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『滅亡の日に飲むコーヒー』

お酒の飲めない私は、いつもそのバーのカウンターでコーヒーを飲んでいる。
バーに女性ひとりも珍しいが、そこでコーヒーだけを飲む女性はもっと珍しいだろう。

残業が深夜まで及んだ帰り道。
私はコーヒーがたまらなく飲みたくなった。
それも、自分ではなくて、誰かに淹れてもらったコーヒーを。
別にコーヒーにこだわりがあるわけではない。
豆の違いもわからないし、どんな淹れ方でも構わない。
急いでいる時には、インスタントで済ませることもある。
ただ、コーヒーが好きなだけ。
でも、その時は深夜。
通りを探しても、喫茶店はどこも閉まっている。
そんな時に、そのバーの小さな看板が目に入った。
もちろん、バーのなんたるかは知っている。
でも、その時のわたしはひらめいた。
疲れた頭は、時には暴走気味に回転するようだ。
お酒のシメにコーヒーを飲む人だっているだろう。
ウイスキーやら何やらを飲んで、最後にコーヒーを頼む。
そんな客だっているはずだ。
二日酔いだと言って、普段飲まないブラックコーヒーを飲んでいる友人もいた。
コーヒーはきっとある。
私は、木製の少し重たいドアを開けた。
「いらっしゃい」
「コーヒー、ありますか」

それ以来、少し疲れた時や、帰りが遅くなった時には、そのバーのカウンターでコーヒーを飲んでいる。
年配のマスターはこちらが話しかけた時だけ、笑顔で応じてくれる。

「もし、今日が、いえ、もう夜遅いから、明日が人類滅亡の日だとしたら、どうしますか」
私はある日マスターに尋ねていた。
後ろのテーブル席の若い男性2人がこんな会話をしていたからだ。
「そうですねえ」
そう言って、マスターはこんな話をしてくれた。
その村では、一夜明けて人々は慌てふためいた。
昨日が人類最後の日だと聞いていたからだ。
そう聞いていたものだから、村人は、夫婦、親子、兄弟、親類、友人、親方に弟子、隣近所に至るまで、お互いに洗いざらい日頃のわだかまりをぶちまけあった。
まさか今日という日があるなんて。
「気まずいですよね。その人たちは、どうなったんですか」
「争いごとが絶えなくなったか。でもね、案外、思いを打ち明けあって、上手くいったかもしれませんね」
「上手く行くかなあ」
「どうでしょうか」
そのまま、しばらく会話は途切れた。

空になりかけたカップにマスターはコーヒーを追加してくれる。
「おかわりは無料ですから」
最初の日にマスターは言った。
私が毎回おかわりをするので、今では黙っていても注いでくれる。

「もしその時に、好きな人がいたら」
マスターがカウンターの中に戻ってきたので話しかけた。
「滅亡の日にですね」
グラスを拭きながら、マスターは答えてくれる。
「そう、その時に、好きな人がいたら、告白するべきでしょうか」
「それは、そうでしょう」
「でも、ふられちゃって、もし」
「もし、人類が滅亡しなかったら、ですね」
マスターはいつも下を向いたり、他の客の方を見ながら話す。
「そうです。ふられても、滅亡するならいいっやって思って告白したのに、あの村人みたいに、朝目覚めて、まだ世界が続いていたら」
マスターは、グラスをひとつひとつ後ろの棚に丁寧に並べていく。
「また、新しい恋をすればいいじゃないですか」

マスターには申し訳ないが、私はこの店の名前を覚えていない。
場所さえわかっていれば、誰に教えるわけでもない。
私は、今日こそこの店の名前を覚えて帰ろうと思った。
明日滅亡するとわかっても、この店に来ているような気がしたからだ。
それに、多分、マスターも店を開けているだろう。

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