【歴史/架空】『Back in the USSA』解説・解読/共産主義アメリカの興亡[第1回]
ふう、『Southern Victory』の記事を書き終わったぞ。じゃあ、寝るか。
なんすか、その面白そうなの。
というわけで、物知らずな私は歴史改変モノとして有名らしいこの作品を調べ、またもその「おいしいところ」を分析する作業に入ったのでした。
たまげたなあ。
というわけで、『Back in the USSA』。7本の短編から成る、仮想の20世紀歴史小説について、こねこねしていきます。
【第1回終了後追記】
第1回だけで、77,000字になりました。ここからは7つの短編ごとに分けて更新します。世界観の説明などが多いので、たぶん第1回だけでも十分に伝わるでしょう。
やりきった感もありますから、第1回が最終回かも。とはいえ、2本目以降も面白そうではありますから、やたら脱線する人物紹介をオミットして続けるのはありですね。
主題を知るうえで間違いない見出しの選択は、「1本目『空中(In the Air)』」全体と、登場人物紹介の「チャールズ・ハーディン・ホリー」「ハワード・ヒューズ」「ジャック・ケルアック」「ペギー・スー」でしょう。
個人的おすすめ見出し項目の1つ目は、「バリー・ゴールドウォーター」の人物紹介です。おかしなテンションで書いたためか、まるで本人の話をしていません。
個人的おすすめ見出し項目の2つ目は、「ミッチ・"デューク"・モリソン」ですかね。『映像の世紀』に引きずられまくりじゃないか、たまげたなあ……。
出版社による『Back in the USSA』紹介文
以下、紹介文の「意訳」と「原文」です。
【個人訳】
1989年……20世紀を支配してきた2つの超大国のうちの1つが、引き裂かれようとしていた。1917年の革命以来より権力を保持してきた「党の古き護り手」たちは、衰勢と分裂の途にある。道徳的にも財政的にも破綻した、党の腐敗と非効率に満ちた暴政について、あまりにも長く沈黙を保ってきた反体制派が声を上げた。新たな開放と再建の時代が始まろうとしている……。
これが、アメリカ社会主義合衆国連邦だ。
ユージン・デブスが革命を主導したとき、それがアル・"スカーフェイス"・カポネ議長の強権体制、ならびに1950年代まで続く独裁政権につながると予想した者はほとんどいなかった。しかし、いかなる専制政治も、資本主義者であろうと共産主義者であろうと、バディ・ホリー、ハワード・ヒューズ、トム・ジョード、エリオット・ネス、カート・ヴォネガット、そしてブルース・ブラザーズのような真の革命家たちを止めることはできない。
これは、アメリカが革命を経験し、ロシアがそうならなかった20世紀の物語だ。クレムリンにはツァーリがいて、ホワイトハウスにはコミッサールがいた。アメリカが日本を侵略し、イギリスがベトナムでの戦争へ突入する。アイザック・アシモフはロシアのテレビで占星術師をやっていて、エド・ゲインは労働英雄だった。
キム・ニューマンとユージン・バーンが、「もしも……?」の小説で歴史をひっくり返す――万国の労働者よ、精読せよ!
【原文】
1989... One of the two superpowers which has dominated the 20th century is on the verge of being torn apart. The old communists regime which has held sway since the Revolution of 1917 is weak and divided. Dissident voices, silent for too long, have been raised against the corrupt and inefficient gangsterism of a morally and financially bankrupt ruling party. A new age of openness and reconstruction is dawning...
This is the United Socialist States of America.
When Eugene Debs led the Revolution, few expected it to lead to the iron-fisted regime of Chairman Al "Scarface" Capone, a dictatorship that would last into the 1950s. But no tyranny, capitalist or communists, can stop real revolutionaries like Buddy Holy, Howard Hughes, Tom Joad, Eliot Ness, Kurt Vonnegut, andthe Blues Brothers.
This is the story of 20th century where America had a revolution... and Russia didn't; where there were Tsars in the Kremlin and Commissars in the White House. Where America invaded Japan and Britain fought the war in Vietnam; where Isaac Asimov was a Russian TV astrologer and Ed Gein was a Hero of Labor.
Kim Newman and Eugene Byrne turn history on its head with this novel of "what if...?" -- a must-read for Proletariats world-wide!
紹介文の翻訳思案
紹介文の解題を行っていきましょう。
【A must-read for Proletariats world-wide!】
順番は前後しますが、最後のくだり。「万国の労働者よ、精読せよ!」は完全にお遊び超訳です。「世界中のプロレタリアートにとって必読の書!」くらいの直訳が適当でしょう。英語版の「万国の労働者よ、団結せよ!」は「Working Men of All Countries, Unite!」ですから、まるで違うので。
【20230914 22:50 追記】
情報提供あったけぇなぁ……!
「世界の労働者達に無条件で推薦する」
(Unreservedly do I recommend it to the workers of the world.)
(Я от всей души рекомендую это сочинение рабочим всех стран.)
というわけで、上記がレーニンの寄せた序文の日本語版、英語版、およびロシア語版でした。構文自体の相似性は少ないものの、文意は限りなくレーニンが提示したものに似ていますね。
【The old communists】
単純に翻訳すれば、「党の旧指導部」とか、より単純に「古い共産主義者たち」じゃあるんですが、史実のソ連には「オールド・ボリシェヴィキ」という用語がありました。
1917年のロシア十月革命以前からボリシェヴィキとして活動し、まさしくロシア帝政を打ち倒す原動力であり、メンシェヴィキのような「革命の皮を被った反革命さえも打倒した存在」として、「党の古い護衛(старой партийной гвардией)」とあだ名され、結果的に「赤い貴族」に最も近い場所を占めるに至った人たちです。
彼らは『動物農場』で「すべての動物は平等である。しかしある動物はもっと平等である」と揶揄された"寄り合い所帯"を作って特権階級たらんとしますが、皮肉にもそれを破壊したのは、土壌となる官僚組織を構築したスターリンでした。
大粛清。あるいは、大テロル。赤軍のみならず、共産党員も、単なる市民までもが犠牲になった、激烈な"Great Purge"です。
とはいえ、その代わりを埋めるために、これまた有名な「ノーメンクラトゥーラ(номенклату́ра)」の人事制度に則った再構築が進められ、何なら現代ロシア共和国にも多大な影響を残していくことになります。
脇道にそれましたが、やっぱりここは叙情的な「言い草」がいいよね。ということで、「党の古き護り手」としました。特権階級には、常に美しい歴史と物語がついて回ります。そして、彼らが失脚するとき、それらはすべて反転するのです。まるでタロットの「吊るされた男(The Hanged Man)」のように。
【The United Socialist States of America】
和訳が「アメリカ社会主義合衆国連邦」って、固有名称がぶくぶく太り過ぎやろこれ感がありますが、何しろ元ネタが「ソヴィエト社会主義共和国連邦(Союз Советских Социалистических Республик)」です。
この元ネタなソ連が、「共産主義の建前」を守るべく重視している点として、例の国歌の歌いだしでも有名な「Союз(ソユーズ)」を使用しているところが挙げられるでしょう。
ソユーズ。有人宇宙船の名称ともなったこの単語は、「団結」や「連邦」といった訳語があげられますが、その原義は「(対等な)同盟」です。
ソ連=ロシアではない。
ソ連はすなわち「全ロシア=ソヴィエト会議(1937年スターリン憲法以降は最高ソヴィエト)」を最高国家機関とし、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国最高会議などの各国家の最高会議(最高評議会)がその構成主体となる。
これら各国家ソヴィエトならびに各民族ソヴィエトの対等な「同盟」こそが、ソ連である。
と、今となっては「欺瞞!」とニンジャスレイヤーばりに言いたくなるような論理が、1917年から20世紀末まで頑張っていた……。ソ連とは、各地域、各民族、各国家の「ソヴィエト(評議会/革命評議会/軍事評議会/労農評議会/労農防衛評議会/会議/etc.)」が「同盟」して作り上げる理想国家です。
かてて加えて、アメリカ合衆国は、その考え方がソ連式同盟型の社会主義にマッチする部分もありました。もっとも、アメリカの「連邦主義」は、その形態や解釈が時代ごとに変遷していますので、一概に言い表せないものの典型になるでしょうか。
そうは言いつつも、現実のアメリカ合衆国(2023年9月現在)において、政治団体「アメリカ民主社会主義者(DSA)」が民主社会主義を標榜し、少しずつ勢力を伸ばしている点は注目に値します。
もっとも、「民主社会主義 (民主主義政体での社会主義政策の実現 / 革命など劇的変化を望まない傾向 / 時として社会民主主義左派)」はその名前どおり、「社会民主主義 (民主主義政体での社会主義政策の実現 / 穏健左派)」以上に民主主義ではありますが、このあたりもまた土地柄にあわせた"順応"と"最適化"によって変わっていくでしょう。
アメリカ合衆国は公式に定めてはいないものの、国章にも利用するモットーとして「E Pluribus Unum(多数から一つへ)」なるラテン語の成句を使ってきました。知らずに日本語訳だけ見たら、かなり社会主義的なものに見えそうです。
私はこの語句が結構好きなんですが、1956年に「In God We Trust(我ら神を信ず)」という英語の公式標語が採用されました。これも南北戦争期から使われています。
ステイツくん、「明白な天命(Manifest Destiny)」とか「大覚醒(The Great Awakenings)」とか、かなり宗教方面に転がりそうな素質もあるんですよね……。
南北戦争があまりに悲惨な内戦ということもあり、『ヨハネの黙示録』の描写から強く影響を受け、神の正義に基づく恩寵と勝利を願う「リパブリック讃歌(The Battle Hymn of the Republic)」が作られたのもわかる気がします。
そこのところを考えると、「自由の喊声(Battle Cry of Freedom)」はちゃんと愛国歌してて、ホッとする心地ですね。
なお、「In God We Trust」については、信教の自由を侵犯するのではないかということで、国内で騒動が起きるたびに揶揄されているようです。「神は今日も銃乱射事件を望まれた」なんてコメントをもう見たくないよ、カムパネルラ。
というわけで、正義のもとに社会主義へ突っ走ったアメリカなら、史実の「Union of Soviet Socialist Republics」が「ソヴィエト社会主義共和国連邦」なんですから、「The United Socialist States of America」が「アメリカ社会主義合衆国連邦」という、"うーん、合衆国と連邦で団結ミーニングがダブってしまった"シチュでさえもむしろ誇りに思うでしょう。思ってほしいという希望ベース。
【Commissars】
時代や状況で「人民委員」だったり「政治将校」だったり「軍事委員」だったりするし、そこにUSSRではないUSSA的なサムシングまで入ってくるんなら、もうまとめて「コミッサール」という包括的な概念でいいでしょ。なんてテキトー極まる判断なのだ。
【A Hero of Labor】
ソ連は戦争で活躍した軍人などを讃える、「ソ連邦英雄(Герой Советского Союза)」という称号および勲章制度を用意していました。
一方で、"労働者と農民の理想郷"たる体面を保つため、「社会主義労働英雄(Герой Социалистического Труда/Hero of Socialist Labour)」制度も並行して存在しています。
初めはスターリンに。次に、機関銃のすぐれた設計者であるヴァシーリー・デグチャレフ技術少将に。銃器設計者にも多く贈られていて、フョードル・トカレフやミハイル・カラシニコフなどが有名です。
さあ、労働者諸君。能率を改善し、定められた目標を遂行し、次々に計画を達成するのだ!
