『泣き虫エース』
最後の大会は、後輩の不祥事で出場辞退となった。
夕暮れのバックネット前で告げられた時、僕たち3年生は泣いた。
部室に戻ってから、他校の生徒と喧嘩をした後輩を3年生は殴った。
殴りながら、まだみんな泣いていた。
僕も、みんなに混じってそいつを蹴った。
蹴りながら、そんなふうにしか気持ちを表せないことが悲しかった。
暗い部室で、その後輩も泣いていたが、多分そいつの涙と僕たちの涙は意味が違ったはずだ。
そいつが何を言おうと、僕たちに蹴られたことを告発しようとかまわない。
いずれもう野球はできないのだ。
退学になってもどうということはない。
どうせ、野球をやるために高校に入ったようなものだ。
それでも、殴らずに蹴り続けたのは、どこかにこの腕を守りたいという思いがあったのかもしれない。
夏休みになると、僕は野球部には顔を出さずに、地元の不良グループと付き合い始めた。
田舎の街だから、小学生の頃から知っているやつもいる。
別に大したことはしない。
たむろして、タバコを吸ったり、ナンパしたり、時には酒を飲んだりするだけだ。
たまには、誰かが万引きをして、商店街を走って逃げることもあった。
夏休みが終わると、担任に呼び出された。
学校を出て2年目の若い女教師だ。
その若さで3年生の担任をするだけあって、性格は結構きつかった。
男女も関係なく、そのために、どちらかといえば女子から敬遠されていた。
職員室の横に続いている小さな部屋だった。
担任は、僕の夏休み中の行動に対して聞いてきた。
あんなに真面目に野球に打打ち込んできたのに、どうしたのかと。
進路のことを考えているのかと。
僕は、後輩の不祥事から野球ができなくなった気持ちを話した。
そして、野球のためにできなかったことをやっているだけだと突っぱねた。
「僕は、もう人間らしく生きたいんだ。やりたいことをやっているだけ」
担任はしばらく黙って僕の顔を見つめて言った。
「そんなのが人間らしいとは思わないけど、少なくともあなたらしくはないわね」
その言葉の何が僕のどこを動かしたのか。
気がつけば、僕は声を上げて泣いていた。
そして、担任を殴っていた。
床に手をついて担任はこちらをにらんだ。
「泣き虫なんだね」
僕は退学になった。
程なくして、担任も教師を辞めたことを噂で耳にした。
僕はその後都会に出た。
もちろん大した仕事はない。
主に水商売で働き、ホストもした。
やがて、いっしょに店を持とうという先輩が現れ、懸命に働いた。
ある日、店舗の契約にと用意した現金とともにその先輩が消えた。
その先輩のアパートの玄関。
西日の中に座り込んで泣いていた。
お金のことよりも、騙されたこと。
そして、自分がこの都会に受け入れられていないと感じたこと。
さあ、もういいだろう、帰りなさい。
そう言われているようで、それが悲しかった。
実家に戻り、仕事もせずに後ろ指を刺される日々。
ある日、ひとりで飲んでいると、目の前に人が立った。
「ここ、空いてる?」
返事も待たずに向かいに座ったのは、あの担任だった。
髪の毛は少し短くなっているが、あの頃と変わらない。
きつそうだった目は、少しおとなしくなっている。
僕は退学後のことを話して、殴ったことを謝った
そして、担任が辞めることになったことも謝った。
「ごめんなさい」
そこで、涙が流れた。
「バカね、そうじゃないのよ」
彼女は自分が辞めた理由を話した。
それは、僕とはまったく関係のない家庭的なことだった。
そのために彼女は実家に帰ることになったのだ。
「もちろん学校とも、父兄とも揉めたわよ、三年生だし。でも、わたしは、わたしらしいと思う方を選んだ」
その実家のあるのが、僕のいた都会だった。
「もしかするとすれ違っていたかもね」
今では、この街の別の高校で再び教職についているらしい。
この街では誰でも知っている中高一貫の私立だった。
「そして、その間にわたしも夫と呼んだ男に裏切られた。でも、わたしは泣かなかった。それも、わたしらしいと思ったからね」
その後、僕は彼女の口利きでその学校の事務に職を得た。
合わせて、野球部のコーチも引き受けた。
僕と彼女は、時々帰りにふたりで飲みに行くようになった。
足取りのおぼつかない彼女の肩を抱いて、家まで送ることも何度かあった。
ある日、彼女は言った。
そして、また僕は泣いた。
もちろん、2人とも少し酔ってはいたが。
「ねえ、泣き虫エース君、今度はわたしがマスクをかぶってあげようか」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?