金曜日の随筆:江戸時代の三俳人
また運命を動かしていく金曜日がやって来ました。2021年のWK26、水無月の肆です。本日は、俳句の歴史をさらっとなぞった後、江戸時代の三俳人について纏めます。
『俳句』になったのは明治時代
『俳句』は、季語の含まれた五・七・五(十七語)の定型詩です。『俳』という字には、「こっけいなこと、おどけ。(小学館デジタル大辞泉)」という意味があり、俳句を読む人は『俳人』と呼ばれます。
『俳句』とは「俳諧の発句」の前後を取った略語で、明治時代に正岡子規(1867/10/14-1902/9/19)が起こした「俳句革新運動」によって確立され、流布されていった呼称だということです。おそらくは、学校で習った筈ですが、全然覚えていませんでした。
ということは、『江戸時代の三俳人』と称される以下の三人が活躍した江戸時代には、『俳句』とは呼ばれていなかったことになります。
とはいえ、『俳句』として芸術に体系化されていく過程で、彼らの活動や遺した作品の数々が重要な役割を果たしたことは間違いありません。現代『俳句』の基礎を作り、有名な句を数多く残している俳諧の人(俳人)の詠んだ句について知っておこうと思います。
松尾芭蕉
松尾芭蕉は伊賀国出身です。「蕉風」という独自の作法を確立した俳句界最大の巨匠かもしれません。おそらく、一番有名な句は、野ざらし紀行から戻った1686年の春に、江戸の芭蕉庵で催した蛙の発句会で詠んだ
ではないかと思います。
芭蕉は、生涯、旅を愛しました。人生晩年の45歳の時には、弟子の河合曾良と共に江戸を発ち、東北から北陸を経て大垣(岐阜県)までを巡った旅の紀行文『おくのほそ道』を記しています。旅の途中で、多くの名句を残しています。
与謝蕪村
与謝蕪村は、大阪に生まれた江戸時代中期の俳人です。松尾芭蕉を尊敬し、衰退傾向にあった「蕉風」を立て直して、写実的で抒情性のある絵画的な作風を確立しました。「江戸俳諧の中興の祖」と呼ばれます。
個人的には、三俳人の中で最も印象が薄い人です。実際、評価が回復したのは、明治の時代になってからの正岡子規や萩原朔太郎の功績だとされます。蕪村の有名な句は、
あたりでしょうか。
蕪村は画家としての顔もあります。文人画(南画)を確立した、絵画の新ジャンルにあたる『俳画』を開拓した、という功績も見逃せません。
小林一茶
小林一茶は、信濃国の富農出身です。江戸の商家へ奉公に出た後、俳諧の道に入り、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立しました。明るく、ユーモラスで親しみやすい印象を与えてくれる句風は、現代でも人気があります。
小林一茶は生涯で約22,000句も詠んだ多作の人です。有名な句としては、
あたりでしょうか。一茶は晩婚で、年老いてから生まれた子どもを次々と亡くす悲哀を味わっています。陽のイメージとは裏腹に、子どもを喪った悲しみと孤独な身の上を嘆いた句も少なくありません。
今週の格言・名言《2021/6/21-27》
※昨日の投稿で、700日連続投稿を達成しました!
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