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『会いたい人』

梅雨の晴れ間の昼下がり。
妻と近くのカフェに来ている。
最近できた店だ。
通りに面した全面ガラスは半分ほどブラインドが下ろされているが、その隙間から眩しい光が差し込んでいる。
カウンター席では、こちらに背を向けた学生やサラリーマンが開いたパソコンに没頭している。
妻の後ろの席では、女子高生が2人、言葉も交わさずに向かい合って勉強している。
中間テストっていうのは、今頃だったか。

「死ぬまでにもう一度会いたい人がいるんだよ」
夫婦も年季が入ってくると、こんなことも平気で言えるようになる。
「君の前に付き合っていた人なんだけれどね。あの時、どうして僕から去っていったのか、それが聞きたいんだよ」
妻は何も言わずに、チョコレートケーキをフォークでつついている。

最近、父を見送ったばかりだった。
母はもう何年も前に認知症が出て、施設に預かってもらっている。
老年というくくりで言うと、死ぬにせよ、記憶を失うにせよ、自分もその領域に足を踏み入れつつある。
そんなことを思うと、俄然、焦りが出てきた。
やり残したことが、次々に浮かんできた。
しかし、やりたかったことのほとんどは、もうやりたくても、できなくなっている。
それは、お金とか時間の問題ではない。
行きたい場所もいくつもあるが、何となくそこまでの手間がもったいない。
そんな時に、古い恋を思い出した。

学生時代から付き合っていた。
2人とも一人暮らしで、同棲こそしなかったが、お互いの部屋を行ったり来たりしていた。
心を病むようなことがあり、一年間休学した時にも、丁寧に接してくれた。
卒業は、一年後輩の彼女と同じになった。
別々の会社に就職したが、休日にはほとんど2人で過ごしていた。
ある日、彼女から、会社を辞めたとメールが届いた。
携帯電話にメール機能がついた頃で、2人のやり取りも少しずつメールが中心になっていた。
電話をしたが、すぐに留守電になる。
メールにも、反応がない。
部屋を毎晩のように訪ねたが、明かりは消えていた。

ほどなくして、手紙が届いた。
郷里に帰った旨と、さよならと書いていた。
さよならは遠回しの表現ではあったが。
どうしてなんだ。
そう言って追いかけることもできただろうが、そうしなかった。
それが普通だと思ったからだ。
そんな彼女を追いかけずに、働き続けることが普通だと思った。
心を病んだ時のように、また自分の何かを崩すことが怖かったのかもしれない。
あの時、全てを捨てる覚悟で彼女の郷里を訪ねていれば。
その後の自分を幾度思い描いただろうか。
その都度、そうしなかったから、今の妻と出会えたんだと考えた。

ずっと昔に別れた彼女を訪ねて行き、そこに丸々と太って逞しくなった姿を遠くから見かけて、そのまま帰ってくる。
昔読んだ、そんなフランスの小説が浮かんできた。

コーヒーを飲み干そうとした時、妻が口を開いた。
「どうかしら。その人は、もしかしたら死ぬまで会いたくないと思っているかもね。あたしにだってそんな人がいるから」

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