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*【2020年6月更新】プロフィール*

こんにちは。

ビジネス大好き☆彡

人の成功をサポートし、成功するのを見るのが大好き☆彡

オンラインでマーケティングとマインドセットを教える

自分の得意を伸ばし右肩上がりに売れ続ける、あなたの価値を最大化するマーケッター

株式会社GUD

代表取締役 本田貴裕です。

私のことを少しでも知って頂ければと思い、自己紹介させていただきます。

幼少期から何不自由なく生活

私は二人兄弟の家庭で、何不自由なく幼少期を過ごしました。

毎月、土日になると、家族4人で車に乗って出掛けたり、旅行に行く事も多かったです。

父が経営者だったため、バブルが弾ける小学生時代は、本当に不自由な事はなかったですし、むしろ、他の人たちよりも良い暮らしをしていたと思います。

そんな自由な生活を私自身は「当たり前」と感じていましたし、何も特別なことだとは思っていませんでした。

そんな中で中学、高校と進学した時に、バブルが弾け、日本は大不況時代へと突入・・

それでも、両親は苦しい素振りは一切見せないので、何も不自由なくやらせて頂きました。

それでも、今まで瓶ビールを注文していた父が、ある日を境に瓶ビールの注文を止め、缶ビールも発泡酒に変えたりしていましたが・・

それでも、生活がそんなに苦しいものだとは、微塵とも感じていませんでした。

育ち盛りの中学、高校の頃は、本当によくご飯も食べましたし、食費がかさんでいたはずですが・・

家計のやりくりは、母も父の仕事を手伝ったりして、ずいぶんとやってくれていたのでしょう。

本当に何不自由なく、生活をさせて頂いていました。

しかし、その一方で、会社ではリストラが行われ、社員数はいよいよ最低人数になっていきました。

いつもいた、

気前よく話してくれた、おっちゃんが・・

ある日からいなくなる・・

そんな事にも違和感を感じる事なく、自分たちだけ良い生活をさせてもらってた・・

という事に気付くのは、まだまだ先のことで、本当に苦労はありませんでした。

高校、大学と人生を舐めてきた・・

そんな中で、

高校から私立、大学も4年制の大学へと進学。

母が、大学を卒業しないと、就職できないと強く言ったもので、高校から、勉強もできるようにと、私学へ出してくれたのですが・・

当の本人はと言えば、

高校、大学にクラブをしにいくのが目的・・

でしたので、就職の事も考えなければ、勉強も真剣にやりませんでした・・

高校一年生の時には、成績も下降気味で、

高校一年では、勉強をサボりすぎて、数学で、はじめての0点・・

これには、さすがに

「ヤバい・・」

と思って、数学でいつも寝ていて

授業態度も悪かった私ですが・・

先生に頭を下げて、

補講をお願いした事もあります・・汗

それくらい、

高校に入ってからは勉強しなかったのですが、仲間には恵まれて、部活やクラスには多くの仲間が出来ました。

特に、クラブ活動は、高校での成績も中途半端だったし、生涯やり込みたいという気持ちもあって、大学に進学しても続け、今現在も続けています。

今では、社会人のコミュニティで、同じ趣味を持った仲間に囲まれてやれていますので、これは、これで幸せな事かなと思います。

就職活動で厳しい現実を知る事に

大学から就職にかけてそんな私も大学4年生を迎えた時に、いよいよ就職活動をしないといけないので、何からすれば良いのか?