そんな旗を振って達成できるなら、誰も苦労はしませんでした。むしろ、労働英雄なる目標の名のもとに、建前も何もない超過ノルマが課されることもしばしばだったというエピソードが生まれます。
この手の話で有名なのが、アレクセイ・グリゴリエヴィチ・スタハノフがノルマの14倍の石炭を採掘したという逸話に始まる「スタハノフ運動」。スタハノフ自身は労働英雄に加え、最高級勲章のひとつであるレーニン勲章さえも受勲したものの……おなじみプロパガンダで祭り上げられた英雄でした。
ソ連の改革が始まると、このスタハノフ運動もまたプロパガンダであり、内情は悲惨なものだったという資料や告発が西側へと流出します。
このあたりの詳しさや論調は、「西側諸国」「西側でも特に反共主義を軸にしている国」「現在も"建前は"共産主義の国」の3段階で大きく異なってくるあたり、前回の『Southern Victory』でも触れた"歴史的評価の振れ幅"を思い起こさざるを得ません。
なお、ソ連は男女平等も建前としているので、10人以上の子どもを生み育てた母親を英雄として称える「母親英雄(Мать-героиня/Mother Heroine)」制度も設置しました。ソ連崩壊後にいったん廃止されましたが……2022年8月15日、ロシア共和国のウラジーミル・プーチン大統領はこの称号と制度を復活させました。
ちなみに、子どもが7~9人の場合は「母性栄光勲章(Материнская слава/Order of Maternal Glory)」、5~6人の場合は「母性褒章(Медаль Материнства/Medal of Motherhood)」がもらえました。
連作短編『Back in the USSA』7つの物語
『Back in the USSA』は、7つの短編から成る短編集です。そして、それぞれが1つのタイムラインで機能している、連作短編(Short story cycle)だと言えますね。これは日本でもおなじみの手法です。
うち6本の短編は、個別に年をまたいで発表されています。これに対し、最後の1本である『On the Road』は、連作短編として1冊にまとめられる際の書き下ろしとして制作されました。
前回の歴史改変の解題は『Southern Victory』(SV)でしたが、こちらの世界は「リアリティが結構ある」「未来に救いがない」という内容でした。
一方、『Back in the USSA』(USSA)については……。
「アメリカ合衆国で共産革命が起きて、ソ連のような歴史を辿る」
「ロシア帝国で共産革命が起きずに、アメリカ合衆国のような歴史を辿る」
このわかりやすい対比に、史実や有名な小説に登場する架空キャラクターを放り込んだ構造です。よって、SVが王道の歴史改変だとすれば、USSAは「風刺小説」「パロディ小説」の色彩が濃くなっています。
HoI2やHoI4といった、「Paradox Interactive」社製ゲームのファンにだけ通じる比喩を使うなら、以下のような感じでしょうか。
【Southern Victory】
基本は『Kaiserreich』的な重厚感。そこに、かの世界の創作物という設定である『Red Flood』的な絶望感をプラス。
【Back in the USSA】
『The New Order』かな……ちゃうな。絶望感はそこまでないもんな。言ってしまえば、「バニラでアメリカとソ連の政体を入れ替えてみた」くらいのもんだし。
という前提から、都道府県MODである『Awakening of the Prefectures ambitions』のトンチキ感に、『Red Flood』でよく見られる文学者や芸術家ネタ要素を詰めたものと判断しました。
このような背景をもとに、USSAが内包する7つの物語について1本ずつ確認し、最後に各短編の表題の適切な邦訳について考えていきます。
また、登場人物の史実(あるいは各小説での役割)とUSSA世界における設定の差異をまとめた、登場人物事典も並行して作成しました。これは各短編紹介後の補遺という形で設置します。単純に、アメリカ史への興味を掻き立てる材料になってくれるかもしれません。
何より、『Back in the USSA』の英語版Wikipediaの個別記事を見つけたんだけど、各話あらすじを見てもようわからん……。そう感じた方も多いと考えていますので、少しでも把握の助けとなるように、細かい小ネタがどういった事実や文化に対応しているか、そのあたりを重視して解題していきます。
最後に。「アメリカ社会主義合衆国連邦」は、"USSA"表記を基本的に使用します。
1本目『空中(In the Air)』
1989年。いきなりですが、USSAは崩壊しかけています。この状況からもわかるとおり、アメリカは現実世界のソ連と同等の末路へ突き進んでいるわけですね。
となると、史実でソ連の"おくりびと"になったミハイル・ゴルバチョフ書記長(ソ連共産党中央委員会書記長)に該当する人物がいるはずです。
はい、います。カート・ヴォネガットです。
史実ではアメリカ合衆国のインディアナポリスで生まれた、ドイツ系移民の系譜であるヴォネガット。1922年生まれの彼は、この世界ではすでに共産革命が起きた後のアメリカに生まれたことになります。
そして、史実では人類へのユーモアと風刺をビシバシ込めた小説(主にSFと分類される)を数多くものした彼は、実際に社会主義思想に強く興味を持っていた属性を買われてか、USSA世界では第一書記として改革を指導していました。
史実のゴルバチョフはソ連共産党中央委員会第一書記"ではなく"、ブレジネフ時代に戻ったソ連共産党中央委員会書記長でした。しかし、USSAのヴォネガットは「第一書記(First Secretary)」です。「書記長(General Secretary)」ではありません。ちょっとした差異ですね。
ゴルバチョフの改革として有名なのは、「ペレストロイカ(再構築)」と「グラスノスチ(情報公開/透明性確保)」でしょう。
ヴォネガットもこれらの改革を主導しており、それらは「ゲッティング・イット・トゥギャザー(Getting It Together)」および「ストレート・トーキング(Straight Talking)」と呼ばれました。なんとなく『1984年』みがあるなあ。
もしかしたら、ヴォネガットの諸作品のネタかもしれません。
バディ・ホリーとの出会い
そんなUSSAの都市シカゴ(ソ連におけるモスクワに対応)に、イギリス人ジャーナリストのロウがやってきます。ロウは天井から吊られたテレビを見ます。1989年にもかかわらず、まだモノクロです。
テレビに映し出されているのは、メキシコの壁。ベルリンの壁の代替……といえば、察しがつくでしょう。この壁は「南北分断」の象徴であり、貧しいアメリカから豊かなメキシコへの逃亡者が出るのを防ぐためのものでした。
まさか10年ほど後に、『ホーム・アローン2』にカメオ出演していた大富豪が「マジモンのメキシコの壁」を作ることを想定してはおらんかったでしょうが……。
そのメキシコの壁が、今まさに崩壊していきます。リポーターのコニー・チャンが、それを見ていました。
とはいえ、ロウは何も古いテレビを見るためだけに、USSAの首都たるシカゴへ来たわけではありません。改革の象徴とされている人物、チャールズ・ハーディン・ホリーに会いに来たのでした。
このチャールズ・ハーディン・ホリー、通称バディ・ホリー。史実では、1959年に23歳の若さで事故死してしまいます。あまりにも大きい死の影響については、その命日が「音楽が死んだ日」と呼ばれていることからも窺えます。
幸いなことに、USSA世界のホリーは、63歳の今も存命です。
ただし、ソ連がアメリカなど西側の音楽を「退廃的」として強く規制したわけですから、USSAにおいてもその"社会主義リアリズム至上主義"は受け継がれています。
よって、ホリーは「抑圧が弱まりつつある国家において、より開放的かつリラックスした雰囲気の音楽で人気を博しているアンダーグラウンド・ミュージシャン」という立ち位置です。
有害で危険な西側のロックバンド一覧表
少し寄り道になりますが、現実のソ連との対比という意味で、「1985年1月にコムソモールが作成した『有害で危険な西側のロックバンド一覧表』」の存在を挙げたいところです。ゴルバチョフがチェルネンコの後任としてソ連の最高指導者になる、2ヶ月前に作成されました。
コムソモール(Комсомол)は「全連邦レーニン共産主義青年同盟」と翻訳されるとおり、「共産主義の理想を受け継ぐ健全な青年の育成」が使命の組織ですから、このリストに載っているバンドの影響力を相当に危険視していたことでしょう。
「Sex」は「性的興奮(の惹起)」。「Eroticism」は「性的有害」と訳しました。元の単語のほうが、よりニュアンスがわかる感はありますが……。
なお、Dschinghis Khanの「(もすかう)」は私が勝手に付け加えただけです。とはいえ、彼らが退廃音楽リストに加えられた有力な理由ではあるでしょう。
Pink Floydの「ソ連外交政策の倒錯」は、彼らの楽曲の一部歌詞に「ブレジネフがアフガニスタンを占領した」という一節があり、実際にソ連国内で発売が禁止されたことで、このリストに追加されたと考えられています。1985年当時、すでに泥沼化していた情勢を考えれば、「占領できてたら、こんな状況になってねえよ!」という、苛立ちすら見えてきそうです。
Village Peopleに「同性愛」が入ってないのが、逆に不思議な感じもしますね。コムソモールくんの中の人、もっと退廃音楽を聴こうぜ!
このリスト、「家康が最も恐れた人物」みたいな感じで、逆に「ソ連が最も恐れたバンド38選」みたいな使い方ができそうですね……。
西側から見れば「なんやこのリスト、おもろっ!」ということで、音楽好きのサイトでよく話題に上っているものの、ウェブサイトによってミススペルなどがぎょうさんありました。
ひとまず、各バンド名の大文字小文字の別や"The"の定冠詞がつくかどうかを調査し、ほぼ確実であろう名称に修正を施しています。もっとも、キリル文字で著された元の資料の段階で、そのあたりが怪しい感はありますね。
スピークイージーへのいざない
物語に戻りましょう。
おそらく、ホリーも80年代以降まで存命であったなら、このリストに加わったと考えられます。ただ、USSA世界ではまさしくそのリストが作られる国に住んでいて、ようやく地中の彼に光が当たる時代がやってきたのです。史実におけるソ連のロックバンド「Кино(キノー)」に対応する役割と言えます。
ロウはホリーに公式のインタビューを申し込んでいたので、"パーティー・ハンドラー"が同行していました。彼は、「ハンター・S・トンプソン」という名前の役人です。ええ、史実人物ですね。
「党の高官が建物を訪れる時以外は、決してエレベーターを使わないでくださいね、ミスター・ロウ」
現実のソ連もそうだったように、USSAもまた「エレベーターは選ばれし者の乗り物」になっているようです。
なお、ホリーは饒舌にいろいろ話してくれますが、そこに突然「Rave on, Mr. Lowe」というセリフが出てきます。謎はすぐに解けました。史実のホリーが、『Rave On』というシングルを出していたからです。細かいところに、小ネタが入っている。
ホリーは「同志トンプソン」に心付けを渡し、これでロウと自由に動けるようになりました。彼は「同志ヴォネガット書記長」の引き立てによってかなり裕福な様子で、ロウを「スピークイージー(speakeasy)」に連れていきます。
「こっそり話す」的な語源を持つこの単語、かの悪名高い禁酒法時代(1920-1933)にどんどこできた「密酒場(闇酒場)」を意味しますが、そうした制約がなくなった現代では「レトロさを売りにしているバー」を指す言葉になりました。でも、現代アメリカでも密造酒やそれを扱う酒場は社会問題になってるんですけどね。
「よし、できたぞ。『連邦法違反』だ」
壁には、映画『アラモ(The Alamo)』のポスター。ですが、そこに「ジョン・ウェイン」や「リチャード・ウィドマーク」の姿はありません。主演の「シルベスター・スタローン」と「チャック・ノリス」がデカデカと映っています。どういうことなの……。
スピークイージー「Texas John's Bar and Grill(元ネタあるかも)」にて、ホリーはロウに「政治的な目覚め」の物語を語り始めました。それは1950年代、USSAの小さな町で過ごした子ども時代にまでさかのぼります。
ホリーが語るUSSAの歴史
それはまさしく、テルスター(Telstar)が世界初の人工衛星として打ち上げに成功し、加えてX-15号に乗ったチャールズ・エルウッド・イェーガーが人類初の有人宇宙飛行を達成したころの話でした。テルスターはスプートニク1号、イェーガーはガガーリンに対比される配置ですね。
ホリーは難民でした。彼はテキサス州ラボックの生まれですが、歴史が歪んだことにより、1936年のテキサス州はかなり危険な状況にあったようです。権力を握ったアル・カポネが、メキシコの指導者となったパンチョ・ビリャと取引をしたとあり。ホリーは家族とともに難民になった一方で、ラボックに残った彼の祖父はエミリアーノ・サパタによって殺されたともあり。
そうした折に、2人の「漂流者(ドリフターズ)」が、ホリーの住む町にやってきました。名前は「ハワード・ヒューズ」と「ジャック・ケルアック」。若きホリーは、ともに理想を持つ彼らと偶然出会うことになります。
そして、それは「大戦の英雄」プロパガンダ隊の訪問、さらには少女ペギー・スーとの邂逅まで含めて、人生を変える出来事へと発展しました。
なお、この「大戦の英雄」宣伝隊、ソ連式に言うところの「大祖国戦争で祖国と共産主義を守り抜いた英雄」として、ジョセフ・マッカーシー、チャールズ・リンドバーグ、ミッチ・"デューク"・モリソン、ラファイエット・ロン・ハバード、カーチス・ルメイの名前が挙げられています。
詳細は後段に任せるとして、それぞれ一言で表すと、「赤狩りおじさん」「翼よ、あれがすばらしきナチスの思想だ」「モリソンって誰だ……ジョン・ウェインじゃねーか!」「サイエントロジーの創始者」「東京大空襲おじさん」です。
そうですね、「史実における反共主義者(とその思想普及に務めた人物)およびカルト宗教の開祖」が「共産主義世界を守った英雄」になってる、人によっては「なんてタチの悪い冗談なんだ」と思うメンツなわけですね。
この『Back in the USSA』は、そういう本です。
恐怖の"Rat-tat-tat"
ホリーが、この世界の歴史を語っていきます。すなわち、作品の背骨となる内容ですね。当時を思い起こす手法にすることで、客観的でありながら主観的で、さらに叙情性が加わっています。
1917年のアメリカに吹き荒れた共産革命のあとに訪れた、アル・カポネ書記長によるプロレタリア独裁。その取り巻きとして有名なのが、ヒューイ・ロング、ラッキー・ルチアーノ、ジミー・ホッファ、「処刑人」エドガー・フーヴァーでした。一方で、そんな側近中の側近たる彼らも含め、誰もが"Rat-tat-tat"を恐れていたというのです。
最初、この"Rat-tat-tat"が意味するものがわからなくて、Googleで調べると「三代目 J SOUL BROTHERS」の楽曲がヒットして、そんなわきゃないよなと。しかし、曲名になるくらいだから、英語表現ではあるわけです。調べたところ、「短く鋭いノックのような音」であるとわかりました。
共産圏で鋭いノック。
語られる時代はちょうど戦間期。
これはもう「NKVDの家庭訪問」に他なりません。
すなわち、「身内の粛清や流刑を伴う秘密警察の逮捕劇」を示すメタファーです。USSAでそれを担う保安組織の名前は「I-Men」。アイメンでいいのかな?
