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『タッチ交代』

疲れていた。
このところ残業が続いていたせいもある。
先週の土日は休日にも関わらず、取引先のイベントに駆り出された。
勤務中にも、ついつい居眠りしそうになることがある。
同僚たちは、会社に泊まった方が楽なんじゃないのかとからかってくる。
食欲もない。
ただ、何かが違うのだ。
疲れが溜まったと思うのは、これが初めてではない。
まあ、分類するならばブラックな職場なので、これまでにも何度もこんなことはあった。
休みてぇーなー。
突然叫び出すこともある。
この職場では珍しいことではないので、誰も気にしない。
しかし、今回の疲れは少し違うのだ。
生きることに疲れていた。

と言っても、別に、死にたいとかそういうことじゃない。
およそ30年間、毎日生きてきた。
呼吸をして、歩いて、座って、眠って。
顔を洗い、歯を磨き、朝食を食べ、学校に行き、やがてそれが会社に変わり、働いて、帰って、クソして、眠る。
誰かを好きになったり、嫌いになったり。
大騒ぎしたり、セックスをしたり。
その、生きるという、所作そのものに疲れてきたのだ。
死にたいわけではない。
そうではないが、そろそろ生きることに関しての、労働時間がかなりオーバーしている、そんな感じだ。
職場もブラック企業だが、それはいつでも辞められる。
そう思うから、まだ続けてもいられる。
しかし、この生きることは、辞められない。
呼吸を休めば、死んでしまう。
死にたいわけではない。

「お疲れ様」
ワンルームの玄関を開けると、中から聞き覚えのある声がした。
しかし、思い出せない。
いったい誰だ。
いつでも逃げ出せるように、ドアを開けたままで尋ねる。
「誰」
少し間をおいて、
「嫌だなあ、早く入って来なよ」
念の為に鍵を開けたままで、中に入る。
部屋のテーブルに座る姿を見て思い出した。
俺の声だったのだ。
俺が、いや、俺の真似をした奴が目の前に座っている。
「あらためて、今までお疲れ様。今日でタッチ交代だよ」
「交代って」
そいつは、座ったまま頭を下げた。
「いやあ、本当に申し訳ない」
「何がだ」
「本当は、もっと早く交代しなけりゃ行けなかったんだけどね」
そいつは、目の前の缶ビールを飲んだ。
もしかして、俺の冷蔵庫から出したのか。
「なんか、手違いがあったらしくてね、僕のところに連絡が来るのが遅れちゃったんだよ」
「手違いとはなんだ。そもそもお前はいったい誰なんだ」
俺も、冷蔵庫から缶ビールを出した。
咄嗟に数を数えた。
やっぱり俺のビールだ。
自分に似た他人を前に、妙に落ち着いている自分が不思議だ。
「詳しくは言えないんだけど、僕は君、正確に言うと、君の代走みたいなものかな。とにかく、君はこれからしばらくゆっくり休んでくれていいよ」
まだ、事態が飲み込めない。
「そんな話が信じられると思うのか」
「じゃあ、もう少し説明するよ、でも簡単に」
俺と同じ声で言うと、そいつは、テレビをつけた。
「あっ、これは隣の部屋から聞かれないようにカモフラージュだよ」
ボリュームを少し上げて、話し出した。
テレビでは、タレントがカラオケに挑戦している。
「考えてもみてよ、同じ人間が70年も、80年も、いや100年も、生きられると思うかい。肉体的には可能でも、飽きちゃうよね。君だって、て言うか、僕だってと言うか、まあ君だって、これまでの転職の原因は、ほとんどが飽きちゃったからだろ」
「まあ、そうだ」
「人生もそうさ。毎日毎日、息するだけでももう飽き飽きしてるだろ。だから、時々こうして交代するんだよ。みんな言わないだけで、どこかのタイミングで交代しているのさ。でないと、人生、やってられないよね。そんな、どこかのブラック企業みたいな人生って、嫌じゃない」
「みんなもだと。それじゃ、知らないのは俺だけってことか」
「まあ、そこは深く考えずに、今日で、ほら、タッチ交代」
そう言って、そいつはハイタッチのように右手の掌をこちらに向けた。
それに、俺も同じく右手の掌を合わせたところで、目が覚めた。

夢か。
枕元の時計を見る。
いけない、遅刻だ、急がないと。
その時、
「行ってきまーす」
と、いつになく元気な俺の声がした。
ドアが閉まり、鍵をかける音。
そして、俺の足音が廊下をかけていった。

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