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『腕と尻尾』

体の異変というものは、朝目覚めた時に感じることが多い。
ところが、その日は何ともなかったのだ。
普通に朝食を食べ、いつもと同じ時間に家を出た。
改札では、右手で鞄を持ち、左手でパスをかざす。
あらためて説明するまでもない。
それは、始業時間を過ぎて少ししたころだった。

朝から電話の多い日だった。
左手に受話器、右手でメモを取りながら、コーヒーが飲みたいと思った。
コーヒーは目の前のパソコンの左手に置かれている。
先ほど、後輩の谷村君が入れてくれた。
いつも自分でやるよと言って、実際にそうしようと思うのだけれども、それよりも先に彼女はカップを持ってくる。

普通なら、その状態でコーヒーを飲みたいと思えば、受話器を右の顎と肩に挟んで固定をして、左手をカップに伸ばすだろう。
ところがだ。
僕は、どうしたか。
なんと、三本目の腕をカップに伸ばそうとしたのだ。
もちろん、そんなものは無い。
生まれてこのかた、三本目の腕などあった試しはないのだが、その時には、
「ああ、無いのだった」
と、さもそれが失われたモノであるかのような納得の仕方をしていた。
その日は、その後も何度か、両手が塞がっている時に、第三の腕を伸ばそうとした。

幻肢と呼ばれる症状を聞いたことがある。
事故や病気で腕や足を失った人が、無いはずの腕や足の存在を感じることがあるらしい。
時には、そこに痛みを覚えることもあるとか。
しかし、僕の第三の腕は失ったものではない。
最初からなかったのだ。
もちろん、腕が三本ある状態で生まれて来たのを、両親が医者に頼んで即座に切り落としてもらったと言うことも、考えられないわけではない。
しかし、それならそれで、体のどこかに切断の痕のようなものが残っているはずだが、そんなものは僕の体のどこを探してもない。

そんなことが何日か続いたある日。
ランチから戻ってくると、谷村君が待ち構えていたかのようにコーヒーカップを手渡してきた。
いつものことだが、こちらとしてはありがた迷惑でしかない。
今のご時世、男尊女卑だ、パワハラだと、いつ誰に咎められるかもしれない。
それでも、用意されたものを断ると、これはこれで面倒なことになるだろう。
仕方なくカップを受け取って席につく。

このおさまりの悪さはなんだろうか。
よく椅子に座布団などを敷いている社員がいるが、僕は何もおいていない。
ところが、なんとなく尻から股にかけてが、モニョモニョしている。
何か筒状の柔らかいものを踏んでいる感覚だ。
わざと用事を思い出したようにして、とりあえず一度立ち上がる。
そして、いや、やっぱりあれは終わっていたと気がついたように座り直す。
その時には、その筒状のものを股の間に挟まないように、腰を少し後ろに突き出しながらゆっくり尻を椅子の上に下ろした。
すると今度は、何の違和感もない。
谷村君がこちらを盗み見て含み笑いをしている。
誤解されない程度に、笑みを返しておく。

それが尻尾だと気がつくのに時間はかからなかった。
もちろん、第三の腕と同じで、尻尾などはない。
人間も、猿のようなものであった頃には尻尾があり、その名残りが尾てい骨であると聞いたことがある。
本当かどうかはわからないが、稀に尻尾のある人がいるとも聞く。
しかし、僕にはもともと尻尾などないし、仮にこれが幻肢だとしても、そんな太古の昔の猿のさらにその祖先のような時の記憶を、僕が持っている筈もない。

しかし、感覚というものは慣れるようだ。
第三の腕にも、尻尾にも、慣れてしまえば、特に困ることもない。
実際にそんなものがあれば問題は別だが、感覚だけで、誰にも、僕にさえ見えていないのだから。

谷村君が朝のコーヒーを持って来てくれる。
最近では、もう諦めて、堂々と「ありがとう」と受け取ることにしている。
湯気の立つカップをいつも通りに、パソコンの左側に置きながら、谷村君は僕の耳元で囁いた。
「腕と尻尾」
そして、周囲を確認すると、僕の第三の腕に手を置き、尻尾をすっと撫で上げた。






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