彼らは朝4時にやってきて「反革命的な人間」を連行し、時には「大サーカス裁判(史実の"モスクワ裁判"に代表される見せしめ裁判)」で死刑判決の後に頭に銃弾を撃ち込まれ、時には裁判なしでの処刑が待っており、幸運なら生きてアラスカへの強制労働刑が課せられました。
ホリーに言わせれば、当時の音楽もひどいものだったそう。マリオ・ランツァが農業機械のすばらしさを歌い、党への感謝を捧げていたのです。
映画も同じような状況で、大抵はシドニー・グリーンストリートとオリヴァー・ハーディが革命前に跋扈していた「泥棒男爵(Robber Barons)」を演じ、堕落した資本主義のもとで、人々がいかにひどい状況で生活しているかを描写しているところから始まります。
しかし、そこへアル・カポネを演じるジョージ・ラフトがやってきて、30分にも渡る演説を披露。偉大なカポネの言葉によって、バスビー・バークレーが振り付けを担当した「プロレタリア精神に目覚めた大衆」が熱狂します。
映画にストーリーはありません。社会的使命に目覚めた大衆に対し、カポネが再び心強い言葉を投げかけ、社会主義リアリズムに基づいたオペラが盛大に流され、終わります。映画館には常に秘密警察の監視の目が光っており、盛大な拍手という「革命礼賛」を行わない者をいつでも連行できる態勢です。
なお、「泥棒男爵」は実際に揶揄的に使われた言葉で、日本語版Wikiにも個別ページがあります。そこに使われている肖像画はジョン・ロックフェラーのもの。英語版Wikiには風刺画バージョンのロックフェラーと、「泥棒男爵」の代表格として20世紀前半に名前が挙げられた面々の名前が並んでいます。
同時期には日本でも財閥への恨みが高まり、血盟団事件などが生起したわけですから、まことに歴史ですね……。
模範的革命戦士
ホリーはいじめから逃れるため、「Pioneers(パイオニアーズ)」で模範的な共産主義青少年を目指したそうです。
皮肉が利いていますね。現実にあった「Пионе́р(Pioneer/ピオネール)」がそのまま対応するわけですから……。
ピオネールは、少し前の項目で紹介した「有害バンド一覧表」を作ったコムソモール、あれより若い年齢の子どもたちが入る組織です。
「ピオネール(共産主義少年団)」で10歳から15歳まで"革命思想"と"労農赤軍を支える心身"をつくり、「コムソモール(共産主義青年団)」では15歳から35歳まで共産主義国家の明日を担うための"実働部隊"として働くことになりました。これらの組織体制が、そっくりそのままUSSAで生きているようです。
また、上記の画像でもわかるとおり、7歳から9歳までの児童が入る「Октябрята(オクチャブリャータ)」も存在しました。上記画像では、そのオクチャブリャータに所属する人そのものを指す「Октябрёнок(オクチャブリョーノク)」表記になっています。
「そこまでだ、修正主義者のクズども!」
「そこまでだ、修正主義者のクズども!」
やがてパイオニアーズから距離を取り、「反革命的」になりつつあったホリーは、「党が推薦するドラマ」である『ディック・トレイシー』を見ていました。
ここも皮肉がバッチリ効いているポイントですね。ディック・トレイシーは実在の人物ではなく、いかにもアメリカンなタフガイである警察官の活躍を描いたコミック、ならびにドラマ、そしてアニメです。
トレイシーはいつも警察署長から電話で事件捜査の命令を受け、逐一通信を行ってチーム内での連携を欠かさず、ヒーローとしての振る舞いでギャングどもを追い詰めます。彼らは抵抗できません。アメリカン・ジャスティスには誰も逆らえないのです。
となると、これはもう風刺の種です。イギリス人作家でなくたって、ちょいと"歪めたくなる"個性と言えるでしょう。
結果として、「史実における超有名ギャングがつくった共産国家の象徴」は、「反革命的(自由主義的/資本主義的)な考えを持つ修正主義者たち」を相手に、正義の.45コルト弾をブチ込むわけです。革命は暴力によって成り立つので、オリジナルのディック・トレイシーとは違い、「修正主義者のクズども」は死んで当然という思考です。ヤンナルネ……。
ちなみに、ディック・トレイシーの部下には、日本人のステレオタイプを詰め込んだ「ジョー・ジツ(Joe Jitsu)」というキャラもいます。名前の由来は「柔術」。彼は犯罪者の手首を掴み、「本当にすみません!(So solly!)」と叫びながら柔術を繰り出して制圧します。「どうもすみません!(Excuse, prease!)」のパターンもあります。
Q. おいおい、真里谷くん。きみも英語が下手だな。"solly"じゃなくて"sorry"だろ? もうひとつは逆に、"please"が"prease"になってるぞ。
A. 間違っていません。"solly"および"prease"と表記されています。「日本人は英語が下手で、"l"も"r"もカッチカチ発音だから」という理由で。
Q. というか、"Excuse, please!"の翻訳って「どうもすみません!」ではないのでは?
A. 一重まぶたで眼鏡をかけた出っ歯の日本人が「すみません」と言うことに意味があるんです。
Q. ヘ、ヘイトスピーチ……。
A. 本場だからね。
でも、ご安心ください。
イギリス人の属性を詰め込んだ「ヘムロック・ホームズ(Hemlock Holmes)」。
アイルランド人の属性を詰め込んだ「ヒープ・オケイロリー(Heap O'Calorie)」。
メキシコ人の属性を詰め込んだ「マヌエル・ティファナ・グアダラハラ・タンピコ・"ゴー・ゴー"・ゴメス・ジュニア(Manuel Tijuana Guadalajara Tampico "Go-Go" Gomez, Jr.)」。
彼らがジョー・ジツの同僚であり、筋骨隆々のハンサムガイなアメリカの象徴、ディック・トレイシーの部下として一緒に働きますから。
ちなみに、これらはいずれもアメリカ版の名前であり、日本での翻訳版では以下のように変更されました。
$$
\begin{array}{|c|c|c|} \hline
属性 & 変更前 & 変更後 \\ \hline
日本 & ジョー・ジツ & ジョー・ヤマダ \\ \hline
イギリス & H・ホームズ & ブル \\ \hline
アイルランド & H・オケイロリー & ボヤキ \\ \hline
メキシコ & M・(中略)・ゴメスJr. & ゴーゴー・ゴメス \\ \hline
\end{array}
$$
やりましたね。これで……。
絶対的なチームのリーダーであり心身ともに鍛えているアメリカ人
一重まぶた出っ歯眼鏡すみませんさよならプリーズ柔術使いの日本人
君主制の犬をやってるドジなスコットランドヤードのイギリス人
赤毛で大柄で大食いで大酒飲みで不真面目なアイルランド人
やたら長い名前を持っててソンブレロを被ってて浅黒い肌のメキシコ人
最強のチームの完成です!
と、現代では揶揄されるのが避けられない並びではありますが、原作やアニメそのものは思い出として楽しんだ方も多いでしょう。
多いとは思いますが、「どう見てもやりすぎなステレオタイプ」の創作が歴史上にあった結果、現代の「極端から極端へ突っ走れ! ポリティカル・コレクトネス完全配慮選手権」へと突き進んだとも言えそうです。合間を取るのは大変なのでしょうね。お金が絡むと、特に。
正しき革命へ導かんとするディック・トレイシーでしたが、彼の背中に銃が突きつけられます。
「私は、引き金を引くことを恐れていないわ」
"決して信頼できない反革命の女"は、ベティ・デイヴィスが演じていました。
書記長/第一書記/書記長
アル・カポネの独裁が終わったあと、USSAは自由の空気に包まれる……そんなわきゃありません。スターリンの後にはフルシチョフが来て、それからブレジネフがやってくるものです。
権力を握ったのはバリー・ゴールドウォーターでした。彼がフルシチョフの「スターリン批判」に対応する「カポネ批判」をやったかどうかはわかりませんが、まあ、やったでしょう。ここまで忠実なパロディならば。
この短編が書かれた当時(1990年)にはまだありませんでしたが、きっと未来では『カポネの葬送狂騒曲』がつくられるだろうと思います。
さらに、フルシチョフが失脚したように、ゴールドウォーターもその権力が奪われる時がきます。その後に長くUSSAの象徴となったのは、リチャード・ニクソンだったのです。
バディ・ホリーが「第194社会主義歩兵連隊(194th Socialist Infantry Regiment)」に配属されたとき、最初に示した運命的な出会いがいくつも続きます。ちなみに、部隊の元ネタは「第194グライダー歩兵連隊(194th Glider Infantry Regiment)」の様子。
第17空挺師団に所属した彼らは、時期的にマーケット・ガーデン作戦への投入はなされなかったものの、バルジの戦いに始まる極寒のバストーニュ戦に始まり、「言うて1944年から1945年にかけても、地獄みてえな戦場の連続だからな」を証明する連戦を生き抜くことになりました。
もっとも、アメリカが戦後に急成長を遂げたのとは逆に、戦後のソ連赤軍は共産主義国家の行き詰まりと「スターリンとベリヤによるパラノイア的粛清の継続」に直面します。
鏡映しのUSSAが、そうならないはずはありません。ウディ・ガスリーが自らの役目を放棄して史実通りにギターを手に取ったとき、アル・カポネ書記長は彼を絞首刑にすることを何らためらいませんでした。
ジョン・フィリップ・スーザが、どんなに勇壮で共産主義的に正しい音楽をつくったとしても、それらは決して隠しきれぬ真実です。
フランク・シナトラは『心の青春(Young At Heart)』ではなく、『我が共産主義への熱情(My Socialist Heart)』を"革命的大衆"に向けて歌っていました。
虚構の帝国
ジャック・ケルアックがホリーの恋した少女ペギー・スーを救って傷ついたとき、ハワード・ヒューズは町の人々に向かって呼びかけます。
宣伝隊の面々は、みんなUSSAのプロパガンダによってつくられた偽りの英雄に過ぎないと。
ルメイのような輩は、プロパガンダのために良いタイミングでやってきて、記録映画だけを撮影していったのだと。
彼らは決して、空母マテワンからドーントレス(Douglas SBD Dauntless)に乗って飛び立ち、日本軍との戦いに生命を捧げた英雄たちと同列ではないのだと。
なお、このマテワン。ウェストバージニア州にある町の名前であり、史実では1920年に多数の死亡者を伴う労働争議が起きました。このことから、USSA世界では「革命聖地」に類するイベントが起きたようで、空母の艦船名に採用されています。
宣伝隊の汚い妨害にあいながらも、ヒューズ、ケルアック、そしてホリーは「偽物の英雄」を打ち負かしました。
激昂したルメイとマッカーシーが銃を撃ち、危うくペギー・スーの命を奪いかけます。この不祥事に対し、リンドバーグとモリソンとハバードの3人は、「人民を殺そうとした罪」で当局に売り渡すことを決めました。
ルメイとマッカーシーはその高い名声にもかかわらずに失脚し、「アラスカでの石油採掘の使命」に従事することになったと語られます。
ホリーの回想が終わります。
