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『スパイの朝食』

俺の仕事はエージェント。
わかりやすく言うと、スパイだ。
この国のとある組織に所属している。
そして、俺がさぐりを入れるのもスパイだ。
他国からこの国の機密情報を探りにきている奴ら。
大きな声では言えないが、世の中はスパイであふれている。

もちろん、誰も俺の正体を知らない。
両親、兄妹はもちろんのこと、妻にさえ知らせていない。
妻には、大手商社の海外営業マンということにしてある。
所属する組織からは、毎月その会社名で振り込みがある。
給与明細も発行される。
名刺の番号に電話をすれば、その会社の受付を装った案内嬢が爽やかな応対をしてくれる。
そして、その商社には同姓同名の営業マンが実在している。
全てにおいて抜かりはない。

これまで数々の困難なミッションをこなしてきた俺だが、実は少し手こずっている。
なかなか相手の正体が掴めないのだ。
すぐそこまで近付いているのに、たどり着けない。
だから、自然、朝食の席でも無口になる。
そんな俺を気遣ってか、妻はいつもの朝食のメニューに加えて、野菜のスムージーを作ってくれた。
ようやく歩き始めた娘は、隣の部屋で遊んでいる。
この間買ってやった天然木の積み木で何かを作っている。
そんな光景も、今の俺には癒しになる。
スパイといえば、平気で人を殺す、そんな冷酷無比な輩だと思っている人も多いが、決してそんなことはない。
仕事なのだ。
それは、銀行員が、毎日数える人のお札は紙切れに見えてくるが、自分のお札はあくまでもお札だというのと同じだ。
任務の途中は、敵も人形も変わりない。
相手を殺す時に、感情などはない。
しかし、いったん仕事を離れれば、愛情も人並みに持ち合わせている。
それに、スパイの仕事のほとんどは情報の入手であって、その命まで奪うことは稀だ。
もちろん、その技術は身につけているが。

俺は、色鮮やかなグリーンのスムージーが入ったグラスを持ち上げた。
「これは、身体に良さそうだね」
「ええ、飲んでみてちょうだい」
微笑む妻の前で、グラスを口に近づけたその時だ。
何かが飛んできて、そのグラスを弾き飛ばした。
グラスは、床に落ちて、こぼれた液体から白い煙が舞い上がった。
「ちくしょう」
煙の向こうで、妻の声がした。
咄嗟に口元を覆い、窓を開ける。
煙がおさまると、そこに妻の姿はなかった。
見ると、グラスの横に、積み木が落ちている。
仁王立ちしていた娘は、俺と目が合うと、少し笑った。
いや、そんな気がしただけかもしれない。
状況を理解しようとしたその短い間に、娘は元の場所でしゃがみこみ、その口からはその年齢の子独特のひとりごとが漏れている。
今はもう、少し前と同じように積み木遊びに没頭している。
お前たちは、いったい…

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