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中庸を保つ為には両極端を知る

本日は、『中庸を保つ為には両極端を知る』というテーマで思考を拡げてみたいと思います。なかなか深いテーマだと思うので、現在の生煮え状態から、じっくりと火を通しながら、味わい深く煮込んでいければ、と考えています。

中庸とは?

中庸(ちゅうよう)ということばがあります。これまでに何度も耳にしてきたし、ふわっとは理解しているものの、説明できるほど通暁していないので、改めて字義を辞書で確認してみました。

中庸【ちゅうよう】 
中国、戦国時代の思想書。1巻。子思の著と伝えられる。「礼記 (らいき) 」中の一編であったが、朱熹 (しゅき) が「中庸章句」を作ったことから、四書の一として儒教の根本書となった。天人合一の真理を説き、中庸の誠の域に達する修養法を述べる。

1. かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。また、そのさま。「―を得た意見」「―な(の)精神」
2. アリストテレスの倫理学で、徳の中心になる概念。過大と過小の両極端を悪徳とし、徳は正しい中間(中庸)を発見してこれを選ぶことにあるとした。
小学館 デジタル大辞泉

”両極端に偏ることなく中正で、筋が通り調和がとれていること” というような意味なのだろうと理解しました。さすれば、中庸を貫くためには、その両極端の考え方や振る舞いを理解していることが大前提になりそうです。

中庸は難しい態度

私は、悪目立ちはしたくないので、バランスの取れた中庸でいきたい、という願望があります。ただ、日本で義務教育を受け、高等教育を受け、長年会社員としてホワイトカラー的な仕事を中心にやってきて、日本語でマス情報を受け取り続けている私の価値観は、おそらく中庸とは程遠いものになっているでしょう。先入観や偏見で相当に歪んでいると思います。

自分の身を置く場に心理的安心感が担保されていない、自分の意見は求められていない、と感じた時には、自分の信念を曲げたり、反対の声を上げずに沈黙を貫いたこともゼロではありません。

長年慣れ親しんだ考え方の癖から、簡単には逃れられません。自らを客観視し、メタ認知することはなかなか難しいものだという実感があります。自分では、「こうあるべきだ」という強い拘りは少ないタイプだと思っているものの、周囲からはそう思われていないでしょう。

それでも中庸を意識する

中庸の状態がいつでも優れている訳ではなさそうですし、中庸の態度を維持することが得をしない場合もありそうです。中庸と考えられる位置は、時代や状況によって動くこともありそうです。なので、両極端の考えを知ろうとすることは大事だと思います。

まだこの問題に対しては、ふわっとした状態ですが、引き続き問題意識を持ち続けたいと考えています。



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