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特別編 コーポレートガバナンスコードと資本コスト(1)

 『楽天IR戦記』のメインストーリーは私の楽天での障害物競争付き長距離走ですが、それとは別に、特別編としてコーポレートガバナンス・コード*にまつわる経験を掲載しています。このうち、企業報告ラボの投資家と企業との資本コストに関する意識のギャップの部分は幅広い方に読んでいただきたいため、noteにも関連資料のリンク付きで無料掲載することにしました。ご覧ください。

経済産業省 企業報告ラボと伊藤レポート


 第2次安倍内閣の「日本再興戦略」の大きなテーマのひとつがコーポレートガバナンスの改革です。国民の資産は年金などを通じ株式に投資されていますが、日本企業の株価低迷が長く続いていました。株価上昇の重要なファクターであるコーポレートガバナンスの強化が政策テーマとなったのです。 

 2014年、コーポレートガバナンス・コードの策定のきっかけとなった通称「伊藤レポート」が経済産業省から発表されました。このレポートによって日本の企業と投資家との対話が本質的に変わる潮目が訪れました。ここでは、伊藤レポートでも議論の軸となった「資本コスト」をめぐる3つのギャップについて、実務家の立場で書いていきます。財務に馴染みのない人には難しい内容かもしれませんが、日本のコーポレートガバナンスの歴史的な変化を近くで観察できた経験を共有したいため、もう少々お付き合いください。 

 私自身の立ち位置を説明すると、私は経済産業省の「企業報告ラボ」の企画委員を務めていました。企画委員会と姉妹関係にあるプロジェクト「持続的成長への競争力とインセンティブ〜企業と投資家との望ましい関係構築〜」の成果が伊藤レポートです。 
 伊藤レポートに先立ち、2012年からはじまった企業報告ラボは、日本の企業価値の向上を目指し、機関投資家、企業関係者、学者などの有識者で委員会が構成されました。発足した当初、
 
  投資家サイドと企業サイドでは認識に大きなギャップがありました。

 投資家サイドは、日本の上場企業の株主価値への関心の低さやコーポレートガバナンスの情報の少なさゆえ、株式市場は日本企業を信用せず、その結果、株価を低く評価しているのだ、と主張していました。特に、株主資本の収益性を示す指標のROE(Return On Equity)*が低く、資本コストを下回っていることが株式市場の長期低迷になっているという意見が根強くありました。 

 資本にコストがあるとはどんな意味でしょう。銀行借入の場合は、利息です。株式においては、株式と交換に資金を拠出する株主には、利息や資金の返済などの一切の「保証」がありません。そこにあるのは配当や株価上昇への「期待」だけです。

  株主が最低限、期待するリターン(収益率)、それが株主資本のコストとなります。2012年に行われた調査によれば、国内機関投資家が求める期待リターンの平均値は6%超、海外機関投資家のそれは7%超でした。株主への直接的なリターンは、配当(インカムゲイン)と株価上昇による売却益(キャピタルゲイン)等ですが、市場の様々な要因によって変動する株価は指標として使いづらい面があります。財務諸表を用いた形で株主へのリターンを示すものが、株主資本を分母とし、税引後利益を分子としたROEなのです。 

 企業報告ラボでは、日本企業のROEの過去10年の平均値は、4.97%(2000―2010年)であると、一橋大学の加賀谷准教授から報告されました。株主資本コストすなわち前述の機関投資家の期待リターンである6〜7%を下回っています。ROEが株主資本コストより低いとは、資金の拠出者の支援や期待に対し、充分に報いていないことを示唆します。
 これでは、日本株に投資したいと思う投資家が増えないわけです。事実、欧米では多くの日本株のファンドマネージャーやセールス担当者がリストラされていることが思い起こされました。 

 さらに、実際に市場での日本株への評価が低い証左として、PBR(Price book value ratio)*の分布データの国際比較が紹介されました。株価と1株当たり純資産(株主資本)を対比した評価倍率であるPBRは、日本の上場企業のうち半数近くが1倍割れであることが示されました。純資産とは、財務諸表上の総資産から負債を差し引いた株主の取り分(簿価)ですから、PBR1倍割れとは、その簿価上の取り分より株価が低く評価されているということです。

 日本企業のPBRは、中央値でも1倍強で、13カ国中、下から3番目でした。ROEも下から4番目と低く、低評価はつまり低リターンの実績がもたらした結果と分析されました。
 そもそも「資本コストを意識したことがない」という企業は、調査に協力した約600社のうち6割にのぼりました。さらに、ROEとPBRの高低で4分類に企業を分類し、ROEとPBRの両方が低い企業群においては、その比率はもっとも高くなり、分析の裏付けとなりました。

  一方、企業サイドは、株式市場の短期的なものの見方にフラストレーションを抱いていました。企業報告ラボが行った企業向けのIRに関するアンケートで得た自由回答314件のうち、圧倒的多数が「投資家の時間軸が企業経営の時間軸に比べて短すぎる」というものでした。ある企業の発表では、同社の過去の国内機関投資家とのIRミーティングの質問を分析し、1年未満の短期業績に関する質問が74%を占めたという結果が提示されました。これには軽いショックを受けた投資家もいました。


