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なぜ、戦争ゆかりのことばがポジティブに思えてしまうんだろう?

私が漠然と疑問に思っていたことについて、言語化を試みてみます。本記事は、新たに立ち上げるマガジン『Markover 50 の疑問』シリーズの第一作目です。いずれは、『なぜ、人は争うのか?』、『なぜ、競争を肯定する人がいるのか?』、『なぜ、人は優劣をつけるのが好きなのか?』といったテーマにもつなげていきたいと思います。

戦争ゆかりのことば

戦争・バトルを想起することばが日常的に使用されています。ビジネスの世界は顕著です。「戦略」「戦術」「兵站」「動員」などの軍事用語を、ビジネスマンは使います。そういう世界に長く身を置いたので、ビジネス=戦争という価値観に染まっていました。

本記事では、『挑戦/チャレンジ』を取り上げてみます。好意的に受け取られがちなことばで、以前の私もあまり気にせずに使っていましたが、『脱競争』『脱成長』に親近感を感じている昨今では、簡単に使うことに抵抗のあることばです。

私が好意を寄せている人たちが、このことばを使う場面に遭遇すると、
「本質的には好戦的な人なのかなあ…」
「競争肯定の人なのかなあ…」
「人生は勝負であり勝ち負けを重視する価値観の人なのかなあ…」
と想像し、心理的な距離が遠くなる瞬間があります。

その人が積極的な好戦派ではないにせよ、闘うことを怖れない人、競争して相手を打ち負かすことに否定的ではない人のそばでは、戦闘が起こる確率は高くなります。(私は、引き寄せの法則、因果応報を割と信じています。)

戦争には色々な形態がありますが、本日私が扱う戦争ということばは、戦闘(バトル)に近いイメージで使っています。戦闘とは、争う者同士の正義が衝突して紛争に発展するものだと思います。勝てば官軍、敗ければ賊軍。

自分にその気はなくとも戦闘に巻き込まれたり、場合によっては敵味方に峻別するための踏み絵を踏まされて、自分に攻撃や非難の牙が向けられたりする可能性だってあります。今の私としてはどちらも避けたい事態です。

挑戦/チャレンジ

「挑戦/チャレンジ」は、至る所で耳にすることばです。「戦(たたかい)に挑(いど)む」の意味なので、本来もっと悲愴感があり、使うことに慎重さと覚悟が必要なことばだと思っています。

戦いに挑む本人に訪れる結末は、勝利か死かのいずれかです。勝利の反対語は敗北ではなく死(ジ・エンド)です。それがバトルの本質だと思うのです。(歴史上、敗北を喫して結果的に捕虜になったり、逃げ落ちて生き延びたり、敗者が英雄になった事例は幾つもありますが…)

しかしながら、実際には「自分の夢の実現に向けて挑戦し続けます!」「チャレンジしま~す」とカジュアルに濫発されている印象を持っています。「挑戦し続ける」とは、「自分が挑む対象、自分に挑んでくる対象を殺し続けてやるぜ!」という物騒な決意表明のはずが、何かカッコいいイメージをまとって好意的なことばとして届けられます。

大真面目で覚悟を決めて取り組んでいる人を茶化す意図はさらさらないのですが、彼らがイメージしている戦いは、もう少しバーチャルな「戦争やバトル…みたいなもの」だと思うのです。この内容を『挑戦/チャレンジ』と呼ぶのは、ちょっと大袈裟強過ぎないか? と思う時もあります。

今盛んに使われる『挑戦/チャレンジ』ということばの意味するところに近いのは、「Challenge」ではなくて「Try」だろうという気がしています。「挑戦し続ける」はニュアンスとしては、「色々困難に見舞われても、へこたれずに立ち向かい続ける」であり、「何度でもトライし続けます」という表現がしっくりきそうな気がします。

チャレンジ=挑戦=ポジティブ を育んだ背景

Challengeには「困難・苦難」という意味があり、どちらかといえばネガティブイメージのあることばでした。由来はラテン語の「間違って非難する」。「意義を申し立てる」のような場面に使われることばが、なぜ、日本ではポジティブな意味合いで使われるのか? 思い当たる理由が一つあります。

私の息子は、幼少時に福武書店の『しまじろう』の物語が大好きでした。しまじろうの通う幼稚園の名前は「チャレンジ園」で、知育プログラムは「こどもちゃれんじ」という名前でした。

この教材自体は、健全な子どもに育つよう、様々なことを楽しく学べるよう工夫された優れたものだと思います。このサービスの人気と普及は、「チャレンジ」ということばが本来持つネガティブ感を中和し、ポジティブ感の醸成に一役買っていると思います。

そうでなければ、『困難/苦難園』という名前の幼稚園に通わせたり、『困難・苦難』という教育プログラムを選ぶのは変な感じです。

戦争を連想することばであるという自覚

『挑戦/チャンレンジ』が、身近で親しみやすいことばに変換したことは、別に悪いことではないのかもしれません。「トライする」ハードルが下がることは社会全体にとっておそらくいいことだろうと思います。敗者復活のシステムが整備されていれば、敗けることが糧になる効果もあります。

私が危惧するのは、戦争を連想させることばがカジュアルになることで、戦争の負の面が軽視されること、安易な戦争・暴力の肯定に繋がることです。何事もやってみることは意味があるとはいえ、戦争に敗けた時の悲惨さ、後味の悪さは無理して経験しなくてもいいことです。戦争には簡単に踏み込まない、という抑止力は重要だと思います。私は、言霊効果を信じています。



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