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『転落願望』

どうやら私には転落願望とでも呼ぶべきものが備わっているようだ。
あと一歩というところで、自ら転げ落ちてしまうのだ。
それは比喩的な意味でもそうだった。

古くは小学校の頃の運動会。
50メートルの徒競走で、私はいつもトップに躍り出る。
2位の子と差を広げ、ゴールまであと10メートル、そこで決まって転んでしまうのだ。
膝をすりむき、立ち上がる頃にはみんなゴールした後だ。
応援に来ていた両親のため息が聞こえるようだ。
わざとでは決してない。
後に読んだ「長距離走者の孤独」の主人公のような、そんな怒りなどあるはずもなかった。

高校の入学試験でのこと。
第一志望のテストは、どの科目も得意な分野の問題で合格間違いなしだった。
しかし、あろうことか、私は最終テストを終えてその教室を出ようとする時に、試験官の教師に殴りかかってしまったのだ。
理由は、覚えていないから、些細なことだったのだろう。
もちろん、私の人生で自分から殴りかかったことなど、それが最初で最後だ。
おとなしいペットの犬が突然飼い主に噛み付いたようなものですかね。
母はそう言い訳をしていた。

髪の毛の中を探ってみると、いくつかの傷が残っている。
両親の話では、歩き出してすぐに頃には、とにかく高いところに登っては転げ落ちていたらしい。
それも、血を流すほどのケガをするような高さから。

同じように、大学生の時には、文字通り何度も転落していた。
酒に酔っては、様々なところから落ちていた。
駅のホームは言うまでもない。
地下鉄の入り口や、歩道橋の階段。
雑居ビルの裏口。
ある時などは、学校の中庭の池の中で目覚めた。

もちろんこんなことを続けていてはいけないのはわかっている。
就職してからは、自分の人生を変えようと懸命に働いた。
朝早くから、サービス残業も厭わずに、すれるゴマもすりまくった。
妬む同僚を尻目に、どんどん昇格した。
そして、いよいよ若くして役員への人事が決まりそうになった。
サラリーマンとしては、ほぼ登り詰めたと言ってもいいだろう。
そんなある日の昼下がり、私は、上司と喧嘩して辞表を叩きつけてしまった。
これは、もはや私の中に潜む願望のなせる技と言わざるを得ないだろう。

このことが原因で、婚約中の彼女とも喧嘩した。
もう、こんな人生は終わりにしたいと思った。

今、私は彼女とビルの屋上に来ている。
これで最後だ。
私の人生の転落もこれで終わるだろう。
「やめて」
彼女の声。
私は構わずに一歩踏み出す。
もう一歩、そしてもう一歩。
彼女の手を振りほどく。
彼女の顔が遠ざかっていく。
「さよなら」
衝撃。
悲鳴。
私は路上に横たわる彼女を見つめていた。

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