『明日』
重そうな雲が垂れ込めている。
高層ビルを飲み込もうとするようだ。
ビルの間を駆け抜けてくる風は冷たい。
午後の街を歩く人はみんなどこかに向かっている。
雨が降り出す前に目的地に到達したい。
空に昇るのを雲にはばまれたシュプレヒコールが、低くゆっくり通り過ぎる。
母親は子供の手を引っ張って横断歩道を渡っている。
その先に何が待っているのか、わかっているのだろうか。
それでも母親は子供の手を引っ張って横断歩道を渡り切ろうとする。
その何かは、自分のものか、子供のものか。
2人の同じ色のマフラーが風になびく。
セールスマンは歩き続ける。
今月に入って2足目の靴ももう穴があきそうだ。
一軒一軒、実印を押すように呼び鈴を鳴らす。
何を売っているのか。もちろんセールスマンは知っている。
しかし、もしかするともっと他の何かを自分は売っているのではないか。
時おり、セールスマンは立ち止まって考えた。
そしてまた歩き始める。
横断歩道の白いところを踏みながら。
大通りから入ったところにあるジムでボクサーは叩き続けた。
サンドバッグを何度も何度も何度も叩き続けた。
今地球が滅びても気付かないだろう。
ボクサーも汗を拭きながら、時おり考えた。
何かを、変えられる。誰かの何かを、俺のパンチで。
そしてまた叩き始める。
ガラス張りの向こうに横断歩道が見える。
青年は立ち止まっていた。
高いビルを見上げて。
その上にのしかかる薄汚れた雲を見上げて。
着古した外套は、いく冬にもわたる北風との戦いに疲れ果てていた。
信号が青に変わった。
追い越して行く人たち。
青年は通りの向こう側に目をやると、少し遅れて歩き出した。
その時、ポケットの中で握りしめた外套のボロ。
後年彼は思い出すだろう。
人生のいくつもの枝道のひとつを自分は歩んでいるに過ぎないと知った時に。
外套のポケットの中で握りしめたものが本当は何であったかを。遠い昔に処分した外套の。
明日ありやあり外套のボロちぎる 秋元不死男
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