見出し画像

『街クジラの季節』 # シロクマ文芸部

街クジラの季節になった。
毎年、この季節、つまり梅雨が明けて、小学生ならあと少しで夏休みという季節になると、街クジラがやってくる。
と言っても、街クジラが見えるのは僕じゃない。
弓削くんだ。
この季節になると、弓削くんは、授業中もずっと窓の外を見ていた。
休み時間も、ひとりで、校庭の半分だけ埋められたタイヤに腰掛けて、空を見上げている。
ある時、僕は弓削くんに尋ねてみた。
「何を見てるんだよ」
弓削くんは、空を見上げたまま、
「街クジラ」
と、ボソッと言った。
変なことを言う弓削くんが、気味悪くなった。
それが、小学校3年の時だ。
それから、6年生になっても、それは変わらない。
その間に、弓削くんの奇癖はみんなの知るところとなり、ずっとみんなから、からかわれてきた。
弓削くんはそんな時も、何も言わずに空を見上げていた。

1学期の終了式の帰り道、少し前を弓削くんが歩いていた。
その道は、途中に信号のない横断歩道がある。
道路は結構交通量が多く、いつも母親からは気をつけなさいと言われている。
弓削くんは、横断歩道の手前まで来ると立ち止まった。
その時、急ブレーキの大きな音がした。
かん高い、周囲を威嚇するような響きだ。
見ると、一年生くらいの女の子が、道路の真ん中で立ち尽くしている。
もう、間に合わない。
ダンプカーがタイヤを軋ませながら女の子に迫る。
と、弓削くんは、ランドセルを放り出すと、目に見えないような速さで、女の子に駆け寄り、抱き上げると、そのまま反対側に走って行った。
ダンプカーは、横断歩道を通り越したところで停止した。
怒鳴る運転手に、弓削くんが頭を下げている。
ダンプカーが行ってしまうと、泣きじゃくる女の子を慰めた。

僕は駆け寄って弓削くんに声をかけた。
「すごいじゃないか」
弓削くんは、決して体の小さい方ではない。
むしろ、背の順では後ろの方で、少しお腹も出ている。
そう、体も顔もムーミンそっくりなのだ。
そんな弓削くんが、あんなに機敏に動けるなんて。
僕たちは、女の子を家まで送っあと、河川敷の公園に行った。
明日から夏休みなので、気分にも、時間にも余裕があった。

「街クジラが、助けてくれるんだ」
「え」
僕はまた、その話かと思った。
あの弓削くんの動きが、もともと彼に備わっていた、僕たちがその体型からは想像だにしなかった身体能力によるものなのか、あるいは、彼が言うように、その街クジラとやらに授けられた特殊なパワーなのかは、わからない。
ただ、弓削くんがそれ以上何も言わず、僕も聞けなかったので、そのまま時が過ぎた。
次第に僕は、特に親しくもない、変な話をする弓削くんとここに来たことを後悔し始めていた。
川面の光が少しずつオレンジ色に変わっていく。
「毎年、今頃に、やってくるんだ。そして、僕に力をくれるんだ」
唐突に、弓削くんが言った。
「見えるの」
「うん、見えるよ」
それから、また会話は途切れた。
公園で遊ぶ子供も少なくなってきた。
「あ」
突然、弓削くんが声をあげた。
「ほら、あそこ」
弓削くんは橋の向こうの空を指差した。
「街クジラが、大きく旋回してるよ」
僕は、弓削くんの指さす方を見た。
「あ」
思わず声が出てしまった。
確かに、大きなクジラが体を捻って旋回していたのだ。
夕焼けの空の中で、少し半透明の体を光らせながら、それは、図鑑でみたシロナガスクジラそっくりだった。
「ほらね。街に現れるから街クジラなんだ。あのクジラが、僕たちを助けてくれるんだよ」
旋回したクジラは、夕陽の方に向かって、ゆっくり街の上を泳いで行った。

後にも先にも、僕が街クジラを見たのは、その時だけだ。
2学期の始業式の日、弓削くんの姿はなかった。
先生は、皆さんに寂しいお知らせがありますと言って、弓削くんが転校したことを話した。
これは、後からわかったのだけれども、母親が再婚して、弓削くんは、祖母に引き取られたらしい。
母親に連れて行かれなかった弓削くんの気持ちを考えるようになったのは、さらにもう少し後のことだった。

それから、僕は毎年この時期になると、空に街クジラを探すようになった。
あのクジラは、今でも弓削くんの住む街の空をゆうゆうと泳いでいるのだろう。
僕には見えなくても、弓削くんにはきっと今でも見えているに違いない。
あんなことがあっても、弓削くんは、きっと街クジラに力をもらって、くじけずに、誰かを助けて、また、どこかで誰かに話をしているのだ。
ほら、街クジラが旋回しているよ。


この記事が参加している募集

私の作品紹介

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?