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名言が与えてくれるもの22:人生に近道なし、人生に失望なし

誰しも心に留めることばがあると思います。名言が与えてくれるものシリーズの第22回は、『人生に近道なし 人生に失望なし』です。徳島県立池田高校野球部元監督の故・蔦文也(つた ふみや 1923/8/28-2001/4/28)氏のことばです。

全文は以下の通りです。

人生に近道なし。人生に失望なし。
失敗したことそのこと自体は不名誉なことではない。
失敗してダメになるなら、それが不名誉なことだ。

蔦文也

高校野球を代表する名指導者

徳島県山間部の小さな町、三好市池田町にある徳島県立池田高校は、高校野球史上に燦然と輝く名門です。甲子園大会では、春に優勝2回(55回・58回)/準優勝1回(46回)、夏に優勝1回(64回)/準優勝1回(61回)の戦績を収めています。全て蔦氏が監督を務めた時代のものです。

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蔦文也氏

プロ野球の在籍経験もある蔦氏が池田高校に着任し、野球部監督に就任したのは1952年。29歳の時でした。弱小野球部を、熱血指導で鍛え上げていき、徳島県下では強豪として知られる存在にはなったものの、甲子園出場はなかなか叶わない状態が長く続きました。念願の甲子園初出場を果たしたのは、監督就任から20年近くも経った1971年夏の第53回大会でした。

1974年春の第46回大会では、部員11名で勝ち進んで準優勝。”さわやかイレブン”旋風を巻き起こしました。1979年夏の第61回大会では、決勝戦まで勝ち進んだものの、この年春夏連覇を果たした箕島高校に惜敗しました。 

高校野球に革命を起こした

全国の強豪校として名前を知られる存在にはなったものの、あと一歩の所で全国戴冠を逃してきました。

初の栄冠を手にしたのは、1982年夏の第64回大会です。阿波の怪腕、畠山準投手を擁し、自慢の強力打線が6試合で7本塁打、85安打(大会新記録)を放って優勝しました。翌1983年春の第55回大会でも、剛腕・水野雄仁投手の自責点ゼロの好投で二期連続の優勝。のびのび野球で高校野球に池田時代が到来しました。全国の野球少年が、「池高~、池高~、われらが池高…」と同校の校歌を歌いました。

池田高校が「高校野球に革命を起こした」と言われるのは、打撃力重視の野球です。従来の常識とされた、ランナーが塁に出たらバンドで送る、バッドを短く持ってミート中心にコンパクトにスイングする、から、フルスイングで強く鋭い打球を飛ばして打ち勝つ野球を導入しました。

練習の大半を打撃練習に費やし、「やまびこ打線」と称される、打って、打って、打ちまくる豪快なパワー野球を展開しました。池田高校の選手のバッティング・フォームはそれぞれ個性的で、小柄な選手でも鋭い打球を左右に飛ばしました。

芯を外しても飛ぶ金属バッドの特性を利用し、フルスイングができるパワーを養うべく、早くからウエート・トレーニングを導入したり、地元徳島の大塚製薬から提供を受けたポカリスエットやカロリーメイトを利用したり、当時まだ無名の新興スポーツメーカー、ZETTの反発性の高い金属バッドを採用したり、と革新的な取り組みも導入していました。

甲子園での蔦監督は、試合中はベンチの中央にどっかりと腰を下ろし、「攻めダルマ」の異名通り、サインも殆ど出さず、試合前や円陣でも、簡単な指示を与える程度だったようです。

意外な生い立ち

豪快な野球スタイルに加え、無類の酒好きでも知られたことから、蔦氏にはこまかいことには拘らない豪放磊落なイメージがあります。伝わっているエピソードにも豪快なものが数多くあります。

ところが、蔦氏の生涯を辿ると、およそ順風満帆だったわけではなく、敗ける苦汁を味わった経験の方が遥かに多かったことがわかります。徳島市内の名家の長男に生まれ、少年時代は甘やかされて育ったようです。運動能力は優れていたものの、坊ちゃん育ちゆえの性格の脆さ・甘さがあり、ここ一番で踏ん張れない弱さを露呈することもあったようです。

徳島商では、投手として甲子園に出場するものの初戦で敗退。同志社大学に進学後は学徒出陣により特攻隊員を経験し、死を覚悟したものの、終戦直前の飛行機不足によって出陣を免れています。

代名詞である飲酒は、この頃の自分の身にふりかかった不条理の辛さを埋める為に覚えたとされます。戦後ノンプロを経て入団したプロ野球の東映フライヤーズを一年で退団したのも、酒を断てない自己管理の甘さが理由だったという説もあります。

故郷の徳島に戻り、池田高校の野球部監督に就任してからも、なかなか結果が出ない日々が続きました。勝てない時代が続いたことから、周囲からその指導力を疑問視されたり、酒を飲んでの素行の悪さを指摘されることも少なくなかったようです。

「ここ一番で勝てない」というコンプレックスに苛まれながら、ずっと一つの場所で道を探し続けた姿勢は素晴らしいと思います。そして、この不遇の時代を縁の下で支え続けた奥様の人間力には敬服します。

人を知って、重みを感じることばの数々

蔦氏のことばで一番有名なのは以下でしょう。

山あいの町の子供達に一度でいいから、大海(甲子園)をみせてやりたかったんじゃ

蔦氏自身、この気持ちが高校野球指導者としての原点だと言います。辛酸を舐め続けても、諦めなかったのはこの思いが強かったからなのでしょう。本日のことばも、蔦氏の歩んだ人生を知ればこそ、一層深みが感じられます。

優れた実績を残した指導者同様、蔦氏もまた、教え子たちには優れた野球選手である前に、ひとりの人間、高校生であることを強く求めました。「プロ野球選手になりたいなら他所へいけ」「野球校は大嫌い」「人生にスクイズはない」といった語録も残っています。

昭和時代の指導者ですから、選手に容赦なく罵声を浴びせ、大声で𠮟りつける映像も残っています。選手から見ると、怖くて、厳しい指導者だったでしょう。全ての生徒から尊敬・敬慕された訳ではないと思うし、野球の技術を教える指導力が断然優れているかと言われると疑問符が付きそうです。

史上初の夏春夏の三連覇を狙った1983年夏の第65回大会では、準々決勝で清原・桑田のKKコンビがまだ一年生だったPL学園に、0-7とまさかの零封負けを喫しています。絶対的エースだった水野投手が打ち込まれ、自慢の強力打線は、一年生の桑田投手の前に沈黙しました。試合後「勝ち続け、注目されてみな天狗になっていた。水野が打たれて負けたのはあの子たちの将来にはよかった」と語ったと言われます。

定年を控えた年には、その指導力と名声を頼って、全国の野球部強化を目論む学校から監督就任を打診されたようです。蔦氏はそれら勧誘を全て断り、社会科の臨時教員として、池田高校の教壇に立ち続けることを選びました。40年間の教師人生を経て、2001年77歳で永眠されています。

ことばが教えてくれるもの

結果が出ずに焦る時、先が見えなくて歩みを止めたい時、辛くて自暴自棄になっている時、今日刻んだことばをしっかりと思い返したいものです。諦めて、投げ出してしまわないこと、更に尊いのは、投げ出してしまった自分をもう一度奮い立たせることです。

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