろう。

その姿は、ネットで横行する誹謗中傷とどこか似てはいないだろうか。

しかも、そのゴミの持ち主は、少し前まで、花火を見上げて、その美しさに感動していた人たちなのだ。
友だちと、彼と、彼女と手を繋ぎ、家族で顔を寄せ合って、夜空に浮かぶ大輪の花を愛でていた人たちなのだ。
彼らは、多分、ゴミを残して来たことなど忘れて、明日の朝には、ニュースを見て、マナーがなってないよねー、と誰かに話しているのかも知れない。

ネットの誹謗中傷もそうなのかもと考える。
案外、誹謗中傷を専門にやってますなどという人は少なくて、誰かを慰め、励ましたその裏で、容赦ない攻撃を仕掛けているのではないか。
誹謗中傷はやめろと言うその裏で、せっせと油をまいているのではないか。
第一通報者が放火犯とは、よく聞く話だ。

こんなことを想像してしまう自分が嫌になってくる。

それにしても、日本人のこの二面性はどうなのだろう。
ワールドカップなどの大きな大会の後で、ゴミを集めて帰る日本人サポーター、観客の姿が伝えられる。
海外からは、これぞ日本人の美徳と褒め称えられ、日本人のひとりとしては、それみたことかと、鼻高々になる。

その同じ日本人が、ところ変わればこの有り様だ。
日本人は、すぐ隣の人との連帯感の生まれるところではマナーを守るが、そうでないところでは、そんなことを考えもしないのだろうか。
スタンドで、見知らぬ人と肩を組み、飛び上がりながら声援を送っていれば、自ずと連帯感、一体感は生まれてくる。
しかし、花火大会の場では、せいぜい隣の見知った人と、あとはスマホの向こうの誰かだろう。

突き詰めれば、日本人と同調圧力の問題につながりそうだが、それは専門家にお任せする。

とにかく、天地神明に誓って、僕はゴミを放置しないし、誹謗中傷もしない。

ちなみに、妻によると、僕が嘘をつく時には、唇の片方がほにゃっとなるそうだ。
今は、どうだろう。

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