ステージではブルース・スプリングスティーンが『Born in the USSA』を歌っていましたが、もはや時代遅れの歌詞と旋律であり、スピークイージーの客たちは退屈していました。
誰もが待ち望む、バディ・ホリーがステージに上がります。そして、彼が静かに名曲『Heartbeat』を歌い始め、物語は幕を閉じるのです。
1本目『空中(In the Air)』/登場人物紹介
それでは、続けて1本目の短編であった『空中(In the Air)』に出てきた史実の登場人物について、それぞれ見ていきましょう。
なお、この『空中』という表題。USSA世界のジャック・ケルアックが、史実の『路上(On the Road)』ではなく、このタイトルで小説を書いたことになっており、そこから取られました。
アメリカ社会主義合衆国連邦は、とても地に足がついていない国家だったようです。ひいては、この短編が疑似空戦による決闘というプロットになっており、「地上」ではなく「空中」が運命を分ける舞台だった点も大きいでしょうね。
ああ、登場人物紹介については、再び「だ・である調」になっています。光栄の「武将FILE」みたいなのが好きでして、つい列伝っぽいのはそちらの文体で書きたくなります。不思議なものです。
カート・ヴォネガット(Kurt Vonnegut)
【USSA】
USSA第一書記として、「Getting It Together(しっかりしろ)」や「Straight Talk(腹割って話そうや)」といった改革を主導。それぞれペレストロイカとグラスノスチに対応。改革名を砕けて訳すと、途端にゆるゆるになる感。
【史実】
1922年の生まれ、2007年死去。大学生の時に第二次世界大戦に従軍し、欧州戦線へ。バルジの戦いで部隊もろとも捕虜になり、ドイツ人看守に暴行を受けたり、悪名高い連合軍のドレスデン爆撃に巻き込まれたりした。
ヴォネガットたちは捕虜収容所として使われていた屠畜場で生き延びるが、敵は自分たちを「劣等種族の畜生」として扱ってくるし、味方は民間人も皆殺しにする勢いで無差別爆撃を行うし、ドレスデンは別に占領されたわけではないため住民の怒りをもろに浴びたということで、彼の人生における決定的な出来事になった。
代表的作品である『スローターハウス5』は、この時に収容されていた「第5屠畜場(Schlachthof Fünf)」を指す。結局、欧州戦線の戦いが終わる直前まで半年ほど捕虜であり続けたうえ、ソ連赤軍によって解放されて本国へ帰ることになり、やがて作家への道を歩みだす。
本人は「SF作家」とカテゴライズされるのを嫌ったものの、確かな科学の知見に則った作品が多いため、SF小説を多く書いた作家として分類される。
クリス・ロウ(Chris Lowe / John Christopher Lowe)
【USSA】
1本目の短編『空中(In the Air)』の視点人物のひとり。改革の象徴であるホリーに会い、聞き役としてこれまでのUSSAの歴史を知る。話はやがてホリーの「過去編」とも言えるシフトを果たす。映像的な移行だ。
【史実】
実は、作中ではジャーナリストをやっているらしいことと、「ロウ(Lowe)」という名字しかわからない。ただ、1989年という舞台設定で、かつ同じスペルを持つイギリスのジャーナリストとして、この「クリス・ロウ(Chris Lowe)」がいた。
1949年生まれ。BBCのニュースプレゼンターとして、2009年に引退するまで37年間も活動し続けた、まさしく同局の顔とも言える存在だった。
スコットランドのエアーシア(ゲール語/英語発音ではエアシャー)生まれ。オックスフォード大学ブレーズノーズ・カレッジの卒業生で、同カレッジの出身者としてはデイヴィッド・キャメロン英国首相などが有名。
スタジオでのプレゼンターだけでなく、北アイルランド、エチオピア、アルゼンチンと「イギリスを象徴するBBC関係者というだけで抹殺される可能性」のある場所で次々に特派員となり、ジャーナリズムをまっとうした。
コニー・チャン(Connie Chung / Yu-Hwa Chung)
【USSA】
豊かなメキシコと貧しいアメリカを隔てる壁、すなわち史実のベルリンの壁に対比され、明らかにそれ以上の断絶の象徴となっている壁が壊される瞬間をリポートした。
【史実】
1946年生まれ。アメリカでニュースキャスターをしているジャーナリストだが、「ワシントンD.C.駐在の中国国民党政権(台湾)の外交官」を父に持つ、かなり複雑な属性のもとに生まれた。中国名は「宗毓華」。
名門校であるメリーランド大学カレッジパーク校でジャーナリズムの学位を取得。その後、CBS、NBC、ABC、CNNと大手テレビ局を渡り歩き、さらなる挑戦としてNBCとマイクロソフトが出資するMSNBCに移った。
今回の時代設定である1989年には、NBCのあと、CBSに再度所属している。
チャールズ・ハーディン・ホリー(Charles Hardin Holley / Buddy Holly)
【USSA】
1本目の短編である『空中(In the Air)』の主役。USSAの改革と開放へ向かう動きを象徴する「アンダーグラウンド・ミュージシャン」であり、かつては激しく排撃されながらも、現在は国家の庇護を受けている。
【史実】
アメリカ合衆国のシンガーソングライター。「バディ・ホリー(Buddy Holly)」の愛称で広く知られる。1936年生まれ、1959年死去。ジョン・レノン(1940年生)、ポール・マッカートニー(1942生)といった後代のビッグネームに強い影響を与え、死後の1986年にはその功績からロックの殿堂入りを果たした。
彼の人生は、1959年2月3日に唐突に終わりを告げる。
バディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、J.P."ビッグ・ボッパー" リチャードソンという、人気絶頂にあったアメリカ音楽界の大スター。そこに21歳のパイロットであるロジャー・ピータースンを加えた4名は、アイオワ州クリアレイク近郊のトウモロコシ畑で無惨な姿となって見つかった。
猛吹雪のなかで飛び立った結果の、飛行機墜落事故である。アメリカを代表し、これからの時代を作るであろう存在が一気に消えた衝撃から、「音楽が死んだ日(The Day the Music Died)」という通称がつけられた。
やがて、バディ・ホリーに影響を受けた「ビートルズ(The Beatles)」や「ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)」といったイギリスのロックバンドが世界を席巻し、アメリカにも「ブリティッシュ・インヴェイジョン」として新たな音楽シーンをもたらすことになる。
ハンター・S・トンプソン(Hunter Stockton Thompson)
【USSA】
アメリカ共産党員。ロウの取材依頼に応じて、ホリーに付き添って現れた。その後、彼からおそらく賄賂をもらって、その監視の目を解く。だいぶアレな立ち位置かつほんのチョイ役だが、十分すぎる理由を感じさせる史実がある。
【史実】
1937年生まれ、2005年死去。アメリカ合衆国で活躍したジャーナリスト。ケンタッキー州ルイビル生まれ。
1967年に猛威を振るっていたモーターサイクル・ギャングの「ヘルズ・エンジェルス(Hells Angels)」に飛び込み、ともに1年間活動。その生活と経験を知らしめたことで、一躍その名を売った。
1970年には「ケンタッキーダービーは退廃的で堕落している(The Kentucky Derby Is Decadent and Depraved)」という記事を出し、カウンターカルチャーの立場を明確にし、記者の主観を中心に書かれる「ゴンゾ・ジャーナリズム(Gonzo Journalism)」の代表的存在になった。
言ってしまえば、「知識や取材の裏付けもなく、主観と思い込みと願望で記事を書くタイプのジャーナリスト」の代表格で、「その姿勢を誇りにするジャーナリズム」の始祖である。上記のケンタッキーダービーの記事にしても、彼は競馬をよく知らなかったという説があり、実際に記事内でもレース本体にはあまり触れていない。
もちろん、こうした在り方を好む人もいたが、その数倍は嫌われた。イベント会場からは出禁になり、アルコール依存とドラッグ依存を併発した。
あらゆるドラッグの自由化を求めて、保安官選挙に立候補して落選。ヒッピー全盛期に乗っかって得ただけのアウトロー人気は、「みんなが正気になるにつれて」消し飛んでいく。
離婚。性的暴行容疑での逮捕。有名人が死ぬたびに、それを揶揄する記事を発表。
最期は、自らの頭に銃弾を撃ち込む拳銃自殺。
それでも、彼が独自の道を歩んだことで、濃厚な交友関係があった。葬儀には280人が参列し、俳優のジョニー・デップやジャック・ニコルソンやベニチオ・デル・トロ、政治家のジョン・ケリー上院議員などがそこに名前を連ねている。
フィクションとノンフィクションの境界が曖昧なテキストを書くという意味では、すぐれた才能を持っていた。既存の体制に抗う、反権威の側面はなるほど輝かしい。
ちなみに、「Gonzo Journalism」は翻訳エンジンやタイミングによっては「ハメ撮りジャーナリズム」などと訳されるが、「ゴンゾ(Gonzo)」自体が「ならず者」を意味する侮蔑語で、彼の報道姿勢を揶揄するところから生まれた。イタリア語の場合は通常の単語となり、単に「バカ(だまされやすい人)」を意味する。
かつて存在した日本のアニメスタジオ「ゴンゾ(GONZO)」は名前をここから取ったが(イタリア語も含めて複数の事例を確認したらしい)、ゴンゾ・ジャーナリズムの歴史やその含意は、あとから知ることになったという。
ゴンゾ・ジャーナリズムは、以下のような11個の要素を持っているとされる。
主観
即時性のある文章
事実とフィクションのブレンド
皮肉、冒涜、侮辱を含むダークなユーモア
特異な語彙や語句選択
ある種の相関図
誇張または妄想、あるいはその両方
薬物使用
暴力
余談
陰謀論
古めかしいジャーナリズムに対する「新しいジャーナリズム」として始まった思潮。そもそもが報道の基本をぶち壊しにしたことで、モラルハザードの象徴となった現実。
「ジャーナリズムでやる必要ねえだろ」
(It doesn't have to be journalism.)
誰かが書き残したこの評価が、「ジャーナリストとしてのハンター・S・トンプソン」を最もよく表しているだろう。
シルヴェスター・スタローン(Sylvester Enzio Stallone)
【USSA】
なぜか、映画『アラモ(The Alamo)』に出演していた。おそらくはジョン・ウェインの代わりに、デイビー・クロケット役だろう。
そういえば、アーノルド・シュワルツェネッガーがいないが、彼はオーストリア生まれで、1968年にアメリカに移住した。歴史改変世界では、かなりの確率で本来の人生を送れなさそうだ。
【史実】
1946年生まれ。アメリカ合衆国の俳優。ニューヨーク生まれ。受賞歴はゴールデンラズベリー賞が最も多く、4回の「最低主演男優賞」が圧倒し、あとは「最低助演男優賞」「最低監督賞」「最低脚本賞」「最低スクリーンカップル賞」「1980年代最低男優賞」「20世紀最低男優賞」「名誉挽回賞」と獲りまくっている。
スタローンは、史上稀に見る大根役者なのか?
