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『悲しみのスパイ』

ようやく、使命が果たせるはずだった。
あらゆる資料、錯綜した情報を整理して、さらに経験からくるカンという奴も、1人の人間を指差していた。
その人間を捕らえて身分を白状させる、あるいは最悪でも始末してしまえれば、長年にわたる私の捜査も終わりを告げるはずだった。
そして、しばらくは海外で家族ともどもゆっくり過ごしたい。
そんなわがままも許されるはずだった。
しかし、追い続けたその矢印の先にいるのは、イメージとは正反対の、腰の曲がった老婆だった。

噂はあった。
先の大戦が始まる少し前に、この国の2世として敵地で生まれた女性がいた。
彼女は、終戦の直前にわずか10代でスパイとして送り込まれた。
それが、今問題になっているM3と呼ばれるスパイの正体だというのだ。
しかし、噂通りなら、M3は今90歳前後だ。
そんな女性が、数々の機密事項を盗み、最新の情報をハックして、さらには、私の前任者を植物人間にしてしまう、そんなことができるはずがない。
その女性が本国に帰れないままこの国で年老いたのは悲劇かもしれないが、M3とは別人だというのが私の考えだった。

しかし、調査結果の全ては、彼女を指差しているのだ。
私の頭の中の羅針盤も、何度その針を指で弾いても、進路はこちらだと彼女を指している。
かくなる上は、彼女が白であることを証明しないと先に進めない。
私は、彼女を見張り始めた。

視界の先を、直角に腰の曲がった老婆が歩いている。
その歩みは、もうどこかにたどり着くことなど諦めたかのように遅い。
夕暮れの舗道に長い影が延びている。
尾行というものは、普通は、相手が早く歩いてくれる方がやりやすい。
ゆっくり歩かれる方が難しいものだ。
しかし、この場合には、違った。
あんな老婆に感づかれる心配はない。
しかも、彼女の体が弱っていれば、それだけ彼女が白である可能性は高くなるわけだ。
私は、一定の距離を保ちながら、彼女の跡を同じようにゆっくり歩いた。
牛歩というものを見たことはないが、こんなものだろう。

彼女がシャッターの降りた煙草屋を曲がった時だった。
彼女を追うように1人の男が走っていった。
迂闊だった。
万が一、彼女がM3なら、彼女を追うのは私一人ではあり得ない。
彼女はM3ではないと決めつけていた私の失策だ。
一瞬だが、男の手に刃物が握られているのが見えた。
私は駆け出した。

角を曲がったところで、男は倒れていた。
首は180度捻じ曲げられて、こと切れているのは明らかだ。
その少し向こうを、老婆は同じ速度で、腰を曲げて歩いている。
追いかけようとした私の前に、彼女が背中越しに放った包丁が突き刺さった。
腰の拳銃を構えたとき、不覚にも私は彼女の名前を口走ってしまった。
「ナターシャ! 」
彼女は立ち止まり、横顔を見せた。
その瞳が、一瞬ではあるが、悲しげに揺れた。
たじろいだ私が、しまったと思った時には、彼女の姿は消えていた。
夜の帷が降りようとしていた。








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