『転落』 # シロクマ文芸部
梅の花が咲く頃。
それは突然でした。
私が市内の女子高に通い始めて最初の年。
毎朝私はその駅で、都心部までの路線に乗り換えていました。
列車を一旦降りると、隣のホームに移るために階段を上ります。
そして、渡り通路を通って隣のホームへの階段を下りるのです。
その日も、いつもと同じようにその駅で降りました。
そして、他の乗客の流れに任せて、階段を上りました。
階段を上りきって、隣にホームに向かおうとしたその時です。
突然、背後で叫び声がしました。
男性のものなのか、女性のものなのかはわかりません。
両方が混じっていたかもしれません。
でも、振り返って、私はすぐに何があったのかを理解しました。
男が、多分、30代前半でしょうか、その男が、突き飛ばしたのです。
私と同じくらいの女子高生を。
制服は違っていたので、私とは違う高校です。
私は、目の前の情景をスローモーションのように見ていました。
女子高生を両手で突き飛ばした後、無表情で渡り通路を駆けていく男。
その横顔、その後ろ姿。
階段を頭から落ちていく女子高生。
一段ごとに体は小さく弾みながらもその勢いは止まりません。
そして、落ちながら彼女は、私の目を見ました。
落ちていることに、一段ずつ自分の体が弾んでいることに、それをどうしようもないことに、少しはにかんでいるような微かな笑みを浮かべて。
その間は、音も聞こえませんでした。
彼女がいちばん下まで落ちた時に、また音が戻ってきました。
男を追いかける人。
下で彼女を助けようとする人。
年配の女性に背中を支えられながら、彼女はまた私を見ました。
私は、首を何度も振って、駆け出しました。
乗り換えのホームに向かって。
ホームの端に植えられた低い梅の木には白い花が咲いていました。
それから長い時が経ちました。
私は久しぶりに遊びに来ていた孫を、市内にできた新しいショッピングモールに連れて行くことにしました。
こんな田舎のショッピングモールでも、孫には楽しみのようです。
乗り換えのために列車を降りました。
隣のホームに行くために、孫の手を引いて階段を上ろうとしたその時です。
上の方で叫び声がしました。
見上げると、頭から階段を滑り落ちてくる老婆。
地味な和服を着ています。
咄嗟に孫を抱き寄せました。
老婆はそのまま私たちの足元にまで転がってきました。
倒れたまま下から私たちを見上げる、少しはにかんだ表情。
古い記憶が蘇ります。
私は孫を抱えるようにして、階段を駆け上がりました。
孫は泣き出しましたが、私は必死でした。
老婆は、私たちを見上げた後、隙間だらけの歯を見せて笑ったのです。
そして、痩せ細った腕を伸ばしてきたのです。
その手を振り払うように、階段に向かって駆け出しました。
老婆が立ち上がり、階段を私たちよりも早い速度で駆け上がったことを知ったのは、腕から孫の体が、すっと抜き取られた時でした。
細く梅の香りが流れて行きました。
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