その答えは、YESとNOを同時に出せる。スタローンはどんな時もスタローンだ。この先の2つ目の短編解説で触れるゲイリー・オールドマンが、俳優仲間からさえも演技を絶賛されるのと比べたら雲泥の差だ。
だが、スタローンもオールドマンも俳優で、最高の個性を持っている。
オールドマン演じるノーマン・スタンスフィールドはシビれる悪役だし、映画史に残る印象をぶちかました。観客も批評家も満足した。
じゃあ、スタローンがスタローンしかできないことで、彼は最低の俳優なのか。
どうだろう。『ロッキー』と『ランボー』と『エクスペンダブルズ』を見てから、それから個々が考えればいい。評論家は低い点数を彼に投げつけるが(『ランボー』を除いて)、彼はいつも輝かしい興行成績を関係者に与えてきた。
スタローンがスタローンでなかったら、興行成績は上がらないし、「最低主演男優賞」の候補にもならない。彼は説得力の塊だ。スタローンが好きであろうと嫌いであろうと、無関心を保てなかったのなら、すべては彼の人気と魅力に還元される。
だいたい、こんなふざけた解説でもよかろうと思ってるくらいには、「スタローンってあの顔がフニャ〜っとした人でしょ」のインパクトは多くの世代に通じると信じている。
シュワルツェネッガーの『コマンドー』や『プレデター』や『ターミネーター』と同じくらい、スタローンの『ロッキー』や『ランボー』は輝かしさに満ちている。『ポプテピピック』でのパロディ例を持ち出すまでもない。
少なくとも、前項のトンプソンよりは悩ましさの少ない項目になっただろうか。ありがとう、スタローン。
うっかり予測変換で、スターリンを呼び出しかけた。シルヴェスター・スターリンはさすがに悪魔合体すぎる。
チャック・ノリス(Chuck Norris / Carlos Ray Norris)
【USSA】
なぜか、映画『アラモ(The Alamo)』に出演していた。おそらくはリチャード・ウィドマークの代わりに、ジェームズ・ボウイ役だろう。
【史実】
1940年生まれ。オクラホマ州ジェファーソン郡ライアン出身。アイルランド系かつチェロキー系。日本語Wikipediaの記事が頭爆発しそうなくらいに充実している。マジで充実している。この記事を放りだして読んできてほしい。あれがチャック・ノリスだ。脚注は140個もある。個人だぞ。URLも含めて全部まとめて文字数カウントに放り込んだら、61,422文字もあった。
その記事の序盤に、肩書が列挙されている。「武術家、俳優、映画製作者、作家、政治評論家、実業家、社会運動家」といった感じ。これらは正しいし、間違っている。
チャック・ノリスは、チャック・ノリスだ。
これはセクシー構文ではない。チャック・ノリス真実なのだ。
チャック・ノリスには、「チャック・ノリス・ファクト(Chuck Norris facts)」と呼ばれるネットミームがある。つまりは彼を題材にしたネタであり、ジョークである。それとともに、チャック・ノリスがチャック・ノリスたるゆえんさえも感じさせる。まじめなチャック・ノリスの説明をするつもりはないので、いくつかチャック・ノリス・ファクトを紹介することとする。
だが、あまりにも多くなりすぎたので、末尾に独立した見出しで持っていく。このままでは『Back in Chuck Norris』になってしまう。これでも2割くらいしか紹介してないのに。
チャールズ・エルウッド・イェーガー(Charles Elwood Yeager)
【USSA】
アメリカ社会主義合衆国連邦の宇宙飛行士。X-15号に乗り、人類初の有人宇宙飛行を達成した。すなわち、史実のユーリイ・ガガーリンに対比される存在。ガガーリンは見事に宇宙から生還したが、34歳の若さで事故死することになった。そういえば、この時に彼が乗っていたのは「MiG-15UTI」だったとされる。ヴォストーク1号とX-15号のナンバリングが対応していないわけだが、「15」はここから来たのかもしれない。
【史実】
1923年生まれ、2020年死没。ウェストバージニア州リンカーン郡マイラに生まれ、5歳の時に同じくリンカーン郡にあるハムリンへと転居した。郡庁所在地のハムリンですら、21世紀の人口が1千人強ほど。マイラはもっと少ないだろう。
貧しい家庭ながらも栄達を果たした。退役時の階級は空軍准将。WW2後にはテストパイロットで、ついに将官にまでなった。イェーガーを歴史的な存在にした最大の栄誉は、「世界で初めて音速を超えた人間」というものだ。
1947年10月14日。イェーガーはまさしく最高の時期にテストパイロットになり、歴史に残る出来事を自らの手で実現した。操る航空機は「Bell X-1(当時XS-1)」。ニックネームは「Glamorous Glennis」。この機体でマッハ1.05を記録。人類で初めて音速の壁を突破したのである。
イェーガーはその後もパイロットとして数々の航空機を操り、1973年にはアメリカ国立航空殿堂入りを果たす。大学に通ったこともない。経歴の主張も控えめ。何より、この物語で悪役となったリンドバーグのように、極端な政治思想を表に出すことはなかった。
人間いろいろあるものだから、実際はいさかいの種もあったろう。それを証明するように、男女関係と事実の認定について、訴訟で争った記録もあった。人種に関する思想はわからないが、少なくとも、彼は1971年から1973年までパキスタンに軍事顧問として赴任し、パキスタン空軍によるインド空軍相手の空戦優勢に貢献したとされる。
イェーガーは2020年に97歳で亡くなるまで、パイロットであり続けた。彼はキャリアの始まりとなったWW2への従軍に際し、敵の残虐行為だけでなく、味方によって行われた民間人への機銃掃射をも批判し、「動くものはことごとく撃て」という命令を軍人ゆえに遂行した自分を恥じている。
2012年10月14日、89歳のときにも、「イェーガー准将(Brigadier General Yeager)」は音速突破の飛行を行っている。
イェーガーは若い時も、老いてからも、笑みを残した。
時を経てなお笑顔が損なわれないというのは、良い人生なのだと思う。これはまったくの筆者の私見であり、また大それた願いではあるものの、この考えについては誰かの共感があることを願う。
パンチョ・ビリャ(Pancho Villa / José Doroteo Arango Arámbula)
【USSA】
アル・カポネと同時期に、メキシコの支配者となる。こちらの世界では、とうとうメキシコ革命を成功させたのみならず、革命派の派閥抗争をも勝ち抜いたようだ。
【史実】
1878年生まれ。1923年死去。大農園で働く小作農の子どもとして生まれた。もうこの文章だけで、19世紀後半のメキシコが「スペインの呪縛」の中にあることがわかる。いや、21世紀もその延長としてのえげつない麻薬戦争をやってるけれど……。
本名はホセ・ドロテオ・アランゴ・アランブラだが、やはりここは「ビリャ」で表記していく。なお、「北のケンタウロス(El Centauro del Norte)」というパワフルなニックネームのほか、「メキシコのナポレオン」「北の獅子」「メキシコのロビン・フッド」といった呼ばれ方もした。
グスタフ2世アドルフとほんのり被っているが、何より19世紀以降の「ニックネームの『ナポレオン』出現率」はすごい。いつか調べてみよう。
父親は早くに死に、このためにビリャは学校をやめて働き出した。16歳の時、妹が農園主に強姦されたことに怒り、彼を殺害。報復を避けるため、馬を盗んでの逃亡生活へ。
なんといっても、「今以上にワイルド」なメキシコだ。単独では生きていけないので、ビリャは山賊団に入った。ところが、この山賊団の首領が銃撃戦で死亡。彼はこの段階で名前を受け継ぎ、「フランシスコ・ビリャ」と名乗る。「パンチョ」は、フランシスコの愛称だ。
当時のメキシコの山賊は、すなわち義賊である。さながら『水滸伝』における梁山泊の英雄のように、金持ちの資産だけを狙って奪い取り、貧窮に苦しむ農民たちに分け与えた。ビリャ自身も革命精神を涵養するうちに自覚が芽生え、今日でも農民やインディオたちに尊敬される振る舞いを重ねた。
1910年、メキシコ革命が勃発。ビリャは革命を支持し、革命派の有力なリーダーとしてのし上がる。
ただ、その後の情勢は二転三転。革命派が勝利しながらも、今度は革命派内での対立が激化。暗闘に次ぐ暗闘の末、ビリャはとうとう権力争いに敗れた。
それでも、ビリャは最終的な勝者となったアルバロ・オブレゴンと和解し、故郷のチワワ州に引退することを許された。
ビリャは農園主になったが、中年になっても衰えを知らぬ肉体を駆使し、貧しい小作農として働いた日々を忘れることなく、仲間たちとともに汗を流した。彼は自分の無学をよくわかっていて、インタビューにも軽妙に答えた記録が残っている。
だが、1923年。ビリャは暗殺される。友人の子どもの名付け親になるために出かけた帰り道に、襲撃されたのだ。黒幕はわかっていない。確たる証拠に基づく、法的な認定という意味では。
和解したはずのオブレゴンか、カリェスか、アマーロか……大衆に人気のある彼は、権力を勝ち取った人間にとって、またその継承を目指す人間にとって、あまりにも危険な存在だった。このために、上記の誰かが指示したのだと推測されている。
何しろ、オブレゴンとその後継者たちは、彼らが権力の座にいる間は、メキシコ革命成功の功労者の地位からビリャを削除し続けたからだ。彼の名誉が完全に回復されるのは、その死から50年経った1973年のことである。
エミリアーノ・サパタ(Emiliano Zapata Salazar)
【USSA】
メキシコにおける有力な存在として活躍。テキサス州において、ホリーの祖父を殺したと推察される。この時点で、史実より17年以上は長生きしているので、彼も革命派として生き残ることができたようだ。
【史実】
1879年生まれ。1919年死去。白人とインディオの混血であるメスティソだが、とりわけインディオの血が多く入っていた。当時のメキシコにおける、「搾取される99%」のほうだった。
中南米の旧スペイン領、特にメキシコにおいては、ほんの一握りの「きれいな白人の末裔たち(多くの場合は白人血統の比率が高い)」が、アシエンダ制のもとで富を独占していた。
前項のパンチョ・ビリャは大農園で働く小作農の子どもだったが、エミリアーノ・サパタ・サラサールは農村で生まれ、当地の土地と水利を独占する地主のもとで働いていた。アシエンダ制はよくできたシステムである。大多数の農民を細分化し、その結束を防いだ。
幕政日本の士農工商も職能ごとの役割固定と階級支配を目指した制度と言われるが、アシエンダ制はエンコミエンダ制を受け継いで生まれた、数百年の伝統を持つ「科学的な人間の管理システム」である。
ゆえにこそ、革命の波はメキシコ全土を覆った。サパタもまた農民反乱の指導者となり、土地改革を訴えた。反乱に参加した農民が捕まると銃殺されるか、良くて強制労働キャンプへ送られる。結果として、農民の苦しみを知るサパタの名望は高まった。
パンチョ・ビリャが革命派内の派閥闘争で敗れたように、サパタもまた主流派にはなれなかった。革命派の大分裂は壊滅的だ。
立憲主義者
護憲派
連邦軍
フローレス・マゴンを支持するマゴニスタ
フェリクス・ディアスを支持するフェリシスタ
フランシスコ・マデロを支持するマデリスタ
ビクトリアーノ・ウエルタを支持するウエリスタ
ベヌスティアーノ・カランサを支持するカランシスタ
パスクアル・オロスコを支持するオロキスタ
ポルフィリオ・ディアスを支持するポルフィリスタ
ベルナルド・レイエスを支持するレイエスタ
パンチョ・ビリャを支持するビリスタ
エミリアーノ・サパタを支持するサパティスタ
このうち、前項のパンチョ・ビリャとともに、サパタは護憲派に分類される。上の3つは本人たちを含む大カテゴリだ。
「おや、下の2行に、彼らの思想に共鳴したビリスタとサパティスタがいるだろう」と思うだろう。残念ながら、本人が死んでも支持者は生まれる。そして、本人の思想の一部だけを切り取ってでも生まれるのだ。
メキシコ革命は、基本的には1910年から1920年までの期間を指す。10年で命を落とした人数の最大推計は、270万人である。
サパティスタ民族解放軍(EZLN)
「サパティスタの大義」支援市民ネットワーク(RCACZ)
サパティスタ民族解放戦線(FZLN)
サパタの理想を受け継ぐ(と称する)、新世代の左翼ゲリラだったり武装組織だったり社会団体だったりテロリストだったりする組織が、20世紀末から21世紀にかけて生まれている。
1919年。サパタはカランサ派の罠に絡め取られ、命を落とした。アナーキズム的な色彩の強い彼の思想は、その落命の仕方まで含めて、現代メキシコまで美しい伝説となった。
メキシコの南部は今も貧しい。彼らは人生を変える革命的な出来事を欲していて、それは稼げる職業になることをも意味する。無数の麻薬カルテルが、理想の残骸の中から生まれた。サパタの故郷であるモレロス州も含めて、世界屈指の「殺人事件発生率・未解決行方不明事件発生率」を計上している。
ヒューイ・ロング(Huey Pierce Long Jr.)
【USSA】
アル・カポネ書記長の側近の1人。ソ連の大粛清前、スターリンを支えた人々と対比されるだろう。
【史実】
1893年生まれ、1935年死去。アメリカ合衆国の政治家。ルイジアナ州ウィンフィールド生まれ。ルイジアナ州知事を務めた。南側がメキシコ湾岸に接するルイジアナ州は、やはり南部に有名な都市であるニューオーリンズがある。一方、ロングが生まれたウィンフィールドは北だ。
いや、川の土手の下がどうとかいうネタに持っていくつもりはない。残念なことにルイジアナ州と岡山県を対比すると、ちょっと理解しやすいとは思ったが。
ロングが活躍した頃のルイジアナ州は、アフリカ系アメリカ人が多くを占めていた。2010年頃になると、白人の割合が増え、アフリカ系アメリカ人は数を減らしている。さて、理由はなんだろう?
