見出し画像

『世紀の一戦』

度重なる内戦で、その国は荒れ果てていた。
道路は瓦礫で埋め尽くされ、歪でない建物はひとつもなかった。
何度も、停戦の話し合いは持たれ、何度も、停戦に合意はされた。
しかし、しばらくすると、どちらからともなくまた戦いは始まってしまう。
内戦が始まる前の、その国が平和で、人々がひとつであった頃のことを知る人は少なくなった。

「なあ」
とスパーリングを終えた彼は、トレーナーに話しかけた。
ヘッドギアを外そうとしている若いボクサーの肩を叩きながら。
若いボクサーは彼を見て、少し微笑む。
彼は、その目に「なかなかやるじゃないか」と同じく視線だけで答えてやる。
「あいつはまだ俺と戦う気か」
彼と同い年のトレーナーは、彼からグローブを受け取りながら、
「そりゃそうさ。お前を打ち倒さなきゃチャンピオンになれないからな」
「俺は、まだ英雄だと思うか」
彼はリングから降りると、一通の手紙を、リング脇に置いた汗臭いシャツやタオルの詰まった鞄から取り出した。
驚いて彼を見つめているトレーナーに、その少ししわの入った手紙を差し出す。
トレーナーは、その手紙をゆっくり読むと、彼に返した。
「お前はまだ英雄さ。それに、あいつはまだお前に挑戦したがっている」
そして、
「これは、世紀の一戦になるぞ」

彼はチャンピオンのまま引退をするつもりだった。
そうすれば、ずっと英雄のままで残りの人生を過ごすことができる。
故郷の国は荒れ果てているが、もう戻る必要はない。
家族とともに、異国の地で平和に暮らすことができる。
そう思って、いろいろ準備も進めていた。
そこに、若いボクサーからタイトルマッチの話がきた。
戦績は試合数こそ少ないものの、負け知らず、しかも、すべてノックアウト勝ちだ。
「やれば負ける」
そうトレーナーは言った。
彼は、黙っていたが、こう考えていた。
「若いの、俺が引退するまで待て」
前回のタイトルマッチから、もうすぐ一年になる。
実際に年が開ければ、引退表明をする腹づもりだった。
そこに故郷の国から、ある手紙が届いた。

もちろん、ファンレターは世界中から届く。
すべてに目を通すわけにはいかない。
2、3通を手にして、あとはジムのスタッフが手分けをして目を通す。
運が悪いと、封も開けられずにジムから出る大量のゴミに紛れてしまう。
その、彼が手にした幸運な2、3通の中にその少年の手紙はあった。
読み終えると、彼は少年の、そして自分の故郷の国を思った。

試合は全世界に生中継された。
彼の故郷にも。
そして、少年の病室のテレビにも。
そのテレビの前に、母親も、看護師も、医師も、他のスタッフも集まった。
向かいの瓦礫の中では、ヘルメットを被り、ライフルを抱えた男たちが、ラジオを取り囲んだ。
少し離れたところでは、装甲車の中で、日焼けと傷跡で表情のわからない兵士たちが、運転席に取り付けたスピーカーから流れる途切れ途切れの音に耳を澄ませた。
銃声と悲鳴は止んだ。
やがて、少年の病室のテレビからは、テンカウントのゴングが鳴り響いた。
その国には、その時その音しかなかった。

彼は、マットに横たわりながら考えていた。
「生まれてから僕は平和を知らない。大人はずっと戦っている」と書いた少年のことを。
「あなたの戦いには終わりがあるが、僕の国の戦いに終わりはない」
そう続けた少年のことを。
視界の端では、新しいチャンピオンが歓声に応えている。
トレーナーの両腕が彼の体を抱き起こす。
「ゴングはよく聞こえたかい」
トレーナーは一瞬彼を見つめたが、そのまま何も言わなかった。
彼をゆっくりコーナーの椅子に座らせる。
「平和っていうのは、ゴングの音がよく聞こえるもんさ。平和っていうのは、静かなもんさ」
彼の腫れあがった瞼をトレーナーが冷やす。
「それに、俺の戦いにも、終わりはないかもしれない」

中継が終わると、街の静寂に幕が引かれ、再び銃声が鳴り響いた。
病室には、看護師や医師、スタッフは慌ただしく飛び出していき、少年と母親が取り残された。
少年は遠くに悲鳴を聞いた。

この記事が参加している募集

#私の作品紹介

96,611件

#眠れない夜に

69,479件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?