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『遠い手紙』

昭和の時代に別れた人から手紙が届いた。
幸い、夫は学生時代の友人と旅行に出掛けている。
多分、明後日までは帰らない。
夫は定年退職の後、特に定職にはついていない。
たまに、日払いのアルバイトを見つけてくるが、生活のためというよりは、まだまだ働ける体だと自分で納得するためだ。
年金と蓄えだけで何とか不自由のない暮らしはできている。
いや、不自由のないどころか、このように旅行に行けるほどの余裕はある。
わたしも、友人と出かけることもあるし、年に一度か二度は夫婦で温泉などにも行く。
仮にこの先、2人がどこかの施設にお世話になるようなことがあっても、子供たちには少なくとも金銭的な負担はかけなくてすむはずだ。

手紙は、何の飾りもない白い長形封筒で送られてきた。
宛名の筆跡に見覚えはない。
裏を見ても、差出人は書かれていない。
いつもの癖で、手で破り開けようとしたが、思いとどまった。
夫に注意されるわたしの悪い癖だ。
どんな手紙でも、封をする時には、「読まれますように」と心を込めたはず。
それが、夫の言い分だ。
だからと言って、こちらがそれにこたえなければならない義務はない。
一緒になってすぐの頃は、そんな口ごたえもしていた。
気持ちのことに義務など、はなからない。
やるかやらないかだと気づかせてくれたことは、夫に感謝している。
鋏を探し出して、リビングのテーブルにつく。
上から一ミリくらいのところを丁寧に切る。

文面よりも先に、いちばん最後の名前を見る。
その名前を最後に口にしたのは、後数年で昭和が終わる頃だった。
もちろん、その時にはそんなことはわからなかったが。
別にやましい恋ではない。
彼もわたしも独身だったのだから。
ただ彼は、わたしの生きる世界とは少し違うところの人だった。
出会った時には、そんなことはなかった。
お互いに成長するにつれて、少しずつふたりの世界が別れていった。
わたしは引き戻そうとしたが彼は聞かなかった。
ただ、彼は、自分の世界にわたしを引き込もうとは、決してしなかった。
わたしが行こうとしても、恐らく止めただろう。
その、お互いの世界の外で過ごすことに、わたしたちは夢中になっていたのだ。
いや、そうではない。
わたしたちは、結局、お互いに自分の世界から出ることはできなかった。
ふたりの世界が触れ合う、薄い膜のようなところ。
それは、他人から見れば危険な恋だったのだろう。
危険な香りに惑わされ10代から20代の大半を無駄に過ごした。
そう、今となっては無駄な時間以外のなにものでもない。
世間では、青春と呼ばれることもあるその年代に学んだことなど何もない。
結局彼は、その世界の人たちがやがて行くようなところに行ってしまった。
彼は、待っていてくれとは言わなかったし、わたしも待つつもりはなかった。

手紙には、お誕生日おめでとうと、それだけが、すべて下手なひらがなで書かれている。
カレンダーを見て思わず声を出して笑ってしまう。
そうか、今日か。
そして、一枚だけの便箋の下には、名前と携帯の番号が、これもかろうじて読める。
封筒に書かれた宛名と比べてみる。
宛名は誰かの代筆、恐らく女の文字だ。
そうだった。
何か書くことがある時には、いつもわたしが書いていたのだ。
人生の終盤に至ってもまともに文字も書けない男。
彼がどこでここの住所知ったのかはどうでもいい。
別に個人情報をひた隠しにしているわけでもないのだから。

便箋を封筒に戻すと、携帯に手を伸ばす。
もちろん、夫に妻の誕生日に不在であることをわからせるためだ。
甘い香りに溺れないくらいには、歳を重ねてきた。

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