なんだか現代社会の問題みたいだが、答えは公的機関によって概ね推測されている。2005年にハリケーン・カトリーナが襲来し、ニューオーリンズ市域だけでも8割が水没した。災害から復旧できる資産を持っているのも、そもそもカテゴリー4や5の巨大災害に耐えられる住宅を持っているのも、万一の時に備える保険に継続的に加入できていたのも、多くが白人だった。
ロングはそんなルイジアナ州の悲劇の70年前、1935年にルイジアナ州議会議事堂で暗殺された。葬儀には、約20万人もの支持者が詰めかけたと記録されている。
こう書くと、ルイジアナ州の、そして民主党の未来を支えたかもしれない素敵な政治家に見える。実際に、F・ルーズベルト大統領は、彼の政策や提言を第二次ニューディール政策に活かしたとも言われている。スタンダード・オイルのような大企業にも公然と反発した。
だが、一方ではその巨大勢力と戦うため、「手段を選ばない」ことにした。全米有数の未開発地域。全米最低の識字率。ロングはそれを乗り越えるために知事になる必要があり、そのためにクー・クラックス・クランという州内の重要問題をあえて無視したり、現職の知事に暴力を振るったりもした。ロングはこの1回だけ負けた選挙で、大衆の心の掴み方を学習したようだ。
知事になると、彼は反対者を軒並み罷免し、「左翼ポピュリズムの代表格」と形容される施策を連発。「公立小学校の教材無償化」「売春宿の強制排除と売春婦の逮捕」「彼を弾劾しようとした者たちへの制裁」「知事の護衛の増員」「富の再分配」……。
ロングはルイジアナ州の教育水準を大幅に改善し、18世紀かと思える整備状況だった道路網を舗装し、州財政の赤字を10倍にし、それらの予算に協力的企業への贈賄を組み込み、公衆衛生を大幅に改善しつつ、戦前には珍しい精神障害者の保護も行い、税制改革で固定資産税を大幅に減らし、代わりにガソリン税やタバコ税を大幅に引き上げ、シングルマザーに支給される年金額を削減し、公教育を支える教師の給与を低いままに据え置いた。
つまり、ロングは何かを実行した政治家であり、政策にはメリットもデメリットもあることを示した。悪辣と呼ぶに値する所業も残っているが、ルイジアナ州の生活水準は彼が知事を勤めた4年間で向上したと評価されている。
ロングは1932年に自らの後継者をルイジアナ州知事に据えてから、暗殺されるまでを連邦上院議員として活動した。議事妨害の常連であり、少なくとも同じ上院議員から、しかも身内の民主党員からも軽蔑されていたことも、「ポピュリスト」の評価が側面ではなく前面に出てきている原因だろう。
1936年大統領選挙を目指し、準備をしていた。ロングはルイジアナ州の自治を危うくする「院政」を敷いていたこともあり、「独裁的大統領誕生の懸念」と「大体の有権者はその手法を嫌うために共和党候補を選ぶ」事態への憂慮があった。ルイジアナ州では、反ロングの準軍事組織まで生まれている。
この頃にはロングとF・ルーズベルトは袂を分かっていて、"ルイジアナ州ロング帝国"では「ルーズベルト派や連邦捜査官の拘留を許可する州法」まで生まれていたという。
ロングは撃たれた。「神よ、私を死なせないでください。私には、まだやるべきことがたくさんあるのに」が、最期の言葉の一説として伝わる。ロングの死は、F・ルーズベルト再選の最大の追い風になったとも言われる。
犯人のカール・ワイスは29歳の医者で、彼の義父はロングの政敵だった。取り調べはできない。ワイスは相当に増員されていたロングの護衛から、60発以上もの銃弾を撃ち込まれていた。
謎は多い。
だが、確かめようもない。
ロングもワイスも死んだ。陰謀論だけが、いつまでもどこかで生まれては消えていく。
ラッキー・ルチアーノ(Charles "Lucky" Luciano)
【USSA】
アル・カポネ書記長の側近の1人。ソ連の大粛清前、スターリンを支えた人々と対比されるだろう。
【史実】
1897年生まれ、1962年死去。近現代でざっくりひとまとめにして語られる「マフィア」の中で、トップクラスの知名度を誇る。イタリア王国に生まれ、アメリカ合衆国で大いなる勢力を築き、イタリア共和国へ追放されてなお確固たる存在で在り続けた。
映画『ゴッドファーザー』に出てきたいくつかのキャラクターやエピソードは、ルチアーノにまつわるあれこれをモデルにしている。とりわけ、1作目のマイケル・コルレオーネが「旧世代」のボスたちを次々に暗殺した事件は、ラッキー・ルチアーノの「シチリアの晩鐘」事件をイメージしていると考えられている。
この事件の底本には1282年の「シチリアの晩鐘(晩祷)」があり、この時にシチリア人が「Morte alla Francia Italia anela(フランスに死を、これがイタリアの叫びだ)」と叫んだことから「MAFIA」の単語が生まれたという伝説まで転がり出た。
実際のところ、「マフィア」は確かにシチリア島を発祥とする組織で、ルチアーノもシチリア州パレルモ県レルカーラ・フリッディの出身である。だが、彼はアメリカ合衆国の犯罪組織である「コーサ・ノストラ」の最高幹部であり、これらの組織はみな「沈黙の掟」があるため、変化が外部からでは見えづらい。
だが、そんな旧態依然を改革しようとしたのがルチアーノだった。
アメリカに渡ったばかりの幼少期、アル・カポネと知り合う。カポネはイタリア系アメリカ人だったが、マフィアの本流であるシチリア出身でなかったこともあり、ニューヨークを離れてシカゴへ移住する。この際、ルチアーノはカポネに2万ドル(現在の価値で約30万ドル/4400万円)を餞別として渡したという。
「マフィア」はそれ自体が密接に表の歴史と関わってきたものであり、例えば「ムッソリーニに弾圧されて全滅しかけたシチリアのマフィアが、連合軍の上陸に協力して対価を得たことで急速に息を吹き返した」といった話など、それだけで終わらなくなるので、詳細は省く。
シチリアに戻ってなお勢力を伸ばし続けていたルチアーノは、「沈黙の掟」を破る自伝映画を作ろうとしていたさなかに倒れた。心臓発作である。暗殺説もある。
ルチアーノには同居する愛人がいたが、結婚はしなかったし、息子や娘をほしいとも思わなかった。「子どもには、『高名なギャングであるルチアーノの子』としての人生を送らせたくない」というのが、その理由だった。
ジミー・ホッファ(James Riddle "Jimmy" Hoffa)
【USSA】
アル・カポネ書記長の側近の1人。ソ連の大粛清前、スターリンを支えた人々と対比されるだろう。さすがに、コピペであることがバレそうだ。
【史実】
1913年生まれ、1975年ごろ死去と推定。いきなり不穏だが、この年に失踪して1982年に死亡宣告を受けた。全米トラック運転手組合の委員長を務めるなど、アメリカの労働組合運動で重要な役割を果たす。ただし、その活動全体においてマフィアと手を組み、複数の犯罪行為に加担したとされている。
インディアナ州ブラジル生まれで、やがて繁栄を極めるミシガン州デトロイトに移った。現代のデトロイトは180億ドルを超える負債とともに財政破綻(2013年)し、「貧困じゃないほうが珍しい」というFallout先行体験地域になっていたが、2023年9月現在は状況が大幅に好転している。昔からこの街を支えた自動車産業が再度その資本を投下し始めたのみならず、ロボット産業の工場が次々に完成したことで、失業率は一桁台まで戻ったのだ。
そうしたダイナミックな歴史を持つ街で、ホッファは長く虐げられてきた労働者を守り、そして戦うための運動の最前線へ飛び込んだ。
だが、それは綺麗事では収まらない。ホッファの後ろ盾には組織化されたいくつもの犯罪があった。
1975年、ホッファは複数の問題を抱えていて、ついに姿を消した。1989年にはFBIが情報を公開。現代までにあらゆる情報が突き合わされた結果、彼は犯罪組織に拉致され、命を奪われ、遺体を焼かれたと考えられている。時を追うごとに「ホッファ失踪の真相」は雨後の筍のように現れ、「自分がホッファをコンクリ詰めにした」という証言まで出てきた。
時として、ホッファは生前の活動より、そのミステリーに至った過程と仮説のほうに興味を持たれている。彼は間違いなく力強いリーダーだったが、光としての功績も闇としての罪科も、容易に触れられぬ場所へ持ち去られてしまった。
ジョン・エドガー・フーヴァー(John Edgar Hoover)
【USSA】
アル・カポネ書記長の側近の1人。「処刑人」の異名を持つ。ソ連の大粛清前、スターリンを支えた人々と対比されるだろう。ラストコピペである。
ジョン・エドガー・フーヴァーは、ソ連のラヴレンチー・ベリヤのポジションとなる。そうなると、ロングはヴャチェスラフ・メンジンスキー、ルチアーノはゲンリフ・ヤゴーダ、ジミー・ホッファがエジョフだろうか……。
そう思っていたら、このあたりはUSSRとUSSAでかなり異なることが判明した。なので、追加調査で全体の流れが確定するまで保留する。少なくとも、「1941年12月7日にマッカーサー大元帥はワシントンD.C.で絞首刑に処され、ヒューイ・ロングが権力の座についた」というキテレツな展開になっている。アル・カポネはスターリンよりも早くお亡くなりになったらしい。
というわけで、アル・カポネも次回以降にまわすが、ジョン・エドガー・フーヴァーがベリヤなのは間違いないようだ。史実でも毀誉褒貶にあふれた、捜査局(BOI)第6代長官にして、初代連邦捜査局(FBI)長官である。
ちなみに、「ジョン・エドガー・フーヴァー(John Edgar Hoover)」と「ハーバート・フーヴァー(Herbert Clark Hoover)」を間違えるという、あまりにもアホらしいミスをしていた。せっかくなので、ハーバート・フーヴァーの史実解説もそのまま残しておく。
【史実(J・E・フーヴァー)】
1895年生まれ、1972年死去。ワシントンD.C.出身。第6代捜査局(BOI)長官にして、初代連邦捜査局(FBI)長官。1924年から1972年までアメリカの諜報活動のドンであり続け、8人もの大統領に仕えた。結果として、独裁的とも形容される権力を保持し、FBIが本来課せられている規範や法律に違反し続けた。つまり、違法な監視、盗聴、強盗、脅迫……枚挙に暇がない。
吃音のハンデを持っていたが、早口で話す技術を独学で習得し、成長してからもその手法を活用した。ワシントンD.C.にあるジョージ・ワシントン大学ロースクールを卒業。法学学士号を取得し、司法省に入る。時は1917年。アメリカ合衆国はついに欧州の戦争への介入を決めており、フーヴァーは「戦争事態局(War Emergency Division)」に配属された。
その後、戦間期の赤狩りを支え、猛烈な早さで出世する。マフィアを取り締まるうちに、フーヴァー自身もマフィア的存在となり、後世に収賄の事実が証明された。ジョン・F・ケネディ大統領、および弟でのちの大統領候補であるロバート・ケネディ司法長官は、フーヴァーを免職しようと試みた。
だが、フーヴァーは情報を持っていた。かつてフランス革命期からフランス第一帝政を経て、とうとう最後まで多くの機密情報とともに生き延びたジョゼフ・フーシェがそうだったように、フーヴァーもまた有力政治家のスキャンダルを握っていた。
何しろ、ケネディ家もまたマフィアとのつながりが深い一族であったし、J・F・Kには女性問題という、イメージ戦略面で致命傷となる負い目があった。
かくして、フーヴァーは独裁者であり続けた。もちろん、彼は大統領権限を操作することまでは叶わなかったので、背信容疑で1万人を超えるアメリカ人を勾留する計画をトルーマン大統領に提出したものの、ミスター・プレジデントは「国家非常事態」を理由とする"強権発動"を行わなかった。
1963年にクー・クラックス・クランが16番街のバプテスト教会を爆破し、少女4名が死亡した事件については、連邦捜査局がこの事件の捜査から手を引くことを厳命した。同事件はFBIと地元捜査官が協力し、「たとえアラバマ州の白人陪審員であっても、有罪判決を出すしかない」と言われるほど強力な証拠をそろえていたにもかかわらず、4名の容疑者は起訴されなかった。
晩年のフーヴァーは、米国公務員は必ず70歳を退職年齢としなければならない旨の規定を、自分については免除できるように取り計らった。つまり、終身FBI長官となる運動である。さて、確認しよう。彼は1895年に生まれ、1972年に死去した。1924年に最後のBOI長官となり、1935年にそのまま最初のFBI長官になった。その役職は、彼が死亡するまで保持し続けた。77歳である。
アメリカ合衆国下院議会は、「米国下院暗殺に関する特別委員会(United States House Select Committee on Assassinations / HSCA)」を1963年のジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件、および1968年のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の暗殺事件を調査するために1976年に設置され、1978年に最終報告を行った。
HSCAの調査を妨害する者は、もはや存在しなかった。
<調査結果1>
「ケネディは陰謀の結果として暗殺された可能性が高い」
ただし、すでに多くの人が知っているとおり、前提となる発砲数からして様々な憶測があり、何より容疑者とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは警察署内で暗殺されてしまっていた。
<調査結果2>
「キング牧師は陰謀の結果による『可能性がある』一方で、この事件に米国政府機関は関与していない」
こちらは明解な結論を出しており、ケネディ大統領のケースに比べると対照的である。キング牧師は、当時すでに公民権運動のメインストリームから外れかけていた。その事実さえも裏付けているかのようだ。
これらに付随する形で、「フーヴァーFBI長官がケネディ大統領の事件捜査に消極的だった事実」について、HSCAは批判している。
やがて、フーヴァーは諜報機関を秘密警察に作り替えた王として、さまざまな出所不明、証拠不十分な醜聞がついて回ることになる。一方、それらの不利な情報のエビデンスが出てこないのは、生前のフーヴァーが記録を処分していたからだ……という陰謀論めいた言説さえ、どこか真実みを持って響くのである。
ジョン・エドガー・フーヴァーとは、そうした存在だった。
【史実(H・フーヴァー)】
1874年生まれ、1964年死去。アイオワ州ウェストブランチ出身。第31代アメリカ合衆国大統領。ハーディング政権、および後を継いだクーリッジ政権では商務長官を務めた。世界恐慌に起因する経済対策に失敗したものの、その他の活動で多くの功績を残し、共和党の重鎮であり続けた。
すでに禁酒法のもとで巨大な存在となっていたアル・カポネとの明確な対決姿勢を打ち出し、財務長官アンドリュー・メロンにその旨を命令している。なお、アンドリュー・メロンは先だっての『Southern Victory』記事で触れたとおりに「清算主義」で不況に臨んだが、これが裏目に出てしまった。
とはいえ、フーヴァー政権はアメリカの浮沈が掛かる時期を乗り切るため、1929年から1933年まで精力的に活動した。指示を受けたメロンは2つのカポネ摘発計画を推進。うち1つ、合衆国憲法修正第18条に基づく実施法令としてのボルステッド法、この違反の面から摘発するため、財務省(のち司法省)酒類取締局を通じた捜査を開始する。
そして、「アンタッチャブル」と呼ばれるほどの活躍を見せた酒類取締局の代表的な捜査官が、エリオット・ネスだった。彼は紹介文でも「真の革命家」と称揚されていたが、史実でもアル・カポネと対決していたことになる。
ハーバート・フーヴァーは、生粋の共和党員だった。そのため、F・ルーズベルトへの評価も手厳しい。だが、1931年のフーヴァー・モラトリアムの効果は限定的で、時期を逸していた。もはや、ドイツはNSDAPの台頭によってWW2へと突っ走る。
フーヴァーはモンロー主義的な孤立主義に積極的で、それを公約通りに果たし、結果としてヨーロッパでもアジアでも、裏庭である南米でも政情不安が巻き起こった。
冷戦時、それもデタント前の戦う姿勢が必要な時であれば、フーヴァーの気質や信念は時世に合致したかもしれない。だが、彼が大統領になり、それから大きな不名誉を少しずつ取り除いている時、F・ルーズベルトが合衆国に望まれる存在として登場したのだった。
マリオ・ランツァ(Mario Lanza / Alfredo Arnold Cocozza)
【USSA】
物心付いた時には、すでに共産国家アメリカである。良い声を持つランツァは、党のために農業機械のすばらしさを歌い、アル・カポネ書記長や党の幹部たち、大戦で死んでいった同志たちの勇敢さを歌っていた。それは社会主義リアリズムに満ちていて、やがてその評価は赤き星とともに地平線の向こうに消えるのである。
【史実】
1921年生まれ。1959年死去。本名はアルフレード・アーノルド・ココッツァだが、一般的にマリオ・ランツァの名前で知られる。ペンシルベニア州フィラデルフィアのイタリア人街で生まれた。歌手であり、俳優でもある。彼の性格は、3語で表現された。
「反抗的で、タフで、野心家」
(Rebellious, Tough, and Ambitious.)
