『流された神様』
いつからその男が住み始めたのかは誰もわからなかった。
気がつけば、その橋の下に住み着いていた。
まるで、あの流木がいつからあるのだとは、誰も言えないように。
目を凝らすようなことがなければ、誰にも見えていなかったのかもしれない。
それくらい、男の姿は風景に溶け込んでいた。
それでも、異質なものはやがて人々の目に留まる。
日光写真が浮き上がるように、人々の日常の中にその姿を現してくる。
長く伸びた髪と髭は、村人のそれとは違った。
着古した、汚れた肌の色と変わらないような服も、村人の着るようなものではなかった。
その生活も、村人のそれとは全く重ならないものだった。
男が働くことはなかった。
人々が農作業に精を出している時にも、男は橋の下で寝ているだけだった。
目を覚ますと、時々、ふらっとどこかに歩いていった。
後をつけたものは誰もいない。
いつ戻ってきたのかも、誰も気がつかないが、翌朝には橋の下で目覚めていた。
時々、釣り糸を垂れている時があった。
ただ、何かを釣り上げているのを見た者はいない。
戦後間もない頃で、身寄りのない引き上げ兵ではないかとの噂もあった。
これまでにも、そのような者が迷い込んできたことはあった。
ありはしたが、村人がその者の存在に気がつく頃には、どこかに消えてしまっていた。
この男のように、それ以降もそのまま居続けているのは初めてだった。
学校でも、子どもたちに、決して橋の下の男には近づかないようにと話がされた。
しかし、子供たちにとって異質なものは、その残酷性を満たすのに格好の遊び道具である。
学校の行き帰りに、その橋の下へ近づく生徒が絶えなかった。
決してひとりで近づく勇気などないし、誰かが見ていなければ意味のない行為だった。
どこまで男に近づけるか。
男が少しでも身じろぎしようものなら、歓声をあげて逃げてくる。
もちろん村人もあえて近づきはしなかったが、かといって追い出すこともなかった。
よそ者とはいえ、害のない者を追い出すような習慣はまだなかった。
その年は梅雨の初めから天候は不安定だった。
しかし、まだまだ人々は、ラジオから流れる天気予報よりも、空や山の徴を読むことに頼っていた。
雨は午後になって降り出した。
村人たちは、山の同じ方を眺めて、夜半には止むだろうと口を揃えた。
早々に農作業を終えて、家路についた。
雨は止むどころか勢いを増した。
その時すでに、川の様子を見に行ったひとりが流されていたのだが、村人が知ることになるのは、翌朝になってからだった。
老人たちにも、これまでにその堤防が決壊した記憶はない。
語り伝えられているいくつかの物語にも、そんな話はない。
見回りをしていた若い男たちの声が村の中を駆け巡ったのは、村人が眠りについてしばらくしてからだった。
着の身着のままで、高台にある神社の本殿の軒下に身を寄せた。
戦争中でもこんなことはなかったと、村人は話し合った。
少し遅れて、ひとりの女が泣き叫びながら駆け上がってきた。
赤ん坊が流されたと叫びながら。
ほとんど裸同然の女は、村人の差し出す手の中に倒れ込んだ。
幾人かの男が立ち上がった。
だが、動き出す者はいない。
見下ろした先に、もう生まれ育った村の姿はなかった。
夜が明ける頃には、雨も止んだ。
村人は、引いていく水に引き寄せられるように、高台から下りていく。
泥に埋まった家のことは後にして、赤ん坊の捜索が始まった。
川まで出て人々は息を呑んだ。
橋は、橋桁から跡形もなく流されている。
まだ勢いの残る水が、ここは俺たちのものだと言わんばかりに肩を揺すっている。
午後からは、男たちは捜索に残り、女たちは各自の家を片付けに戻った。
ただ、赤ん坊の母親だけは、男たちとそのまま河原に残った。
陽が傾くにつれて、男たちの仕事は、赤ん坊を探すことよりも、母親を慰めることの方が多くなってくる。
誰かが、川下に向かって声を上げた。
男たちと母親は立ち上がって、同じく川下に目を凝らした。
河原を歩いてくる人影があった。
人影の歩みは遅い。
近づいてくるその間にも、夕暮れはその色を濃くしていく。
やがて、長い髪の輪郭が見てとれると、人々の間から落胆とも取れるため息が漏れた。
あの男か。
あらためて、村人は、そこに橋があったことと、男が住み着いていたことに思いを馳せた。
その男のことなど考えもしなかったことに対する、幾ばくかのやましさとともに。
しかし、男の長い髭と、その無表情な顔が見えてくるようになると、ため息が少しずつ声になっていった。
そして、その手に抱かれたものを見ると、男たちは走り出した。
母親はその先頭に立つ。
母親の手の中で、泥だらけの赤ん坊は激しく泣いた。
母親は、赤ん坊を胸に抱き締めると、
「ああ、神様」と男の前にひれ伏した。
何人かの男たちは、その男に向かって手を合わせた。
男は表情を変えなかった。
もっとも、赤ん坊以上に泥に覆われた男の表情など、誰にもわからなかっただろうが。
様子に気づいた女たちもいつの間にか、夕闇の河原に集まっている。
男は、母親の肩に手をかけて立ち上がらせた。
「神様はその子だ」
初めて聞く男の声だった。
その後、男はしばらく神社の境内で生活をしていた。
ある朝、村の女が朝の食事を届けた時に姿が見えなかった。
それ以来、男の姿を見た者はいない。
流された橋は復旧され、袂の立て札には男のことが記された。
その札も、今はもうない。
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