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海外移住を考えていた頃

本日のnoteはネタが思い浮かばないので、昔の思い出話、箸休めです。

一番楽しかった時代

私が会社員時代に最も充実感を感じていたのは、アメリカ駐在員時代です。2001年6月から2005年6月まで、きっちり4年間。最初の1年間は語学留学生として、残りは駐在員としてアメリカ中西部で暮らしました。

自分には、アメリカ中西部の文化や気候や空気感が肌に合うと直感していました。最初こそ、ことばの問題、文化の違いに慣れなくて戸惑うことがあったものの、2年位経過した2003年後半頃からは、仕事もプライベートも軌道に乗ってきて、どんどん楽しい日々になっていきました。

仕事は多忙ではあったものの、精神的に余裕が生まれ、異国生活を心底楽しんでいました。夏・冬の年二回にはきっちり旅行に行って楽しんでいましたし、一生大事にできる思い出を残せたと思います。

海外駐在を終えたら激務の日々が…

「もう少しこの日々が続いたら…」と心から願った楽しい日々も会社からの転勤辞令により終わりがきました。後ろ髪を引かれながら、2005年6月11日、日本へと本帰国しました。

東京の職場に復帰すると、地獄のような日々が待っていました。慣れない業務と大量の問題に追われる日々に、どんどん疲弊していきました。

アメリカの事務所は小さな組織だったので、自分がハンドリングできる権限も大きく、遣り甲斐も感じていました。日本の組織に戻ると下っ端に逆戻りです。実務をこなし、他部門との調整業務の連続にモチベーションが削がれることも少なくありませんでした。

当時はまだ30代で体力も気力もあったので、「逃げる訳にはいかない」と辛うじて踏ん張れていました。それでも連日の残業生活で、身体の至る所に不調の兆候は出ていました。精神的安定には程遠くて、不満が爆発して、悪態を衝くことも少なくありませんでした。

海外移住をうっすら考えはじめた

アメリカでは、200平米くらいある広いコンドミニアムに住ませてもらい、クルマで移動する快適な生活でした。それが、日本に帰ると、千葉県浦安市の50平米ほどの狭い社宅に住み、毎朝激込み状態の東西線に乗って通勤する日々に環境が一変しました。一度恵まれた環境を知ってしまうと、自分が転落したようで惨めな気分でした。

当時はまだ息子が誕生しておらず、私と妻だけの二人暮らしでした。妻も働いていましたが、アメリカ生活への未練があり、日本の余裕のない生活を窮屈に感じているのは私と同じでした。

2006年頃から、夫婦でうっすらと「日本脱出」を考えはじめ、海外移住の本や雑誌を買ったり、メルマガを読んだり、体験者の話を聞きにいったりもしていました。

今は海外移住は考えていない

当時を振り返ると、海外移住は目の前の現実からの一時的逃避が目的で、真剣に考える選択肢までにはなっていなかったように思います。

現実問題として、移住しても食べていけるアテがなかったし、折角ここまで仕事を頑張ってきたのに、転職してキャリアをリセットするのは勿体無いなあとも感じていました。異国生活の理想郷を妄想して、気を紛らわせていただけだったのでしょう。精神安定剤の意味はあったかもしれませんが、実行するプランも勇気もありませんでした。

時は流れて、今はもう海外移住は全然考えていません。日本国内で移住することは積極的に考えていますが、日本を離れて異国で暮らすことには大きなメリットをイメージできません。将来の選択肢からは完全に外しています。

ちょっとダークな総括を吐いてみる

日本が国際社会の中で存在感を高め、経済状態がこれから先に大きく浮上していくイメージは持てません。今の日本は、辛うじて最盛期にあると思います。ここからは、パワーを削がれ続けてゆっくりと沈みゆく状況と予想しています。

だからといって悲観する必要はないと思います。国の繁栄・成長=個人の幸せ とは限りません。画一的な人生の成功モデルが崩壊し、多様な生き方が認められる社会になりつつあるのも今の日本です。この変化をみると、ポジティブな気持ちにもなります。

私は、落日を迎えている日本経済を無理矢理支えるための労働力として投入され、消耗させられ、使い捨てにされたような形で会社員生活を卒業しました。ある意味、典型的な日本人だったと思っています。私の選んだ道でしたから、過去は全然恨んではいません。大した貢献ができなくて申し訳ない気持ちです。

私としては、日本とともにのんびりと沈んでいく覚悟をしています。浮上の為、維持する為に意欲的に活動する人は応援したい。少なくとも、邪魔はしないようにひっそりと生きていこうと思います。


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