1942年、マリオ・ランツァ21歳の時、ニューイングランド音楽院でオペラ部門の指導をしていた指揮者のボリス・ゴルドフスキー、ならびに当時24歳でのちに世界的指揮者へと上り詰めるレナード・バーンスタインに師事し、オペラ歌手としてデビューした。
バーンスタインを筆頭に、当時の芸術家の多くは共産主義に強い理想を抱き、少なくとも米国ではかなり強めのリベラル思想に基づく政策を望んでいた。
ランツァ自身に共産主義的な思想の主張があった旨の記載は見当たらなかったが、(伝記のようにもっと詳しい情報なら書いているかもしれないし、)バーンスタインの系譜でUSSA世界での親共産主義歌手の役割を任じられた可能性はある。
21歳にして批評家から激賞されたランツァのキャリアは、逃れ得ぬ2度目の大戦への兵役義務っていったん中断されたが、陸軍航空隊の特別任務でその身体を損なうことなく、戦後には再び舞台に復帰している。
だが、ランツァは転がり落ちた。肥満が始まり、声は魅力を失ったと評される。解雇され、そのストレスから逃れるためにアルコールに走った。しかも、元マネージャーに資産運用を託していたが、これが大失敗。破産寸前の状況に追い込まれたうえ、一度身についた彼の浪費癖は治しようがなく、約25万ドルもの未払い税を背負うことになる。
のちに、ランツァは、プッチーニのオペラ『蝶々夫人(Madame Butterfly/マダム・バタフライ)』で"Cio-Cio-San"を主演したリチア・アルバネーゼ(Licia Albanese)と共演する。
アルバネーゼは、当時のランツァをこう評した。
「マリオについては、あらゆる種類の話を聞いていました。彼の声は、舞台でやるには小さすぎる。楽譜を読めない。オペラを最後まで歌い続けられない。そういった風聞を」
「どれも真実ではありません!」
「彼は、最も美しいリリコ・スピント(力強いソプラノ/lirico spinto)の声を持っていました。とても美しく、力強い声です。私は、たくさんのテノール歌手と共演してきたからわかります。彼はオペラ歌手が必要とするものすべてを持ってました。声、音律、完璧な発語……」
「彼に必要なのは、コーチングだけでした。彼にとっては、すべてが簡単だったのです。彼は本当にすばらしかった!」
マリオ・ランツァの声は死んでいなかった。だが、彼の命はもはや風前の灯だった。イタリアのローマ歌劇場に招かれ、数多くのオペラの録音作業を行ったのち、静脈炎、高血圧、痛風、止まらぬ過食癖に伴う暴飲暴食、それを克服するための過剰なダイエットという乱高下に突入する。
後代の3大テノールが讃えた美声は、アルコール依存と睡眠薬依存の混交により、肺塞栓症が最終的な要因となって永遠に奪われた。38歳である。対して、風聞に迷わされず、率直な意見を提示したリチア・アルバネーゼは、1909年から2014年まで満105歳の人生を全うした。
シドニー・グリーンストリート(Sydney Hughes Greenstreet)
【USSA】
USSA体制下で作られた映画において、革命前の「泥棒男爵」を演じていた。いわゆる悪役専門俳優である。
【史実】
1879年生まれ、1954年死去。イギリス系アメリカ人で、なんと満61歳の時(1941年)に映画俳優デビューを果たした。とはいっても、もともと舞台俳優をやっていたので、俳優業自体が初めての純粋オールドルーキーではない。
デビュー作は有名作品『マルタの鷹(The Maltese Falcon)』。主演のハンフリー・ボガートが演じるサム・スペードに対比される、鷹の彫像を追う「敵役の太った男」カスパー・ガットマンの役だった。ほかにも『カサブランカ(Casablanca)』や『渡洋爆撃隊(Passage to Marseille)』にも出演。高齢のため、映画俳優としては8年のキャリアだった。
この意味において、「USSA世界でも本来の役割を果たした存在」の代表格になっている。
オリヴァー・ハーディ(Oliver Hardy)
【USSA】
USSA体制下で作られた映画において、革命前の「泥棒男爵」を演じていた。共産主義体制下では悪役専門として扱われていた様子だが、革命以前のキャリアは不明である。
【史実】
1892年生まれ、1957年死去。コミック俳優の代表格。なんと無声映画時代からキャリアを持つ、映画黎明期から黄金期までを支えた大ベテランである。確かに、「もう見ただけでどういう属性かわかる」説得力がある。
ジョージア州ハーレムの出身。本名はノーベル・ハーディで、オリバーは父の名前だった。父親のオリバー・ハーディは南北戦争に南軍側で従軍した退役軍人であり、「1日で最も多くのアメリカ人が死んだ日」であるアンティータムの戦いで負傷し、以後は後方で新兵募集を担当する士官となっていた。
ジョージア陸軍大学(中学・高校・短大を備えている)に進んだハーディは、アメリカンフットボールで以後の俳優人生を支える肉体をつくりあげた。1910年、ジョージア陸軍大学のあるジョージア州ミレッジビルに映画劇場がオープンし、彼がそこで映写技師兼チケット係兼管理人兼マネージャーを始めたことが、人生の転機となった。兼務しすぎである。
アメフトで鍛えたハーディの肉体は、身長185cm・体重136kgという「悪役でもコメディでも映える」存在になっていた。彼は自身で短編映画を撮り、その志が高じてニューヨークへ移り、トーマス・エジソンが開設したエジソンスタジオに所属して制作や演技のノウハウを学んだ。
こうして、ハーディはあらゆる映画に出まくった。イギリス人のスタン・ローレル(Stan Laurel)と組み、コンビのコメディアン「ローレル&ハーディ(Laurel and Hardy)」として活動したのが最も有名になっている。ローレルとの共演でない映画についても、実に106本もの映画に出演した。
1954年に軽い心臓発作を起こし、ようやく健康に気を配り始めたハーディだったが、数ヶ月で70kg近く体重を落とし、かつての外見は完全に失われた。ローレルの手紙に残る情報によれば、ハーディは末期がんを患っていたという。心臓発作から2年後に脳卒中となって発話が不可能になり、翌年に脳血栓症で旅立った。
国籍を超えた「親友にして大切なパートナー(dear pal and partner)」のローレルは大いに悲しみ、誰よりも葬儀に駆けつけたかっただろうに、それができなかった。当時67歳の彼もまた健康を損なっており、出席についてドクターストップが出たのだ。
1965年、ローレルは8年遅れでハーディを追いかけた。死後の2019年には、「史上最高のイギリスのコメディアン(The greatest ever British comedian)」に選ばれている(TVチャンネル"Gold"の企画において)。
だが、そうした栄誉よりも、かけがえのない相棒に会えたことを願うばかりだ。ただし、それはきっと、彼らを象徴するドタバタの果ての笑いに満ちた結末としてだろう。
ジョージ・ラフト(George Raft)
【USSA】
社会主義革命の歴史を追いかけるプロパガンダ映画において、"アメリカの大衆を解放に導いた偉大なアル・カポネ書記長"の役を演じる。現実のソ連のプロパガンダ映画は、ちゃんとスターリンがスターリンしていたが、こちらは明の洪武帝くらいに美化されていたといえるだろう。
洪武帝が誰かわからないって? 僧だよ。
【史実】
1895年、または1901年生まれ。いきなり記録があいまいである。基本的には1895年生まれと考えられているが、ラフト本人が1901年生まれのほうが正しいと述べ、ニューヨーク市の出生記録を示した。本名は少し違い、ジョージ・ランフト(George Ranft)だ。1980年死去。
というわけで、ニューヨーク市マンハッタン区のヘルズ・キッチンで生まれたドイツ系アメリカ人だ。野球のマイナーリーガーで投手を志望しながら外野手をやっていたが、打撃が不振でそれを果たせなかった。
やがて俳優になったラフトは、ハワード・ヒューズが製作プランを練っていたアル・カポネをモデルにした映画『暗黒街の顔役(Scarface)』に出演し、大きな評判をつくった。この一行だけで、「アル・カポネのつくった国家で、流れ者のハワード・ヒューズが反体制派をやっているUSSA世界」がだいぶぐにゃぐにゃした関係であることがわかる。
ラフトは多くの作品でギャングや囚人などのタフガイ属性のアウトローを演じたが、それは醜聞と密接にリンクしてしまう。彼はアメリカマフィア、ひいてはギャングの歴史に燦然と輝く「オウニー・"ザ・キラー"・マドゥン」、「ベンジャミン・"バグジー"・シーゲル」、「マイヤー・ランスキー」といった大物と子どもの頃から親しく、幼馴染と形容していい間柄だった。
最も仲の良かったシーゲルは、ビバリーヒルズの愛人宅で襲撃され、M1カービンで両目を吹き飛ばされて死んだ。これは映画『ゴッドファーザー』の1作目で、眼球を撃たれて死ぬマフィアの元ネタである。ちなみに、画像検索すると、「無修正での"悪党の末路"写真でございます」に遭遇する可能性が結構あるため、気をつけたほうがいい。
マドゥンは1965年まで生き、どうにか肺気腫で天寿をまっとうしたが、長年、体中に受けた銃創で苦しんでいた。
ランスキーも1983年までの80歳と半年を生きたが、ユダヤ系ロシア人という属性にもかかわらず「ユダヤ人のための国家であるイスラエルにさえ帰化申請を拒否される」という顛末を経て、アメリカに強制送還。現在の価値にして700億ドルの資産を隠し持っているとされていたが、終わらない仲間同士の殺し合いに疲れ果て、どうやら貧困のなかで死んだという。
こうした面々との付き合いが、ラフトに強烈なレッテルを貼り、FBIから複数回の取り調べを受けた。1944年にフリーランスの映画スター兼プロデューサーになった当初は調子が良かったが、少しずつその姿はスクリーンから遠のいていく。
ラフトは、ギャングたちからは「単なる殺人者や凶悪犯ではなく、人間として見てくれる」と好評だった面もあるが、それは逆に世間からの風当たりにもなっていった。1980年、彼はマドゥンと同じ肺気腫でこの世を去る。
重要な事実がある。カリフォルニア州ハリウッドには、エンタテインメントに多大な功績を残した人物を一般投票で顕彰する「ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム」があるが、ラフトはここに選ばれている。それも「映画」と「テレビ」の2つだ。
USSA世界では、その生まれに付随するエピソードから、だいぶ酷な役割となった。史実でも、いろいろあった。どこからジョージ・ラフトを知り、どこまでジョージ・ラフトを知るか。ずっと知り続けようと思うのか。そんな「歴史との向き合い方」までも、教えてくれるようですらある。
バスビー・バークレー(Busby Berkeley)
【USSA】
プロパガンダ映画の演出や振り付けを担当。「プロレタリア精神を涵養する」役目を担い、アル・カポネの演説に熱狂する大衆の動きなどを指導した。史実の業績から考えると、「どんなに豊かな芸術性や創造性があっても、イデオロギーという鎖でつなぎ止められると、それらは決して活かされない」という皮肉が効いている。
【史実】
1895年生まれ、1976年死去。カリフォルニア州ロサンゼルスの出身。演劇一家に生まれ、若干5歳で舞台デビューを果たし、第一次世界大戦時には砲兵中尉として陸軍に所属。アメリカ外征軍(AEF)として、欧州の最前線へ投入されることはなかったようである。
ブロードウェイにおいて一流の品質を支えるダンスの監督責任者となり、多くの演目で指導したのち、映画にも関与。万華鏡のような動きをクローズアップとトップショットを駆使して魅せる手法は、独創的なものとして評価された。
しかし、私生活は万華鏡のように美しいものではなかった。6回結婚したうえに訴訟も起こされ、婚約止まりになった交際相手もいた。
1935年には2人が死亡、5人が重傷を負う自動車事故を起こし、第二級殺人の罪状で起訴される。飲酒運転の疑惑まであった。絞首刑なども可能性として見えるなか、2回は評決不能陪審で終了したのち、3回目にようやく無罪となった。
その後、母親が亡くなり、キャリアが低迷すると、バークレーの精神はいよいよ崩壊を迎える。リストカットをし、睡眠薬を過剰摂取し、自殺を図ったが未遂に終わる。精神病院に長期入院したが、この入院によって彼の精神はもはや元に戻らなくなった。20世紀中盤の精神病院の環境については、ここでは触れない。
