『居酒屋のふたり』
2人はひとことも話していなかった。
彼の方は、肩をすぼめて、両手を腿の間に挟んだままうつむいている。
向かいの彼女は、そんな彼をまっすぐに見つめている。
テーブルの上には、お通しの煮込みの小鉢と、中ジョッキがふたつずつ。
ビールは泡もすっかりなくなっている。
普段なら、この後に酎ハイやハイボールへと進んでいくのだろう。
ところが、今日は、恐らくとりあえずと頼まれたに違いないビールから、一歩も先に進んでいない。
駅に近い、小さな居酒屋。
その入り口すぐのテーブル。
常連客で盛り上がるなか、静かな2人はそれだけで目立ってしまう。
カウンターからわざわざ振り向く客もいた。
それは、好奇の目であったり、心配する目であったりした。
大将は、1人しかいないアルバイトの女の子に目配せした。
女の子は、新しいジョッキにビールを注いだ。
「これ、お取り替えさせていただきますね。サービスです」
女の子が、ひと口も飲まれていないジョッキを下げるとき、彼の目は少しだけ動いた。
しかし、向かいの彼女の方は、微動だにしない。
気がついたのは、昨日の夜遅くだった。
友人からメッセージが来た。
「明日の試合、遅れるなよ」
携帯を取り落とした。
心臓が止まるかと思った。
それから、何度か深呼吸を繰り返して、携帯に手を伸ばした。
「ごめん、明日なんだけど…」
彼は彼女へのメッセージを入力した。
彼が、うろたえているのは、これが初めてではなかったからだ。
デートの約束と、草野球の予定が重なってしまう。
重なってしまうと言っても、どちらかの予定が先に入り、それを彼が忘れているだけなのだ。
それでも、デートを優先できれば、問題はなかった。
しかし、草野球は、いつも9人ギリギリでやっているから、急なキャンセルは無理だった。
それに、高校在学中に結成したチームだが、なぜかもう10年以上も続いている。
それぞれ、勤めもあり、中には家庭のある者もいるが、何とか都合をつけて、年に数回、集まっている。
もちろん、ユニフォームも揃えている。
特に、今回は、新しくデザインしたユニフォームで初めての試合だ。
長い言い訳の最後に「ごめん」と打ったメッセージを送信した。
既読にはなったが、返信はない。
それで、十分に彼女の気持ちはわかる。
試合が終わると、この後どうすると相談しながら、ベンチの奥で着替えた。
草野球の楽しみは、野球よりもどちらかというと、その後の飲み会でもある。
道具を、メンバーの1人が用意したハイエースに積み込んでいると、誰かが肩を叩いた。
指さされた方を見ると、彼女が、数段だけの観客席に立っていた。
彼女が見にくるのは初めてだった。
彼も誘ったことはない。
彼女が野球に興味があるとは思わなかったし、あったとしても、草野球なんか退屈なだけだろう。
まさか、見にきていたとは。
仁王立ちした姿は怒りそのものだった。
女の子が新しいビールを置いてテーブルを離れると、彼女は言った。
「飲みなよ。気をつかわせて迷惑でしょ、お店に」
「ごめん」
「だから、飲みなよ」
彼女は彼のジョッキを指差した。
「ごめん。今度から、絶対に気をつけるよ。最低だよな、君との約束を忘れるなんて」
「何のこと」
「だから、今日はごめん。映画とか行く約束だったのに」
「何をもごもご言ってるのよ。飲め、早く」
彼は、ジョッキを持ち上げて口をつけた。
「それ、違うよね。絶対に、エースで4番の飲み方じゃないよね」
「えっ」
「嘘ついたでしょ、わたしに」
彼女もジョッキを持ち上げて、こちらはいっきに半分ほどを飲み干した。
「わたしにエースで4番だって言ってたじゃないの」
「それは…」
「あそこは、どう見てもマウンドじゃないよね。ライトっていうところでしょ、知ってるわよ、それくらい。それに、数えてたら、打順は最後だったよね」
「いや、その、今日は…」
「嘘ついたよね」
「はい」
彼女は、残りのビールを飲み干して、おかわりを注文した。
新しいジョッキが運ばれてくる。
「それだけじゃない。それよりも、何よりも、我慢できないのはね」
ここでまた、ジョッキを半分ほど空けた。
「今日の成績よ。三振、三振、ピッチャーゴロ、キャッチャーフライ。何これ」
「はい」
「はいじゃないの。こんなところ見せられて、怒らないわけないでしょ」
「はい」
「許して欲しかったら、約束しなさい。次の試合では必ずヒットを打つって」
「はい」
「何だか頼りないなあ。この後、練習するよ」
「えっ」
「この近くに遅くまでやってるバッティングセンター、あったでしょ」
「ああ…」
「とにかく、約束しなさい」
「約束します」
「ヒット打ちますでしょ」
「約束します。ヒット打ちます」
彼は、困ったような、しかし、どことなく嬉しいような表情を、彼女からそらした。
大将と女の子は顔を見合わせてうなづいた。
カウンターの客の何人かは、ビールのおかわりを注文した。
その後、2人のテーブルには料理が並び、飲み物も、ビールから、酎ハイへと進んでいった。
店を出た後、2人が本当にバッティングセンターに行ったのかどうかはわからない。
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