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経営者の保身について考えてみる

保身という言葉を用いた場合、得てしていい印象を持たれることはないと思います。
「あなたは自分の保身しか考えていない!」と言及されたとしたら、基本的には非難されていると受け止めるのが自然だと考えます。
しかし、人間誰しも我が身が大切なのも事実です。自らの保身を全く考えずに生きていくことも難しいと私は思うのです。

私は自分の経営スタイルの根本は自己保身を核として行なってきました。そして結果として会社を安定的に経営し、また成長させることが出来たと考えています。
今日はこの自己保身について、振り返ってみたいと思います。

自己保身とは

例によってまずは辞書で調べてみます。
自己保身という単語は載っていないので、単に保身で引いてみることにします。

保身
[生存競争から脱落しないように]自分の地位・名声を守ること。

新明解国語辞典

とあります。

辞書で引くと新たな発見があります。
保身とはそもそも[生存競争から脱落しないように]という前提があったのですね。言われてみると確かにその通りだとは思いますが、ちょっと意外で驚きました。

しかし「自分の地位・名声を守ること」という文脈だけであれば、それほどネガティブな言葉とも言い切れない印象です。
どちらかというと会話や文章の流れの中で、否定的な印象を与えることが多い(と私は感じています)ために、ネガティブなニュアンスを含むようになったとも言えそうです。

もしかしたらポジティブなニュアンスで使う方もいらっしゃるかもしれませんが、あくまで私個人の認識ではいらっしゃならいと感じて言いますので、この前提で話を進めます。

言葉の本当の意味では違うのかもしれませんが、「利己」と「利他」というのも、私にとっては同じような文脈で考えることがあります。
利己はよくない、誰か人のためを考えて行動する利他こそ、経営者として、人として正しいあり方であるといった文脈です。

このニュアンスに対して、私も特段異論はありません。
しかし、利己がまったくダメというのはどうかな、なんて思ったりもするわけです。
自分自身のために、我が身を守るために、それこそ保身のために、自分を第一に考えることも決して悪いわけではない。

そういう意味で「情けは人の為ならず」の最終的には自分に返ってくるのだから、人に対して情けをかけていきましょう、という方法論であればしっくりくるなあ、と思っています。

保身起点の経営

私は基本的には、お客様のためによいと思うことを、社員にとってよいと思うことを軸にして経営をしてきました。自分で言うのもなんですが、「社員さん思いの社長さんですね」といった言葉をいただくことも結構あったりしたものです。

そうした経営姿勢の起点が「利他」にあったのかと、もし問われたならば、実はその回答は「NO」です。
そのような姿勢をとってきた動機こそが、まさに「保身」だったからです。

過去にも何度かしたためてきましたが、私は人間同士の揉め事や対立に関わるのが本当に苦手です。殺気だった緊張感、殺伐とした空気感に耐えられない。揉め事の仲裁に入ることはしたくないのです。
しかし仕事をしていると、ましてや責任ある立場にいるとそうは行かない現実もあるわけです。お客様からのクレーム対応について、取引先との揉め事について、社員同士の意見の相違や対立について、社長としての最終判断を求められるということは度々あります。

そしてその度に思ってきました。
クレームになる前になんとかできなかったのか、揉める前に折り合えなかったのか、対立する前に話し合って相談して解決できなかったのか、と。

クレーム、揉め事、意見の相違、対立。それぞれいきなり始まるわけでないと思います。違和感、決めつけ、押し付け、無視といった様々な事前の経緯があって、そこにその時の感情なども相まって、そして目に見える大きなトラブルとなって現れてきます。そしてどうしようもなく収まらなくなって私のところに話が来たりします。いわば、沸点が最高になったところで、とても素手では持てないような鍋を手渡しされたような状態とも言えるわけです。

