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わからない/ワカンナイ

本日は、偶然から広がっていった素敵な体験のことをnoteに残します。

エッセイの名手、沢木耕太郎氏との邂逅

先日、新幹線車内に置いてあった雑誌で、偶然に出遭った沢木耕太郎氏のエッセイに感動したことをnoteに記しました。有名売れっ子作家である氏の作品に、これまで全く触れてこなかったのは不思議なことであり、このタイミングまでお預けになっていた運命の邂逅(めぐり逢い)だったと勝手に美化して考えています。

エッセイ『わからない』

早速取り寄せて読み始めた氏のエッセイ集『バーボン・ストリート』(新潮文庫)の中に、『わからない』という一篇が収録されています。(P57-73)

話のはじまりは、沢木氏がある夜に友人の井上陽水氏から受けた電話です。陽水氏は、沢木氏に、”雨二モマケズ、風二モマケズ……”で始まる宮沢賢治の有名な詩にどんなことが書いてあったか、を聞いてきます。

時は1980年代前半です。今ならネットでググれば簡単に解決する調べものでしょうが、この当時はそういう訳にはいきません。陽水氏は、沢木氏にこの詩をベースにした歌を作っていることを告げ、

ぼくの周囲には、宮沢賢治の詩について訊ねて、すぐに返事をしてくれるような人は、他にいないもんですからね

と、沢木氏のプライドと反骨心をくすぐる発言をします。

沢木氏は必死に思い出そうとするうちに、自分がこの有名な詩を一度も本気で読んだことがないことに気付きます。それでも請け負った手前、一旦電話を切ると、隣町の夜遅くまで開いている本屋まで自転車を飛ばし、その詩を収録した詩集を見つけ出してきます。

家に戻り、沢木氏は電話口から、陽水氏のために賢治の詩の朗読をします。陽水氏は一言一句書き写す訳ではなく、

うん、耳で聞けばいいんだ

と応じます。(恰好いい…)

その後も、沢木氏が読み進める詩の所々で、陽水氏は感嘆の言葉を口にします。沢木氏は、

彼は詩の全体というより、個々の詩句を聞いているのだ。そして耳に引っかかってくる言葉から刺激を受け、そこから歌づくりをしようとしている。

と理解します。詩を最後まで読み通すと、陽水氏は、

驚いたね。まったく、凄い詩だね。

と言います。

その半年後、沢木氏は、筑紫哲也のニュースショーの最終回にゲスト出演した陽水氏が『ワカンナイ』という曲を歌うのを聴きます。沢木氏は、

聞きながら、私は軽いショックを受けていた。あの宮沢賢治の詩が、現代のソング・ライターの手にかかると、こんな風に生まれ変わることができるのだ。私はまずそのことに驚き、そしてこの「ワカンナイ」という曲が、想像していたよりはるかに素敵に仕上がっていることに驚いていた。

と綴り、続けてこの歌詞に対する自分なりの思いと解釈を語ります。

楽曲『ワカンナイ』

今、ネットを検索すると、沢木氏が当時テレビで観たであろう番組の映像を探し当てることが出来ます。(※リンクは控えます)

初めて聴く曲です。耳に残ります。『夢の中へ』『少年時代』『リバーサイド・ホテル』など有名な数曲は知っていても、井上陽水は、世代が離れている為、私が熱心に聴いたアーティストではありませんでした。

陽水氏の声には特徴があります。『ワカンナイ』を何度も聴きました。聴き終えると”ワカンナイ…”のフレーズが蘇ってきて、余韻を引きます。棘のようなもの、ぬめっとした感覚が心に引っ掛かってきます。

沢木氏のこのエッセイを読んでいない人でも、宮沢賢治の詩からの本歌取りなのは思い当たるかもしれません。私は、ヒントを貰っていても、何度聞いても、歌詞の意味する所がずっともやっとしていて、確信が持てません。最後は『ワカンナイ』という所に着地してしまいます。

全ては、上越新幹線の車内での私の無意識的な行動から繋がっています。出遭いが次の出遭いを呼び、拡がっていく。大袈裟かもしれませんが、これが人生なのかな。

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