白鹿を蘇生させた、大空を駆ける勇猛な森の王者「鷹」 - 『神々の意思を伝える動物たち 〜神使・眷属の世界(第四十二回)』
「神使」「眷属」とは、神の意思(神意)を人々に伝える存在であり、本殿に恭しく祀られるご祭神に成り代わって、直接的に崇敬者、参拝者とコミュニケーションを取り、守護する存在。
またの名を「使わしめ」ともいいます。
『神々の意思を伝える動物たち 〜神使・眷属の世界』では、神の使いとしての動物だけでなく、神社仏閣に深い関わりのある動物や、架空の生物までをご紹介します。
動物を通して、神社仏閣の新たなる魅力に気付き、参拝時の楽しみとしていただけたら幸いです。
鷹と鷲
鷹(タカ)は大空を優雅に舞う姿、精悍な顔つき、勇猛な狩りの様子などから、鳥類の中でも別格の存在感を放っています。
鷹や鷲(ワシ)などの猛禽類は、食物連鎖の頂点に君臨する捕食者であることから、神の使いであると神聖視されて来ました。
その鷹と鷲ですが、意外にその区別は曖昧で、タカ科に分類される比較的大型の種を鷲、中型から小型の種を鷹と呼称しているに過ぎません。
クマタカはオスで体長約70cm前後と鷹の中でも大きな種なので、世界的な基準では鷲に分類することも可能です。一方、カンムリワシは鷲という名がついてはいますが体長約50cm程度と、クマタカの方が大きいのです。これが区別の曖昧さの所以です。
鷹狩り
クマタカやオオタカは、古来より「鷹狩り」に使われて来ました。
鷹狩りの歴史はかなり古く、紀元前4500年頃には既に中央アジアを中心に行われていたとされます。
それが日本に伝わったのが西暦355年のことです。『日本書紀』巻第十一にはこのような記述が見られます。
仁徳天皇即位43年9月1日のこと。依網屯倉阿弭古(ヨサミノミヤケノアビコ)は不思議な鳥を捕えて、天皇に献上します。
天皇はこの不思議な鳥を酒君(サケノキミ)に見せて、これはどういう鳥なのかと問います。
酒君は「この鳥は百済(現在の朝鮮半島西部)に生息する鳥です。この鳥は飼い慣らすことができ、人にも従います。速く飛ぶことができて、諸々の鳥を捕えます。百済ではこの鳥のことを倶知(クチ)といいます」と答えます。
天皇は、それを聞いて早速この鳥を酒君に預けて訓練を開始します。うまく慣らしたのち再び天皇に献上すると、その日のうちに天皇は大阪の百舌鳥野(モズノ)に狩りに出かけます。すると倶知(鷹)はたちまち数多の雉を捕らえるのです。
以来、鷹狩りは主に公家などの高貴な人々の間で親しまれ、伝統が受け継がれて来たのです。
諏訪大社では「贄鷹(にえたか)」といって、鷹が捕らえた獲物を神前に供える神事が行われて来ました。
この神事を司っていた流派である放鷹術の諏訪流は代々、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった名だたる武将たちの専属の鷹匠として仕え、今日までその伝統と技法を伝えています。
最も鷹狩りが盛んに行われていたのは、江戸時代の徳川将軍家。
これは鷹狩りが単なる武士の嗜みではなく、合戦のシュミレーション、領地視察として最適なものだったからだともいわれています。
また、鷹の羽は家紋にもなっています。古くから「阿蘇神社」の神紋であったことから、鷹の羽を家紋とする家系は南九州一帯に分布しています。
両親が熊本県人吉市出身であることから、我家の家紋も「丸に違い鷹の羽」です。
神使「鷹」
英彦山神宮
福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町にまたがる標高1,199mの英彦山は、「日本二百名山」に数えられる登山の名所であり、また羽黒山(山形県)、熊野大峰山(奈良県)とともに「日本三大修験山」に数えられる修験道、山岳宗教のメッカです。
この英彦山に鎮座するのが「英彦山神宮」、県内唯一の神宮です(頂上に上津宮、山腹に中津宮と下津宮が鎮座する)。
この英彦山神宮の使いは鷹とされています。
神使としての鷹には、以下のような由来があります。
継体天皇25年(531年)、山中で猟師の藤原恒雄が1頭の白鹿を射ました。その時3羽の鷹がどこからともなく現れて、絶命した白鹿に檜の葉に浸した水を与えると、白鹿は生き返りました。
これを見た恒雄は、白鹿と鷹は神の化身なのだと悟り、その後仏門に入ってこの地に寺を建立したと伝えられています。
ご祭神の稲穂の神、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)は、鷹の姿をして東よりこの地に現れたといわれています。
このような謂れから、英彦山神宮で頒布される護符は牛王法印(熊野三山で授与されるカラス文字で書かれた特殊な神札のこと)で、3羽の鷹が描かれています。神紋も鷹の羽がモチーフとなっています。
私は登山が趣味で、県内でも有数の標高を誇る山であることから、年に何度かここ英彦山に入ります。各所に修験者たちの修行の痕跡が残る、とても神秘的な山です。
登山道で、ばったりと鹿に出くわすと、この創建の伝承が頭をよぎります。いつぞやは、数mにも及ぶと思われる蛇と遭遇し、とても慌てた記憶があります。