  私も事務局から「IRにおいて経営者に話してもらいたい内容」というテーマを提示され、報告を行いました。報告にあたり20社を超えるIR担当者にアンケートを行ったところ、IRで経営者に語らせたい内容のトップは企業理念やビジネスモデルの強みなどの非財務情報という結果が出ました。この結果に加え、私見として、経営者は中長期的な株主価値創造プロセスの全体を投資家に語ることが望ましく、プロセスの最後の「答え」である短期的な決算数値だけを安易に訊かれることには違和感があること、もし株主価値創造のプロセス全体を投資家が理解できれば、本源的価値の適正な評価が可能となるであろうこと、などの趣旨のプレゼンテーションを行いました。

  企業報告ラボの企画委員会での投資家サイドと企業サイドの認識のギャップは、上場企業約600社の意識調査や株価などの膨大なデータを分析すればするほど、深いもののように思えました。しかし、このラボの興味深い点は、双方ともそれぞれの言い分を出し切ったあと、なるほど一理ある、とお互いの主張を認め、歩み寄る雰囲気が生まれたことです。 

 たとえば、企業が不満を感じている投資家の短期主義を反対の立場から見ると、ROEの低さが投資家の長期投資のリスク許容度を低下させ、短期的な投資を引き起こしているという意見がありました。投資家の不満のひとつである企業のコーポレートガバナンスに関する情報発信の少なさの背景には、投資家のコーポレートガバナンスへの質問が少なく、関心が低いと企業が感じている調査事実がありました。鶏と卵の関係だったのです。


 企画委員会では、
企業と投資家の「対話」がお互いの立場に対する理解を深め、
結果として持続的な株主価値向上を促していくのではないか

 という、仮説というか、予感めいたものが生まれていました。

 伊藤レポートは、企画委員会の方向性を受け継ぎ、議論を重ね、指針として企業報告ラボが世に示したものでした。多くの日本企業の経営者があまり深く考えたことのなかった「資本にはコストがあること」を意識させるため、「ある種のスローガン」としてROEが提示されました。

 ROEだけが経営の重要な指標ではないことを承知の上で、上場企業の半数近くを占めるPBR1倍割れの企業の目を覚まさせ、市場全体を底上げする目的だったと伊藤レポートのプロジェクトメンバーが話していました。また、社外取締役の増員や持ち合い株式の解消など、企業にガバナンスの改善を促す事項も多数示された一方、中長期の視点での企業と投資家との対話の重要性に触れたことは、企画委員会からの流れを汲んだものと思っています。
  コーポレートガバナンス・コードの起点が、投資家サイドと企業サイドのギャップであったことは、多くのビジネスパーソンにも知っていただきたいことです。次に示す残りのふたつのギャップは、その実践の場で体験した課題であり、ケーススタディです。

(2)楽天の資本コストの議論に続く

 

【企業報告ラボの関連リンク集】

【企業の資本コスト、IR等に関する意識調査 (回答数583社) 】
持続的な企業価値創造のための IR/コミュニケーション戦略実態調査

【企画委員からの発表内容サマリー】
企業と投資家の対話と意識ギャップについて(参考事例集)

【伊藤レポート最終報告】(P.44に日本株に期待する資本コスト 2012年調査を掲載)
「持続的成長への競争力とインセンティブ ~企業と投資家の望ましい関係構築~」プロジェクト 

用語

*コーポレートガバナンス・コード
 東証が2015年に施行した、実効的なコーポレートガバナンス の実現に資する主要な原則を取りまとめたものをいう。東証一部および二部に上場する企業は、コー ドの全原則について、マザーズ及びJASDAQの上場会社は、 コードの基本 5原則について、実施(コンプライ)するか、実施しないものがある場合には、その理由を説明(エクスプレイン)することが求められる。すべての原則においてコンプライを求められるものではなく、各企業の考え方として積極的なエクスプレインも期待されている。

コーポレートガバナンス・コード改訂版(2018年6月)

*ROE
  Return On Equity の略で、日本語では一般に自己資本利益率という。自己資本(純資産)に対してどれだけの利益が生み出されたの かを示す、財務分析の指標。株主の持分に対する投資収益率を示す。 その意味で、ROEは株主資本コスト(投資家の期待収益率)を上回るのが望ましい。東証の決算短信における日本会計基準(連結)お よびIFRSにおけるROEの表記ルールは以下のとおり。

自己資本当期純利益率(日本会計基準、連結)
=親会社株主に帰属する当期純利益÷((期首自己資本+期末自己資本)÷ 2 ) × 100
(※自己資本=純資産合計 - 新株予約権 -非支配持分)

親会社所有者帰属持分当期利益 率(IFRS、連結)
=親会社の所有者に帰属する当期利益÷ ((期首親会社所有者帰属持分+期末 親会社所有者帰属持分)÷ 2 )× 100

*PBR: 
 Price Book value Ratio の略で、 株価が一株当たり純資産( B P S :Book value Per Share)と株価との比較で、株式の価値を評価する手法。株価÷ 1 株当たり純資産で算出可能。PBR1倍割れとは、企業の価値が会計上の純資産より低いと株式市場から評価されていることを意味する。


IR(インベスター・リレーションズ)の経験などに基づいたテーマで記事を書いています。幅広い層のビジネスパーソンにも読んでもらえたら嬉しく思います!