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自己肯定感についての真っ当な意見

本日は、私もしばしば考える『自己肯定感』について、ネットで「真っ当だなあ」と思える記事を見つけたので、自分の意見を掘り下げておこうと思います。評論家、著述家の真鍋厚氏の書かれた記事です。

真っ当な意見

この記事は、会社で昼食を食べ終えた後の休憩時間にネットサーフィン(死語?)していた際に、偶然見つけたものです。自己肯定感は、私もよく考えるテーマです。ここで語られている内容は「真っ当」だなあと思いました。

自己肯定感について、著者が取材された医師が語ったという

他者からの『肯定的ストローク』に依存している面が大きいので、自分の認識を変えるだけではどうにもなりません

というのは、動かし難い真実だろうと思います。客観的に見てヘタレとしかいいようがなく、他人から蔑まれている自分を、「価値ある自分」と無理矢理言い聞かせて(錯覚させて)、踏ん張ったとしても、その気持ちを持続することは難しいものがあります。対処療法には限界があり、最終的には他者からはっきりわかる承認を得ないと、本当の意味での自己肯定感は持てない、という意見に同意します。

良質な関係性や必要としているコミュニケーションの欠乏状態を、何か、あり合わせのもので補うような振る舞いに見えます。しかし、見方を変えれば、根本的な解決はハードルが高すぎるがゆえに、お手軽な弥縫(びほう)策でしのいでいるともいえます。

良質な関係性や必要としているコミュニケーションの中身は人によって、かなり異なりますが、多くの場合、すぐ手に入るものではありません。そのため、安易に「自分だけでどうにかしよう」という発想につながりやすくなります。要は、他者の存在が前提とされている問題であるのにもかかわらず、他者がほとんど関与しない答えにしがみつく作法です。

という分析は、的を得ていると感じます。自分の意思で欠落感を埋めようとあれこれ手を出すのは、対処療法的にはありでも、根本的な解決策にはなり得ません。辛い気持ちを抱き締めて、耐える時間も大切です。

自己肯定感を保つために自ら自己肯定を促すしかない現実

著者は、自己肯定感を回復するためのマニュアルが、自己解決や自己完結を促す内容になっていることの皮肉を指摘します。自己肯定感を醸成するには、自分以外の仲間からの信頼を得ること、集団内で指導的立場を得たり、同調し支えてくれる仲間がいると感じられること、が重要といっても、そういう機会はごく一部の人にしか与えられません。機会と才能に恵まれない人は、残念ながら、自分自身で解決を図るしか方法がなくなってきているのが実情です。

個人差だってあります。自己肯定感を保つことに何の疑いのない人もいれば、不安で不安でしょうがない人もいます。私自身は、自己肯定感が極めて低いという自覚があります。他人からの信頼を得ている、家庭以外に安心できる居場所を確実に築いている、という実感は薄いというのが本音です。誰も自分に期待していないし、相手にもされていない、自分で愉しむしかないよなあ…… というのを前提に、自らを鼓舞しながら日々過ごしています。

自己肯定感は呪縛でしかない

自分で自分は大切にすべきだとは思いますが、他人に大切にされないことを必要以上に嘆いていると心が病みます。私は長年の経験から、対処療法による延命策がある程度身についていると自負しています。自分を抱きしめるばかりでなく、時に突き放すことも必要です。

自分なんて、世の中から必要とされていない!

のが普通状態です。どんな人間だって、「最終的には」必要とされてはいません。自己肯定感を持てない寂しさを直ちに払拭する必要はありません。きちんと現実に向き合う時間を確保すべきで、たまに訪れる高揚感をラッキーと捉えるくらいで丁度いいと思うのです。誰に必要とされたいのか? どういう状態が必要とされていると言えるのか? 辛さは、定期的にきちんと吐き出しておく方がいいと思います。

自己肯定感が欲しいと思う気持ちをなかなか反らすことはできません。望んでいいし、求めていい。「必要とされたい」と思ってもらいたい人に刺さる言動と行動を繰り返していけばいいと思います。

これが、しばしば自己肯定感を持てなくなる私の自己解決法です。

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