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名曲が生まれたエピソード:上を向いて歩こう

本日は、名曲『上を向いて歩こう』の書かれたエピソードを知っての驚きと感銘の記録です。

国民的楽曲

『上を向いて歩こう』は、1961年に、坂本九(さかもときゅう 1941/12/10-1985/8/12)氏が歌って大ヒットしました。作詞は、永六輔(えいろくすけ 1933/4/10- 2016/7/7)氏、作曲は中村八大(なかむら はちだい 1931/1/20-1992/6/10)氏です。国民的楽曲と言ってもよいでしょう。

『上を向いて歩こう』は、2年後の1963年に『SUKIYAKI』のタイトルで、米国でも発売されて大ヒットしました。日本人が歌う楽曲で、ビルボード100の1位を獲得した唯一の曲としても知られています。九さんは、当時不良の象徴のように扱われたロカビリー音楽にルーツを持ちながら、持ち前の明るいキャラクターと独特の唱法で『きゅうちゃん』と親しまれ、国民的な人気を博すアーティストでした。1985年夏の日航ジャンボ機墜落事故に乗り合わせ、43歳の若さで亡くなったのが惜しまれます。

昨夜、部屋でぼんやりとテレビを観ていたら、永氏の特集番組をやっていました。私は、この曲の作詞が永氏であることを知りませんでしたし、この曲が生まれた秘話も知りませんでしたので、解説を聞いて、かなり驚きました。

永六輔という気骨の人

永六輔という名前も顔も知ってはいましたが、それほど強い関心があった人物ではありません。絶対に芸名だろうと思いこんでおり、本名であることも知りませんでした。

テレビ放送萌芽期から活躍したレジェンドだったこと、権力におもねらず、弱者に寄り添う気骨のある人だったことを、この番組で知りました。

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永六輔氏

『上を向いて歩こう』の歌詞は、永氏が、太平洋戦争中に疎開していた長野県の小諸市や上田市での、孤独で辛かった日々を思い出しながら書いたもので、自身の悲しみが記憶が詰まった特別な作品だったようです。東京生まれ、東京育ちの永氏は、疎開先の空気に溶け込めず、仲間外れにもあい、疎外感を味わって、辛い思いを抱えながら過ごしたようです。

永六輔氏に、暗くて辛辣な人物というイメージはありません。後に地方支援を公言して実践し、請われればどこへでも赴いた人が、長い間、小諸市と上田市に関係する講演や出演の依頼は全て断っていたと言われます。その頃の傷跡は相当に深かったようです。

当初永氏は、明るく天真爛漫なイメージのある九さんがこの歌詞を歌うことに反対で、もっとしっとりと寂しさを噛み締める曲に仕上げて欲しいという思いが強くあったそうです。その背景を知ってから、歌詞を聴き直すと何やら別の感情が沸き上がってきます。

辛かった少年時代の経験が、後に弱者の側に寄り添うことを生涯の信条として貫いた永氏の生き様に、強く反映されているようです。

もう一度歌詞を聴き直す

『上を向いて歩こう』を、改めて聴き直してみました。坂本九氏が歌うと物哀しい歌詞が、とても明るく響きます。しかしながら、事情を知った上で噛み締めながら聴くと印象が一変しました。

幸せは雲の上に 幸せは空の上に

はかなり意味深で、自死による解決を暗示しているようにも感じられます。泣きながら、一人ぽっちで夜道を歩いて帰る日々を送っていたという事情を知って聴くと、自然とその時の情景が浮かんできます。

春の日も、夏の日も、秋の日も、ずっと一人ぼっち…… それはどのような気持ちで過ごす日々だったのでしょう。歌詞に冬の日が出てこないのは、その年の晩秋に疎開を終えて、東京に戻ったからだと言われます。誰もが知る名曲に隠されたこのエピソードを知れて、本当に良かったです。永六輔氏についても、もっと調べてみたくなりました。

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