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『まだ咲かぬ桜の木の下で』

なぜか、その堤防には一本だけ桜の木がある。
堤防の上の狭い道から数歩、川のほうに下ったところに生えている。
一本だけだから、桜の名所などではない。
春の満開の季節には、時折、親子連れがその下でレジャーシートを広げたりすることもあるが、その程度だ。
あとは、そこをウォーキングやジョギングで通り過ぎる人が、見上げるくらいだろうか。
もちろん、ライトアップなどされるわけもない。
いつからあるのかは、わからない。
少なくとも、私が幼い頃、まだ大人に手をつないでもらって歩く頃には、そこにあった。

恐らく祖父は、ずっと以前からその桜の木を訪れていたのだと思う。
毎年、たった一度だけ、3月の初めに。
花が咲くにはまだ早い、少し肌寒いその時期に。
「おじいちゃんと一緒に行くか」
そう尋ねられたのを覚えている。
それが、私のいちばん古い記憶だ。
その少し後に、4歳の誕生日を祝ってもらった記憶があるので、その時の私は3歳だったのだろう。
祖母が、
「これからはこの子と一緒にいけますね」
そう言いながら祖父の服を用意すると、母は私に、分厚い上着を着せた。

堤防に出て、ゆっくり15分ほど歩くと、その桜の木に着く。
何時くらいだったのだろうか。
いつも同じ時間だったと思う。
その季節の日暮前の時間。
その桜の下に来ると、祖父は立ち止まりじっとその木を見つめる。
そんなに長い時間ではないが、その時の祖父が幼い私には少し恐ろしくもあった。
桜の木を見つめる祖父の顔が、何となく見知らぬ大人の顔に見えたからだ。
私たちは、手をつないだままゆっくり来た道を引き返す。
途中の駄菓子屋で、ひとつふたつ、祖父はお菓子を買ってくれた。

そんな2人の、年に一度の桜もうでも、私が小学校の3年くらいになり、友人と暗くなるまで遊び回るようになると終わりを告げた。
その後は、また祖父がひとりで行っていたようだ。
私が中学に入った頃に、父の仕事の都合で私たち家族は祖父母と別れて、少し離れた都会に引っ越した。
お盆や正月には家族で帰省したが、わざわざ咲いてもいない桜を見に行くことはない。
やがて、私が就職して、さらに別の街に住むようになると、私の帰省先は両親のいるところになるので、祖父母を訪ねることは正月くらいになった。
結婚して、最初の子供、娘が生まれてすぐに、祖母が亡くなった。
そして、何年もたたずに祖父が亡くなった。

しばらくは、祖父母の家はそのままになっていたが、父と父の兄、姉で相談した結果、整理することになったようだ。
そのために帰っていた父から、メッセージが届いた。
あの桜の木は、堤防の拡張工事のために、今年の夏には撤去されるらしい。
父がなぜそれだけを知らせてきたのかはわからない。
私には特別な思い入れなどはない。
もちろん、祖父との思い出の中に出てくる光景ではあるとしても。
あるいは、父も幼い頃、祖父に手を引かれてあの堤防を歩いたのだろうか。

祖父と何度か訪れた桜の木だが、一度だけ覚えていることがある。
いつもと同じように祖父がその木を見つめた後、引き返そうとしていた時のことだ。
ひとりの老婆とすれ違った。
歩き続けようとする私の手を祖父が、強い力で引き留めた。
祖父が振り返った時間は短かった。
振り返った祖父と、桜の木の下で、私たちと入れ違いに立ち止まる老婆。
私たちはまた歩き続けた。
一瞬、強い風が吹いたのを覚えている。
それが春一番だったのかどうかはわからないが、今の私ならこう表現するだろう。
その時、春一番が遠い過去から吹いてきたと。
もちろん、その過去については、私は、いや他の誰も、祖父以外の誰も知らないのだが。
それに、その過去は、そもそも私の想像に過ぎない。

毎年同じ日に訪れていたであろう、その正確な日付はわからないが、夏までには一度訪れてみようと思う。
いや、夏と言わずに、できればもう少し早く、桜の満開の頃までには。

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