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本を読むことで人生は豊かになったのか?

本日は、私にとって大切なテーマである『本を読むこと』について、掘り下げて考えてみます。

人生で最も価値ある決断

私がこれまでに自分の意思で決めた目標の中で、最も価値ある決断だったと思うのは、「本を読む人になる」ということです。

1987年春、大学生になったばかりの私は、一念発起して「本を読む人になろう」と思い立ちました。電車に乗って大学に通いはじめてしばらくした頃でした。「そうだ、旅に出よう……」くらいの軽いノリでした。

高校時代の私は、現代国語の長文読解問題を苦手にしていました。モノを知らない、読解力がない、センスがない、という評価を突き付けられているように感じて、コンプレックスでした。私の中で「本を読む人」と「知的なオトナ」は同義でした。私は、自分の意見のない、自分のことばで話せない、モノを知らない無教養なオトナになりたくはなかったのです。大学からの帰宅途中、神戸三宮のセンター街にあるジュンク堂書店で薄い文庫本や新書を買っては、電車の中や自室で本を貪り読むようになりました。

本を読む力がないことを痛感した

読書に取り組み始めた最初の頃、すらすらと読みこなせる本もあれば、読み進めるのにひどく苦労する本もありました。苦労する本は、私に読みこなすだけの知識が不足していることが原因だとわかってきました。運動で言えば、強くなるための練習をこなすだけの基礎体力がない状態で、絶対的な知識不足が読解力を妨げていました。

モノを知らない……
モノを深く考えられない……
モノの考え方を知らない……

なのであれば、まずは量をこなして土台を作ることが必要だと思い、内容がわからなくても、楽しくなくても、一度手にした本は最後まで読み通すことを自分に課しました。とにかく活字に食らいつく…… 体育会系の精神主義そのもので、コスパの悪い読書スタイルを続けました。

当時の私の読書修行は、一冊一冊の本を隅々まで味わい尽くすというよりは、投げ出したい衝動に耐えて読了した冊数が積み上がるのをゲーム感覚でこなす訓練でした。

大学四年間の読書が人生の土台になっている

1987年春から大学を卒業する1991年春までの四年間は、私の「本を読む生活」の土台となった時期です。「質より量」と割り切って、ガムシャラに読み漁り、累計で1,000冊以上は読破したと思います。

子供の頃から本を読んできた先天的な読書家たちに比べると遅咲きのデビューだったので、知識量や教養は彼らの足元にも及びません。それでも自己流でがむしゃらに読み続けた結果、効率や歩留まりは悪かったものの、少しづつ知識が自分の内部に蓄積され、文脈を読み解く力がついてきている手応えは感じていました。

この四年間で読んだのは、小説や新書、人物伝や国際政治関連書など様々です。ただ、古今東西の名著と言われる難解な書を読みこなせるほどの実力は、当時はまだありませんでした。(今もありません)

束の間、本を自由に買える喜びに浸った時

社会人になって自分の自由になるお金が増えたら、気になる本やCDを買いまくろうと決めていましたので、本や雑誌に惜しみなくお金を使いました。それは今もあまり変わらない習慣です。

学生時代は使えるお金があまりなかったので、1,000円以上する本を買う時には厳選に厳選を重ねました。ハードカバーの本を買ったのは『大国の興亡 上・下』『石原莞爾 上・下』『村上春樹全集』など、数えるほどしかありません。当時吟味して買った本は、今でもデザインがぱっと思い出せます。

社会人になって、新刊のベストセラーや文芸書、専門書などにも気軽に手を出せるようになったことが、純粋に嬉しかったです。予定のない週末に、神保町の古書店巡りをするのは、至福の時間でした。

でも、そんな喜びがあったのは、最初の数年だけでした。本を好きに買えるようになると、逆に本を吟味して選ぶ喜びや楽しみが薄れていきました。第一印象やタイトルが気になって買ったはいいけれど、読まずに積んでおくだけの本がどんどん増えていきました。

仕事も忙しくなり、本を読む時間も読了する冊数も年々減っていきました。辛うじて読書時間が取れる通勤時に読む本も軽い内容のものばかりになり、骨のある本に真剣に向き合えるのは、ゴールデンウイークや年末の長期休暇くらいになっていきました。

ただ時折、読書熱が燃え上がる時があり、面白い本に出会うと徹夜で読み明かしたりもしました。本を読む習慣が完全に消えることはありませんでした。

実用書・ビジネス書中心の社会人中堅時代の読書

会社員になって数年すると、「仕事で認められたい」「レベルの高い仕事がしたい」「アホだと思われたくない」という思いも強くなり、読む本の種類が、ビジネス書や実用書へとシフトしていきました。

アメリカ留学時は、大量の課題図書を読む必要があり、嫌でも本と向き合わざるを得ない時間が増えました。ビジネスクラスで学んだことで、実用書・ビジネス書に書かれている内容がすんなり理解できるようになっていきました。

私が仕事に重心を置いていた2000年~2010年代中盤、本を読む目的は主に、仕事に役立つヒントを得ることでした。本当は、小説や哲学書の方が深い学びがあると思ってはいたものの、より直截的で実践的な実用書やビジネス書をチョイスしていました。常に悩みの種だった時間管理術については、似たようなタイトルのノウハウ書を何冊も買いましたが、結局の所は殆ど実になっていません。壮年期の読書としては、あまりよくなかったのではないか、という後悔の気持ちが、今では強くあります。

今の私は、実用一辺倒の読書をする時間はもったいないと感じ、あからさまな実用書やビジネス書を読む機会は極力減らすようにしています。

本を読む習慣の是非

私は、自由になりたかったから、本を読み始めたのだと思います。当時は、その自覚はありませんでした。生まれ育った土地を脱け出し、自分の想像できない未知の世界を体験したかったのです。それは私にとって譲れない自由≒夢でした。自由と夢は、≒の関係でした。

本をパスポートにすれば、「自分は何者にでもなれる」と信じられました。「知識と教養があって、周りから一目置かれる人間になりたい」と願い、本を読み漁りました。人生前半戦で私の求めた自由≒夢は達成できたと思います。本を読む習慣を得たことは価値ある決断だった、と考えています。

自由≒夢を追い求める人生が辛いこともあります。自由でありたいゆえに不自由になる、という逆説も今ならば理解できます。私が自由ということばに過剰な期待をかけ、誤解していたことは、わかっています。

そして人生後半戦の今も、迷ったり、悩んだり、行き詰まったり、何かを知りたいと思ったりした時に頼るのは、やっぱり本です。窮地の時、誰かが主張することばに救いやヒントを求めてしまう姿勢は一向に改まりません。

私の考えることは、本に書かれていたものを組み合わせて、自分が一番気持ちいいと感じられる形に編集加工された模倣に過ぎません。発想の根っこにあるのは、手垢のついた誰かの発明の物真似であり、ありふれた平凡なものです。

私は今でも、本に依存し、本の中に自分の人生の悩みの解決策を探し続けているのかもしれません。これから叶えたい新たな夢や目標も、本を通じて探そうとしています。その安易な態度は、果たして人生後半戦を豊かにするのか、少し気持ちが揺らいでいます。

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