『死が2人を分つとも』
夏子はその街並みに戸惑っていた。
初めてくるはずなのに、懐かしい。
この感覚は何だろうか。
そうだ、確かにこれはあの頃の街並みだ。
記憶という名の闇が少しずつ明るくなってくる。
そして、その記憶がひとつひとつ今に置き換わるようだ。
すっかり寂れていたはずの商店街には、人が溢れている。
自分もそちらの方に進んでみる。
閉店して、有名なチェーン店になっていた喫茶店が、以前のままで営業している。
他にも、閉まっていた店が再開している。
再開したというよりも、ずっと以前からやっていたような雰囲気だ。
でも、中にはシャッターが降りたままのところもある。
ここは駅の前。
駅ビルが大きなショッピングモールになっている。
そうだ。
よく訪れていた。
最近は、少しずつ撤退する店が出てきて、寂しくなっていたのだけれど。
しかし、中に足を踏み入れると活気に溢れている。
多くの人が行き交っている。
今日は日曜日か祝日だろうか。
子供連れの姿も多い。
中央の吹き抜けを、透明のエスカレーターが絶え間なく上下している。
これは、記憶ではない。
今だ。
上階にある映画館。
この頃はまだ、映画をスクリーンで見る習慣が残っていたのだった。
懐かしく思い出す。
売店の前には行列ができている。
どんな映画がやっているのだろうか。
いちばん大きなポスター。
待望の続編、ついに公開!
そうだ。
1作目を母が見てファンになっていたあの俳優。
彼が亡くなってもうかなり経つはず…いや、そうではない。
彼は生きている。
そして、あの人も…感じる、生きているのを感じる。
たっ…ちゃん。
夏子は、赤いパンツのポケットの中で何かが振動しているのに気がついた。
中から、四角いトランプ大の液晶画面を取り出した。
振動が止まって、文字が浮き上がる。
「なっちゃん、…」
彼は新聞の社会面を見ていた。
「メタバースの悲劇」
それにしても、この新聞というやつは、紙に印刷して毎日配達なんて、よく生き残ってるもんだ。
しかも、この警察組織は、あいも変わらずそれを購読し続けているとは。
彼は、その大きな見出しの記事に目を走らせた。
老夫婦がメタバースの世界で遊んでいるうちに、お互いの死に気づかないままに亡くなってしまった。
しかも、2人は慣れない世界でお互いに迷っていたのではないか。
2人に身寄りはなく、死体は、ゴーグルをつけたままほぼ白骨化していた。
まさにメタバースの悲劇だと記事は結んでいた。
そして、彼はデスクの上に目をやった。
そこには、今の記事の一件書類が積まれている。
これから目を通さなければならない、厚さ5センチになろうかという書類の山。
事件性がなかったからこれですんだようなものだ。
普通なら、この3倍以上の書類に目を通すことになる。
もちろん、これを作成する部下も大変なのだが。
脱紙ベースと言われてから、もう半世紀近くになるというのに。
大きくため息をつくと、書類をめくり始めた。
彼は部下を手招きした。
現場の写真を見せると、
「ほら、死体がつけている、この小さなメガネのようなやつ、ゴーグルだな」
と指差した。
「俺が子供の頃は、ロボットの頭くらいのやつをかぶっていたんだぜ。メタバースで遊ぶ時には」
キョトンとする部下を席に戻して、また書類に読み耽る。
3分の1ほど読み進んだところで、彼の手は止まった。
そして、デスク脇の新聞をもう一度手に取った。
「メタバースの悲劇」の見出し。
「いや」
と彼は声に出した。
「違うかもしれない」
何人かの部下が、驚いて顔を上げた。
その中の目の合った部下を呼んだ。
「これは書き直しだ。見たまえ」
彼は書類のある箇所を示した。
「2人の死亡時間と、アバターが動き出した時間、つまり2人がメタバースに入り始めた時間が、ほとんど同じじゃないか。
2人はメタバースではぐれて、亡くなったのではないよ。
逆だ。2人は亡くなると同時に…」
夫は妻に告げた。
「僕たちは間も無く終わりだ。多分、僕の方が先に逝くだろう。そうしたらすぐにこれをオンにしてくれ。
そして、君がもうダメだと思ったら、迷わずに君もオンにするんだよ。
あの日、僕たちが初めてデートした日、覚えているかい。
あの映画を見に行った日、あの日からもう一度スタートするんだ。
プログラムは完璧だ。
今度は、永遠にね」
妻は夫の手を握った。
辰雄は何日もその売店の前で待ち続けていた。
他の客がどんどん彼を追い越して、ポップコーンやドリンクを買っていく。
彼はそれを尻目に待ち続けた。
ようやく、シネコンの入り口にその姿を見つけた。
不安そうに、キョロキョロしている姿がいじらしい。
あの日と同じだ。
仕草も、姿も。
あの赤いパンツ。
彼は、すぐに手元のスマートホンからメッセージを送った。
「なっちゃん、ドリンクはコーラでいいよね」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?