『えくぼの嘘』
目の前の女性を見つめていた。
商談コーナーの椅子に腰掛けて、目の前の資料とパソコンの画面を指差しながら話している。
久しぶりに若干名の中途採用をすることになり、人事部で担当した。
女性は、その求人広告の代理店の営業だ。
しかし、その内容よりも、女性の顔を見つめていた。
顔というよりも、正確にはそのえくぼを見つめていたのだ。
話している唇の横に、唇の端から絶妙の距離をとって現れる窪みを。
触りたいと思った。
もちろん理性はある。
それで思い出した。
妻にも、えくぼがあったことを。
名前を呼ばれて我に帰った。
女性が不思議そうにこちらを見ている。
えくぼが可愛いのは、20台までよ。
後は、ただのシワなんだから。
妻は言った。
そうでもないぜ。
と、指でなぞってみる。
右の頬にできたえくぼを。
最初に妻を見た時に、目に入ってきたのは、えくぼだった。
そうだ。
えくぼには、何かがある。
今日だって、あれが職場ではなく、どこかの飲み屋なら。
我慢できずに触っていたかもしれない。
初対面の女性のえくぼを。
いやいや、酒の席でもそんなことは許されない。
おい、と呼びかけた。
振り向いて微笑む妻の頬にまたえくぼが浮かぶ。
聞かせてくれよ。
どうしたの。
そのえくぼで騙した男の話さ。
何よ、急に。
いいじゃないか、聞かせてくれよ、そのえくぼに隠された秘密の話。
いいわ、じゃあ話してあげる。
妻は、キッチンからグラスを2つ持ってくると、ウイスキーを注いだ。
ひとつを差し出して、
覚悟しておいて、長くなるわよ。
そして、耳元で囁いた。
あなたの話は、最初にする? それとも最後がいいかしら。
昼食を終えて戻ってくると、広告代理店の女性がロビーで待っていた。
目が合うと、立ち上がって頭を下げる。
顔を見せて微笑んだ頬にえくぼ。
そうだ、このえくぼにも物語が隠されているだろうか。
もちろん、今どき冗談でもそんな会話は許されない。
ましてや、いきなり手で触れるなど。
いつものコーナーで待つように言うと、手の空いていそうな部下を探した。
同席するように指示する。
3人なら大丈夫だろう。
理性はあるが。
そんなことに部下を利用するやましさを押し隠しながら、
君もこれからのために話を聞いておきなさい。
上司風を吹かす。
娘が帰ってから1度も部屋から出てこない。
妻が心配そうに言う。
夕食にも下りてきていない。
妻が、娘の友人や、その親に連絡をして確認したところでは、
どうやら、失恋したらしいのよ。
なんだ、そんなことかよ。
ネクタイをゆるめながら、娘の部屋の前に立つ。
立ってはみたものの、高一の娘に何と言っていいのか。
言葉が出てこない。
あきらめて、離れた。
ビールを飲みながら、妻に言った。
君も経験あるだろう、何とかしてやれよ。
あら、あたしはあなたしか知らないわよ。
そう言って微笑んだ頬にえくぼが影を作る。
ほら、この微笑みがくせものだ。
何をぬけぬけと。
たしか、あの子にもえくぼがあったよな。
そうだったかしら。
それじゃあ、教えてやれよ。男の騙し方でも。