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『正義の政治経済学』を読む❸~民主主義を問い直す

本日は、古川元久・水野和夫『正義の政治経済学』(朝日新書2021)の第三弾、『第三章 民主主義を問い直す』(P163-223)を読んでの読書感想文になります。

前二回は本文からの抜粋に対して自分の学びや意見を記す形式で記録していった所、4,000文字を超過しました。加えて、記述内容の揚げ足取り的な指摘や、批判的なトーンの反論が多くなってしまいました。

この点を反省し、最もエキサイティングに読め、自分の頭で考える機会を得られたこの第三章については、総合所見的な感想文を残したいと思います。


<正義>とは何か?

この章で水野氏は、村上春樹氏の「壁と卵」の演説などを引き合いに出しながら、<正義>の重要性を訴えます。

<正義>とは何か? というテーマを真正面から扱うのは厄介です。論ずる人の私見や価値観が色濃く反映されてしまいます。思考の裏側を覗かれて判断されることになるので、現役の学者と現役の政治家が勇気ある挑戦をされているなあ、と思いました。

水野氏も古川氏も、社会的強者の自由を制約してでも、社会的弱者に寄り添う方が重要、という考えと推察します。何だかんだ言っても、社会で一番立場の弱い人間に、社会の歪みの責任を押し付けられることを歴史は証明しています。なので、依怙贔屓と感じられるくらいに手厚く配慮すべきだ、という考えなのかもしれません。

私の政治的嗜好

私は、ソ連を盟主とする社会主義陣営を形成した国家群が崩壊・解体・変質していく過程を目の当たりにしながら育った世代です。それ故、完全な制度ではないにせよ、自由主義/民主主義こそ、最善の国家統治形態にして、唯一のシステムなのだろうという思い込みがありました。

社会主義/共産主義の国家運営は、集団指導体制という名の独裁政治にならざるを得ないことを知ってしまいました。権力者に問題があった場合、合法的に排除する仕組みを実装している民主主義のシステムの方がまだマシだという感覚は多くの人が抱いているのでは、と思います。

私は、バブル崩壊で就職氷河期が到来する以前の空前の売り手市場の状況下で職業選択ができたし、国際競争力のある製品を全世界に売る仕事が出来たし、物価が安く感じられた時代のアメリカにも住めました。今振り返っても私の人生前半戦は、ラッキーなポジションにいたなあ、と思っています。

おそらく、”新自由主義”、”自由貿易”、”グローバリゼーション”から、恩恵の方を多く受けた人間だろうと思います。私が理想とする生き方をするには、これらの流れに乗っかった方が実際都合が良かったのです。

ただ今の私は、新自由主義的な価値観や経済運営は修正されるべき、と真剣に思っています。この変化は、現在の私が、

<体制>が放っておいても、世の中で如才なくやっていける人々。もちろん苦労や努力はその背景にあるでしょうが、自力でわが道を切り拓いていける能力と意欲、富をもつ人々

P181‐182 水野

ではないという現実を思い知り、

壁に投げつけられたら、一瞬で壊れて割れてしまうような人々

P182 水野

の群れの中にいる、という自覚があるからです。意欲もあって頑張りたくても、その域に到達できない人を完全に絶望させない社会、誰もにそれぞれの持ち場があって尊厳が保たれる社会を希求しています。

私が考えを変える契機になったのは、リーマンショックの頃からでしょうか。その頃に、

事業で成功すれば資産を蓄積できるし、仮に失敗して赤字続きになっても、その場合は税金を支払わなくてもいいという仕組みになっている。

P208 水野

という事例を目撃しました。巨大金融資本の、「利益は俺たち(金融資本)が貰い、損失はあいつら(国民)に払わせる」と言わんばかりの強欲な行動や振る舞いが許されることに猛烈な怒りと理不尽を感じました。

当時は、自分たちの強い立場と政治力と市場のメカニズムを利用して、弱い(知識の乏しい)立場の人から財産を掠め取った上、社会の混乱の尻ぬぐいを押し付けることのできる金融業は、到底フェアで、信頼できるビジネスではないと感じました。以降も似たようなことは、繰り返されています。

一握りの権力者や富裕層の享受する特権を抑制すべきだ、という思いは強くあるものの、方法論の問題があります。最近の私は、そういう立場の人たちが、自発的に社会への還元活動をすることで尊敬される社会システムを積極的に作っていったらどうか、という意見です。

日本の統治形態は

テクノロジーの進化により、嫌なもの、見たくないもの、かかわりたくないもの、生理的に受け付けないもの、から自分を遠ざけることが可能になってきています。知らないことは想像することすら難しいものです。日本は、

マインドコントロールとまではいかないにしても、「表面的には民主主義」、だけど内実は支配されている意識を抱かせない独裁体制。

P178 古川

という国になっていくような気がしています。支配者の姿がはっきりとは見えない不気味な世界です。

「自由だけれど、安心して街を歩けない国」と、「監視されているけれど、安心して歩ける国」、いったいどちらの国に住むのが幸せなのか、というジレンマです。

P189  古川

これは、前者の代表に米国、後者の代表に中国をイメージした発言でしょう。この二択で考えるのが妥当か、という問題はあります。

私は、現実的に後者を嗜好するタイプのような気がします。自由を維持する為に徹底的に権力者と闘う気力は衰えています。「縛るなら、緩く縛って。騙すなら、上手に騙して」と開き直りたい気持ちもあります。

何でも数値化されることへの嫌悪感

この章の議論でもう一つ共感するのが、私が漠然と抱いている”数字に支配される”ことへの嫌悪感です。

あらゆる物事が、数値化されてわかりやすく指標化され、その結果で評価され、格付けされる傾向にあります。資本主義社会が、合理性・効率性を重視する以上、数値化は有用な技術です。一人ひとりに思いを寄せながら施策を考える、のは社会生活において非常にコスパが悪いのはわかります。

でもねえ…… という割り切れない気持ちはなくなりません。私は自分が統計上の数字の一つにされることに不快感があります。誰かによって、幾つかの評価項目で点数をつけられ、S・A・B・C・Dなどにカテゴライズされる状況を、考えただけで吐き気がします。

「あんたに何がわかるんだ!あんたなんかに評価されてたまるか!」という反骨心だけは、昔から旺盛です。こんな性格で、よく28年半も企業社会で踏ん張れたものだ、と思います。

数字では片付けられないこともたくさんある、という信念だけは、これからも捨てずに持ち続けていきたいと思っています。


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