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木だけを見ていてもわかることはある

本日は、付け焼き刃の思い付きテーマです。『木だけを見ていてもわかることはある』という私の独り言です。

木を見て、森を見ず…… 森は簡単には見えない

偏狭で、近視眼的な態度を咎める時に、「木を見て、森を見ず」ということばが使われます。全体を俯瞰して、ポイントを抑え、冷静に適切な打ち手を考えていくのは、仕事であれ、余暇であれ、大切なことだとは思います。

ただ、森が見えているからいい、木は無視していい、という考え方も、私は支持できません。私は「神は細部に宿る」を信奉する価値観が強いので、全体感やビジョンばかりを重視して、細部は部下に丸投げ、というタイプのリーダーや細かい実務作業が全くできないマネージャーには全く共感ができません。

そういう人は単に大雑把なのであって、木の密集しているエリアを”森”と勘違いして、的の外れた壮大なことを言い出したり、やり出したりします。そもそも森が見えていないのに、自分には俯瞰力や洞察力が備わっていると錯覚している姿は痛々しいものがあります。

まずは木を真剣に見る

あまり詳しくない分野をある程度深く知ろうとする場合の勉強法として、枝葉末節は排除して、まずは軽く全体感をさらってみよう、というアドバイスがなされることがあります。最近の私は、この考えを疑っていて、逆に効率が悪いと考えています。

上述のやり方が効果的なのは、頭の回転が速く、論理的思考が使いこなせる人なのだろうと思います。私のように拘りが強く、気分屋タイプは、具体的な事例から入り、徹底的に思考を深めていく中で、芋づる式に知識を蓄えていき、全体感をイメージする方法が向いている、と考えています。

目の前の一本の木を、真剣に見ていれば、自然と情報が飛び込んできます。その中で気付く点、意外に思った点、が必ず出てきます。そして、隣の木、そのまた隣の木、と目を移していくことで、共通点を見つけたり、差異を見つけて比較ができるようになります。そうして、どんどん左右、上下に膨らませていく中で、捨ててもいい情報、蓄えなければならない知識、行動のルーチンなどが整っていくように思います。

森がわからなくても、道は歩ける

目の前に現れてくる木を真剣に観察することに慣れてくると、細部から全体をイメージすることも可能になると思っています。仮に、全体感がわからなくても、ここまで広げられればいい、という見極めもできます。全体感重視で、物事の理解すべき範囲がわかっていても、細部の知識がスカスカでは、深くて、ユニークな洞察は不可能でしょう。どこかで聞いたような、上滑りな知識しか身につかない気がします。

全体感(森)がわからなくたって、道を歩くことは可能です。振り返った時に、あれが森だったのだな、と気づく時もあるし、モヤモヤしたまま通り過ぎることもあるでしょう。人生後半戦を生きる私は、もはや壮大なビジョンを掲げて、森を探し続けるような日々は志向しません。目の前の一本の木、道端に咲く雑草、ちっぽけな石ころ、風の流れ、鳥や虫の声、などを愛でる気持ちを大切にしたいと思います。


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