全く分かりませんでしたが、始める事にしました。

時は、2002年。

就職氷河期と呼ばれた、2000年の直後

という事で、

「舐めてたら、就職できずにプー太郎なるよ」

と学生課からも言われていましたが・・

「何とかなるでしょ」

くらいにしか思っていませんでしたので、本当に舐めてました・・汗

しかし、最初に異変に気付いたのが「資料請求」の時です。

私の通っていた大学は、大阪の中堅より下の学校でした。

そのため、就職に関する資料請求は、大企業などから「送られてくる」事が無いんです・・

関関同立と呼ばれる、大阪の4大大学に通っていた友人なんて、何も言っていないのに、企業から何通も資料が届くんですよ・・怒

その時に、

「何なん、この差別は・・」

と思ったのですが、驚いたのが・・・

私から資料請求しても

「資料を送ってこない・・」

そうなんです。

学歴で差別されていて、資料請求しても、あなたの学校は採用見込み無いので諦めて下さい・・

という事なんですよ・・

何通資料を請求しても、大手の企業などからは資料が届きませんでした・・


そのため、学校のパソコンを使って、エントリーシートを記入し、送信する
という事しか、就職活動が出来ないという状況で、いきなり差を開けられた感じがしました。

当初、何をやりたいとか、全く希望がなかった私は、

就職先を

「かっこよさ」

だけで決めていて、髪型自由という理由だけで

美容院への卸売りメーカー

スーツメーカー

へ志望して出しましたが撃沈・・

次に、ファッションに興味があったので、

ミキハウス

ユニクロ

を志望しましたが、撃沈・・

とにかく、受ける企業全て、エントリーシートで撃沈。

の日々が続き、ヤバい・・とさすがに焦っていました。


そんな時にエントリーシートに通りはじめたのが、

自動車系の営業

信用金庫

金融関係

で、中には東証一部上場企業もあり、興味は特にないけど、とりあえず、就職先の内定を取らないと落ち着かない・・

という事で、とりあえず内定はどこでも良いからもらえるところを・・と思って取り組んだところ・・

逆に、全ての面接に通ってしまい、4つの会社から内定を頂く事が出来ました。

両親からは、もう少し会社の内定もらってから決めたほうが良いのでは??

と言われたのですが・・

私自身が、面倒くさいというのもあって、やる気が起きないので、4社の中から決めることにし、最終的に某消費者金融に就職を決めました。

ついに社会人に

当時の消費者金融は、バブリーな状態で、ほとんどの会社が赤字決算続きだった中・・

右肩上がりのプラス10%成長なんて当たり前・・

という時代でした。

株価も、10,000円超えとか、時価総額で見ても、相当バブリーな会社でした。

何より、人事担当者の方がとても良くしてくれたので、この人たちと一緒に仕事するのは楽しそう。

という事で、就職しました。


当初は、お金の事をまるで知らなかったし、

「与信」

がどうやってお客様に決まるのか??

クレジットカード含めて、カードの仕組みをまるで知らなかったので、
勉強の日々でしたが、持ち前の明るさとやる気で、上司の評価を勝ち取り、
お陰様で全国の同期でも上位レベルの評価を新人から退職するまでずっと頂く事が出来ました。

全国に250名近くの同期がいましたので、本当に切磋琢磨しましたし、
お互い仲がよく、順風満帆な社会人生活を歩み出しました。

社会人三年目には、全国の最優秀店舗5店に選ばれ、社長じきじきにお越しになられての会食を受けたり、評価されてはいましたが・・

徐々にマンネリ化している自分もいて、社会人4年目あたりでは、やや天狗になりかけていた時・・

はじめて、エリアを超えた異動を経験します。

新入社員を教育する日々

新しいエリアをまたいだ人事異動は、私にとって新たなチャレンジでした。

違うエリアに行くという事で、同期もたくさんいましたし、私が前のエリアでナンバーワンの評価を受けていたのも知っていたので・・

けっこう、ライバル心をぶつけられていたし、私も、それに負けずに立ち向かわないと・・

という気持ちで、新しいチャレンジにはなりました。

ただし、私が異動して受け持った仕事というのが、

「新入社員の教育」

という役割・・

この時の経験は、本当に役立っていて、

「人は自分の思う通りには動かないなぁ・・」

と教育の本質みたいなものを学ぶ事が出来ました。


同時に、会社と言いますが、業界全体に衝撃的な事件が相次ぎ

「盗聴事件」

「恫喝事件」

「過払い金返還請求」

などなど、業界にとって逆風が立て続けに起きたので、業績は急降下・・

そんな中で行われたのが、

・第一次早期退職制度の実施

・社長の交代

・銀行のグループ傘下へ

でした。


一旦長くなってきましたので、ここで終わります。

また、改めて書かせていただきます、最後までお読みいただき有難うございました。

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