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言葉はいつも誰かのために

誰にでも好きな言葉のひとつやふたつはあると思う。
あの時支えてくれた言葉、いつも励ましてくれる言葉。座右の銘とまではいかなくても、いつも寄り添ってくれる言葉。

僕もいくつかの言葉を支えにして生きてきたけど、ひとつあげるとすればこの言葉。

「不求真」

これは永嘉幻覚禅師の「証道歌」の冒頭に出てくる言葉、と言うのは今カンニングしながら書いてる。
全文は

君見ずや
絶学無為の閑道人
不徐妄想不求真

これを僕は勝手にこのように解釈している。

アカデミックな学問から離れて、成すべき事などからも解放された
本当に自由な人は
妄想が湧いてきてもあえて取り除こうとせずにやり過ごし
真の自分をどこかに追い求めたりもしない。

若い頃、僕は生きるのが少し下手で、そんな人が集まるところにいたことがある。
毎週、院長先生主催の座禅の時間があって、その最後にいろいろな講話を聞くことになる。
大体は退屈な話で覚えていないのだけれども、この言葉を聞いた時には僕の中に響くものがあった。
特に「不求真」という言葉が。
そこを出るときに、お願いして短冊にこの言葉を書いてもらった。

誰でもそんな時期があるのかもしれないが、僕もずっと悩んでいた。
期待されている自分と現状の自分。
あるべき自分と現状の自分。
評価されている自分と現状の自分。
そうじゃないんだ、そうじゃないんだよと思っているうちに一歩も進めなくなっていた。
そんな時にこの言葉と出会った。

自分は今ここにいる自分しかいないんだ、理想を追い求めてもそんなものは幻で、追い求めているこの自分しかいないんだ。

もちろん、凡人の僕はこの歳になってもここじゃない自分を追い求めることがある。
そんな時にこの言葉を思い出している。

「不求真」

人は常に誰かの言葉を必要としている。
言葉とはいつも誰かのためのものなのかもしれない。




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