これは我が身の保身を考えなければならない。
とは言え、顧客や取引先や現場のせいにして自分は知らんぷりという保身の方法では何も解決しません。むしろ余計に悪化するのは目に見えています。煮えたぎった鍋どころか、溶鉱炉から取り出された真っ赤な鉄を手渡しされる羽目に陥るかもしれない。そんなことになっては、我が身を守ることなど到底できなくなる。

私の利己的保身思考は、このように働いていきました。

そして、そうなる前に手を打つ。願わくばそうならないような人の関係性と組織を作るという保身を考え実行するようになったのです。

保身のベクトル

いわゆる自己正当化のみに向いた保身というのは、誰かが割を食う形になるので上手く行きません。結果としてより悪い状態が自分に跳ね返ってきてしまいます。

つまりは余計に面倒くさいことになってしまうことになるのです。

つつがなく穏やかな日々のためには、クレーム化する前の要望の段階できちんと対応するとか、相手の立場に立って物事を考える姿勢を社の方針にしようと考え、そして実行するようにしてきました。

決して「社員思い」というだけでなく、動機的には保身として始めたわけですが、結果として「社員思い」の社長さんという印象を持たれたのは、やや気恥ずかしい思いでもありました。

人として正しい行いをする人でありたい、と思う気持ちも勿論あるわけですが、その一方で、我が儘で我欲にまみれていて、自分が一番大事だという思いも否定はできません。聖人君子ではないのです。

だとしたら、我が身はもちろんですが、人は本能的には保身に生きているという前提で物事を考えた方が現実的です。冒頭の辞書でも「生存競争から脱落しないために」という但し書きがついていました。生きている以上、生存競争から脱落はしたくない。

そしてその前提は自分だけでなく、他の人だってそうだろう、という前提で考えるところはありました。他の人の尊い思いを無碍にするつもりは毛頭ありませんが、誰もがそうであると思ってしまうと、その人に対して必要以上に期待をしてしまう。そして期待通りにいかないと勝手にがっかりしたり、時に腹立たしく思えてしまうことすらあり得る。実に身勝手な思考だな、なんて私には思えてしまうのです。

かといって、人を蹴落として生存する社会は殺伐としていそうで私に取って非常に居心地が悪い。そんな保身のベクトルは決してネガティブな印象にならないのではないかと私は考えるに至りました。

保身のマネジメント

保身のマネジメントは、言い換えればリスクマネジメントとも言えます。自分自身の保身は自分自身のリスクマネジメントになりますし、自己を自社と考えれば、会社のリスクマネジメントともなります。

刑事ドラマなどでよく聞くセリフに「組織を守るために・・・」と言って、不祥事を隠蔽し登場人物が葛藤するなんてシーンがあります。これってつまりは組織全体の保身だと思うのですが、先述したように事が悪化した後の保身は余計に自体を悪化させるわけです。本当に保身、つまりはリスクマネジメントを行なおうとするならば、そもそも不祥事がおきない組織開発をする保身をした方がよいに決まっています。

だってその方が絶対にラクですし、居心地もよさそうだと私は思うのです。

保身の思考なんて絶対にダメだ、と思う人が実際にどれくらいいるのかは分かりませんが、保身がネガティブなニュアンスで語られるシーンに向き合う状況となることは、誰にもあり得ることだと思います。

そんな時に、ポジティブな保身を動機としてマネジメントしたり、思考する人が増えると、世の中自体の居心地もさらに良くなるのではないかなあ、と私は思っています。

最後に

このnoteを書き始めて足掛け3年経ちました。
お陰様で、この記事で100週連続投稿を達成することができました。
飽きっぽい根性なしの私が、よくもこれだけ毎週続いたものだと、自分を褒めてあげたいくらいです。
もともとは「意識低い系」でラクに仕事をしていこう、という趣旨の記事を書いていましたが、「タイトルに反して、中身は意識が高いですね」なんて感想を頂いて、思わず苦笑いしたこともあります。

余談はさておき、この100週連続投稿を区切りに、毎週の投稿はいったん終わらせて、これからはもう少しマイペースに書いていこうと思います。
引き続きよろしくお願いいたします。


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