『人生の目的』を読む
本日の読書感想文は、五木寛之『人生の目的』です。その中の”信仰について”(P167-195)から思ったことを記録に残します。
人生を学んできた師
私はこれまで、小説家・随筆家の五木寛之氏(1932/9/30-)の書いた多くの作品を読んできました。映画化もされた『青春の門』や『四季・奈津子』で五木寛之という名前は幼少期から知っていたものの、文学作品を初めて読んだのは16歳の時、五木氏が翻訳したリチャード・バックの小説『かもめのジョナサン』(新潮文庫)でした。
心が疲れたり、弱ったりした時、五木氏の紡ぐことばや価値観に触れることで、救われてきました。私にとって数少ない「無条件に信用している大人」であり、ずっと憧れ続けている人です。近年は小説家としてよりも、随筆家としての活動が中心になっていますが、その文章の魅力は薄れません。
五木氏は自身の随筆に、基本的に綺麗ごとは書きません。理想論も、楽観論も、読者を鼓舞する威勢のよい未来論も。でも、その現実的な感覚が私の肌に合います。本書の中にも、さらっと書かれた
少数の超強者が多数の弱者を支配するのが二十一世紀の世界だと私は思う。(P136)
それにしても、堂々とよりも、飄々とした姿勢で暮らしていけたらなあ、と心ひそかに思う。(P176)
という表現に出会うとハッとさせられ、改めて前を向く力を貰えます。五木氏も今年でもう89歳なのか…… と感慨深いものがあります。
信仰について
本書『人生の目的』は、1999年に初版が出されたもので、私は2019年の幻冬舎新書版で読んでいます。冒頭の”まえがきにかえて”には、
<生きるということは、どういうことなのか>
<人はなぜこれほど辛い思いをしてまで生きなければならないのか>
と、いうのが私の率直な疑問である。(P4)
20年経過しても、「わからない」が五木氏の本音であると書いてあります。読者として、五木ファンとして、同じ痛みを共有したいと思いました。
冒頭で父親と二人の子どもの不幸な心中事件が取り上げられています。五木氏が感じたのと同様の感情を私も味わいました。ずっしりと重たいテーマであり、自分が自信を持って話せる答えを持ち合わせてはいません。
本書を読んでいて、私が強い衝撃を受けた相模原障害者施設殺傷事件を思い出しました。昨年、自分の気持ちを向き合ってnoteを残しました。
私は、あのおぞましい事件を起こした犯人の行動と価値観を、今でも心底憎んでいます。しかしながら、私がもしも犯人と同じ境遇に置かれていたとしたら、絶対に道を踏み外さないという確証はありません。
五木氏は、人間の強い意志や確固たる自信なんて未来永劫続くものではないと言います。時と場合の巡り合わせで、善悪の線の上を渡り歩く危うさを持った存在として人間を捉えています。私も同感です。
自力と他力
この章での五木氏の仏教、キリスト教に関する解説は、私が先日気付いたばかりの『他力本願』を深く考え、腹落ちさせるのにも有効なものでした。
善人と悪人、天使と悪魔、というように、はっきりと二つに分けないのが他力思想の土台である。(P173)
阿弥陀仏に仮託された宇宙自然の絶対真理と、ひとりひとりの個人が、ただひとりの私が、正面から向きあうことによって救済されるという論理(P174)
あえて、二項対立的に並べて考えると、理解が進むように思います。
武士道文化《恥》 ⇔ 下層民《罪》+念仏
カトリック《善行》 ⇔ プロテスタント《信仰》
自力 ⇔ 他力
私は、これまで前者的な価値観に重きを置いてきたように思うし、自分の価値観に照らして好意的で、有利な出来事を渇望し、否定的で不利な出来事には徹底的に背を向けてきました。親鸞的な『本願他力』の生き方、
神の恩寵も、仏の慈悲も、個人の善行や修行とは関係ない、とはっきり自覚するところから信仰がはじまる。《中略》真実の信仰を得たとしても、人は生きる力を失うこともある(P192-193)
という考え方はできていません。本書を読んでいる間は、もっと、学びを深めていければ、信仰を軽視してはいけない、と思った時間でした。