『古いグローブ』

夜勤明け。
アパートの脇に軽自動車を停める。
決まった駐車場ではないが、誰の邪魔にもならないスペース。
文句を言う奴もいない。
大きめの白いトートバッグは元々妻のものだ。
その中に、釣り銭の入った袋と、運転免許証の入ったカード入れがあるのを確認する。
バッグの表についたポケットから、薄い手帳を取り出した。
しおりのあるページを開いて、今日の日付の欄に、数字を書き込んだ。
昨夜の売り上げだ。
毎日、五桁の数字だけが書き込まれている。
それさえ書き込めれば、充分だった。
以前の職場では、分厚い手帳やノートを何冊も持ち歩いていた。
タクシー運転手にそんなものは必要ない。
アパートの横についた鉄製の階段をゆっくり上る。
別に騒音を気にしてのことではない。
錆びた階段に穴が開きそうだった。

部屋に入ると、妻がパートに行く仕度をしていた。
台所には、食事の用意がしてある。
今夜、出勤前の食事だ。
「今日は遅いのか」
奥の部屋で化粧をする妻に声をかけた。
「ええ、ごめんなさい。あたためてね」
冷蔵庫からビールを出す。
テーブルに腰を下ろして、煙草に火をつけた。
「減らした方がいいわよ、煙草」
「減らしてはいるさ」
テレビをつけた。
高校野球の中継をしている。
すぐにチャンネルを変えた。
昨日と変わらず、猛暑の予報と帰省ラッシュの話題。
「お盆休みとかないのかよ」
「そんなものないわよ。あなたと同じ」

化粧を続ける妻の後ろの布団に横になる。
横になったまま、着ているものを脱いだ。
丸まったタオルケットを腹の上にかける。
「そうだ」
言いながら妻が振り向いた。
その口紅、少し濃すぎるんじゃないか。
口にしかけてやめた。
「お向かいの部屋の男の子、今度リトルリーグに入るんだって」
うつ伏せになって、また煙草に火をつけた。
ガラスの灰皿をたぐり寄せる。
「それでね、あなたのことを話したら、ぜひコーチして欲しいってよ」
「何を馬鹿なことを。余計なことするなよ」
「今日、学校から帰ったら、ピンポン鳴らしてって言っておいたからね。少し早起きして、お願いね」
「知らないよ」
「だめよ、もう約束したんだから」
黙って煙を吐いた。

いつの間にか眠っていたようだ。
妻が出かけるのにも気がつかなかった。
時計を見ると、まだ少し早い。
ふと、枕元を見る。
古いグローブ。
どうしてこんなものが。
何度目かの引越しの際に、処分するように言ったはずだ。
ローリングスの当時流行っていた投手用モデル。
土手の部分に書いたイニシャルはほとんどかすれてしまっている。
自分のイニシャルではない。
そのイニシャルのためなら、勝てると思っていた。
定期的に磨かれていたに違いない艶。
左手にはめてみた。
一本一本の指が、深い穴に吸い込まれそうな感覚。
そのまま何かが舞い戻りそうになる。
その深淵の先に待ち受けるもの。
「馬鹿なことを」

グローブを外しかけたとき、呼び鈴が鳴った。

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