ともあれ、彼は危うい精神状態のなか、それまでの精力的な活動ではないものの、10個ほどの仕事を残した。最終的には80歳3ヶ月で亡くなったわけだが、念押しするように「自然死」と書かれている。関係者は、1960年代以降のバークレーについて、こう語った。
「彼は何度も酔っ払っているのを見つかって、そのたびに刑務所に入れられ、もう酒はやめると約束し、家計はめちゃくちゃになり、あちこちを転々とし、そのたびに家賃の未払いで追い出された。みじめだった。……彼と友達になった人の話なんて、誰ひとり聞いたことがない」
心の病は、見ていてつらくなる。なので、ひとつ筆者の笑い話を提供して終わろう。「もう酒はやめると約束し」の部分は、英文では「promising he'd go on the wagon」である。最初、トンチキにも「車に乗ると約束し」と訳した。わけがわからない。口語表現で、"go on the wagon"は「禁酒する」だったのだ。まだ改善の余地が十分あると思うが、"酔っ払った"解釈を避けられたのは良かったと言えよう。
ベティ・デイヴィス(Bette Davis / Ruth Elizabeth Davis)
【USSA】
ドラマ『ディック・トレイシー』で、反体制派の活動家を演じる。ちなみに、小説の本文では「やっぱり反革命の女は信用できないと教えている」的な文言があり、逆説的に共産圏でのハニートラップなどを揶揄しているという考察があった。外交官レベルのハニートラップから、個人レベルの美人局まで。対策が困難な罠である。
【史実】
1908年生まれ、1989年死去。本名はルース・エリザベス・デイヴィス。マサチューセッツ州ミドルセックス郡ローウェル出身。キャサリン・ヘプバーンなどと並ぶ演技派女優で、堪えきれない自分語りをするなら、彼女が主演した映画『何がジェーンに起ったか?(What Ever Happened to Baby Jane?)』は筆者にとっても思い出に残る作品だ。
1928年に巡業劇団に入ってニューヨークへ進出し、翌年にはブロードウェイで舞台デビュー。そこから映画女優を選択し、1931年にユニバーサル・ピクチャーズ・コーポレーションと契約。キャリアには良い時もあれば振るわない時もあったものの、亡くなる1989年まで映画に出続けた。
デイヴィスの名を高めたのは、サマセット・モームの小説『人間の絆(Of Human Bondage)』を原作とした、1934年版の映画『痴人の愛(Of Human Bondage)』。彼女が演じた"これ以上ないほど悪辣な女"ミルドレッド・ロジャースは、大きな存在感をもって観客の心を掴んだのみならず、当時すでにキャリアを積んでいた主演のイギリス人俳優レスリー・ハワードからの信頼を勝ち取ることにも成功した。
だが、映画会社間の政治的都合やアカデミー賞のシステムの不備から、デイヴィスの名演は観客も評論家も絶賛したにもかかわらず、栄えある賞にノミネートすらされなかった。これに抗議したのは、本物の名優たる彼女こそ賞に参加する栄典に浴するべきと考えた大衆であり、評論家であり、俳優仲間だった。
「おそらく、アメリカの女優がスクリーンに残した最高の演技だろう」
"probably the best performance ever recorded on the screen by a US actress"
1936年から2007年まで発行された雑誌『Life』で、このような文言によって激賞されたデイヴィスは、しかし、『痴人の愛』によってではなく、翌年の『青春の抗議(Dangerous)』で「(去年の)残念賞」と表現される主演女優賞受賞を果たした。
2023年現在、メリル・ストリープ、キャサリン・ヘプバーンといった面々とともに、女優としてのアカデミー賞ノミネート回数の上位に記録を残している。悪女さえも恐れずに、そのうえ説得力を伴って演じたデイヴィスなら、「油断ならない修正主義者」さえも好演しただろう。
バリー・ゴールドウォーター(Barry Morris Goldwater)
【USSA】
アル・カポネ書記長の後継者として、USSAが超大国の一角としてあり続ける路線を継承した。史実におけるニキータ・フルシチョフに相当。となると、すでに作品解題のなかでも触れたとおり、えげつないレベルの失脚を味わうことになっただろう。
【史実】
1909年生まれ、1998年死去。アリゾナ準州フェニックス出身。アリゾナ州連邦上院議員を務め、1964年大統領選挙で共和党の大統領候補に選ばれたが、暗殺されたジョン・F・ケネディの路線を継承した民主党のリンドン・ジョンソンに敗れた。
なお、この時のジョンソンの一般選挙の得票率は61.1%に達し、接戦が基本のアメリカ大統領選挙において非常に高い数字となった(1820年以降最高割合)。ジョンソンによる「右派の代表格たるゴールドウォーターが大統領になった場合、ソ連との全面核戦争の危険がある」という宣伝が効果的だったという。実際、ゴールドウォーターは「ベトナム戦争での戦術核兵器の使用」を口にしていた。
民主党には「公民権法の推進」という、「白人優越」が根強く残る南部を中心に支持を落とす要因があった。それにもかかわらず歴史的なレベルで圧勝し、民主党が議会においても多数派の地位を獲得したのである。この事実は以後の政権運営を安全にしたのみならず、共和党の選挙戦略や政策方針にも影響を与えることになった。
実際のところ、ゴールドウォーターは共和党保守派の代表格に見られながらも、父親はユダヤ人で、母親はリベラル色の強い米国聖公会の信徒だった。しかも、彼のいとこであるジュリアス・ゴールドウォーター(Julius Goldwater)は浄土真宗の僧侶で、第二次世界大戦の戦中戦後を通じて強制収容された日系アメリカ人を支援していた。
ちなみに、アメリカ政府は日系アメリカ人強制収容所のことを「転住センター」と表現していたが、まだ太平洋戦争が続いている1944年に、連邦最高裁判事オーウェン・J・ロバーツから「単なる言い換えに過ぎない」と看破されている。
極東国際軍事裁判のラダ・ビノード・パール判事はよく話題になるが、ロバーツ判事はあまり話題にならない。
おそらくは、彼が議長を務めた第一次ロバーツ委員会において、のちに名誉が回復されることになるハズバンド・キンメル海軍大将とウォルター・ショート陸軍中将の責任を認定してしまったこと。これが汚点になっていそうである。
一方、この委員会は軍法会議ではなく事実調査委員会という位置づけだったが、ロバーツ判事以外はすべて軍属の人間だったので、判事もまたその立場上の被害者という意見もある様子。
なお、キンメル大将とショート中将の名誉回復については、上院と下院で決議が採択されたにもかかわらず、ビル・クリントン大統領と次代のジョージ・W・ブッシュ大統領が署名を拒否し、以後の大統領も全員がそれに倣っているため、公的には名誉回復に至っていない。
これを認めることで、「"世界を救った偉人"であるF・ルーズベルト大統領が、実は実前に真珠湾攻撃を知っていて、あえてその奇襲攻撃を看過することで世論操作を行った」言説が加熱することを警戒しているのではないか……と言われているが、どれも憶測の域を出ない。
ともあれ、政治力学の嵐に巻き込まれ、2人の名誉は宙ぶらりんである。
ロバーツ判事は反戦ジャーナリストにも批判されたが、真珠湾委員会(第一次ロバーツ委員会)での体験が影響した結果、1944年の「コレマツ対アメリカ合衆国裁判」での行動へと至ったようだ。
すなわち、日系アメリカ人のフレッド・コレマツ(日本名は是松豊三郎)が強制収容の違憲を主張し、最終的には合憲であると連邦最高裁は判断した裁判である。この判決にたどり着く過程、連邦最高裁判事の協議において「日系アメリカ人の強制収容は違憲である」と唯一主張したのがロバーツだった。
フレッド・コレマツは、圧力さえもはねのけて弁護を引き受けたアーネスト・ビーシグのおかげで保釈された。だが、裁判所から出た途端に憲兵に逮捕され、衛生状態が劣悪な仮収容所に送られるという、無体な扱いを受けている(コレマツは1983年に有罪判決無効、ならびに名誉回復が決定)。
このあたりのエピソードを追いかけると、「やってんねぇ!」な状態になるが、それが1940年代である。日本兵はアメリカ兵で人体実験をしたし、アメリカ兵も日本人や日系アメリカ人を下に見た。そういう事例があった。それには怒りを覚えるが、投げかけるべき相手を間違えてはいけない。
ん、ゴールドウォーターはどこへ行った?
ロバーツ判事は「コレマツ対アメリカ合衆国裁判」のあと、「スミス対オールライト裁判」でも「白人のみが投票を許される予備選挙は違法である」と強く主張し、1935年の別の判決を覆した。もっとも、その別の判決にあたる「グロービー対タウンゼント裁判」では、彼は合憲側にいた。1941年の経験が、彼を「盲目的な合衆国の常識への隷属」から解き放たったのかもしれないし、単にF・ルーズベルト政権のやり方が気に食わなくなったのかもしれない。
ともあれ、「スミス対オールライト裁判」は8対1で白人予備選挙は違憲と判断され、画期的な転換点をもたらす。南部で有権者登録をしている黒人の割合は、1940年の調査では3%未満(計数不可地域多数)だったところが、1964年には40%以上まで上昇した。
逆に言えば、1863年の奴隷解放宣言や、それを保証する各種法律があったにもかかわらず、その理念は達せられていなかった。南部諸州が自らの歴史と文化と自治を肯定するジム・クロウ法などを制定したことで、人種差別を合法の範疇さえ超えて"常識化"していたといえる。
晩年、ロバーツ判事は、F・ルーズベルト大統領によって任命を拒否された唯一の連邦最高裁判事となった。彼は1945年に栄えある職務から勇退したが、その姿勢は絶えず同僚の判事との衝突を生んでいたため、退官時に慣例的に送られていた「功績を認める書簡」への署名拒否さえも起きた。実際、書簡は公的なものとならず、ロバーツには渡されなかった。
現代において、オーウェン・W・ロバーツはその功績を称えられ、討論会や学区の名前に採用されている。
あー……。
バリー・ゴールドウォーターさんの項目でしたね、ここ。
そうそう!
日系アメリカ人を支援したジュリアス・ゴールドウォーターは、彼らが完全に解放されるまで支援を続けた。
加えて、住宅や資産などを奪われた家族も多かったことから、私財を投じて2つのホステルを設立。それだけでなく、「国内難民」となった彼らが恒久的な宿泊施設や住宅、何より雇用へつながるような活動を継続した。自分の車さえも、これらあてのない強制収容の被害者たちが必要とするたびに貸していたという。
1908年生まれ、2001年死去。ジュリアス・ゴールドウォーターは、20世紀末に受けたインタビューにおいて、これらの行動が英雄的であるという称賛を謙虚に否定し、以下の返答を重ねている。
「私は、どんなアメリカ人でもするであろう行動を実際にやっただけです」
"I only behaved as any American would have done."
USA!
U S A !
U S A !
バリー・ゴールドウォーターの話をしよう。もういろんな話で満腹だが、この項目の本題は彼だ。この項目はテンションがおかしい。
ゴールドウォーターは、そのイメージと反して人道主義者の一面があったし、実際に1957年の公民権法や合衆国憲法修正第24条への賛成票を投じている。
修正第24条は、選挙権制限の禁止である。
もっとも、修正第24条は公民権法と連動して「人頭税に代表される人種差別的税制」を引っ剥がす内容だったことで揉めに揉め、ジョン・F・ケネディ大統領時代の1962年8月27日にようやく連邦議会を通過し、リンドン・ジョンソン大統領時代の1964年1月23日にようやく批准の必要数に達した。
バージニア州は1977年、ノースカロライナ州は1989年、アラバマ州は2002年、テキサス州は2009年に批准した。
ミシシッピ州は修正案を拒否し、アリゾナ州、アーカンソー州、ジョージア州、ルイジアナ州、オクラホマ州、サウスカロライナ州、ワイオミング州の計7州は批准しなかった。ディープサウスだけかと思いきや、中西部の州が突然絡んでくるあたり、20世紀中盤以降のアメリカの複雑な事情を感じる。
ゴールドウォーターは、1960年の公民権法の投票を棄権し、1964年の公民権法には「内容には概ね賛成だが、雇用関係での懸念があるために反対する」と、共和党上院議員でも5票しかなかった反対票を投じた、"反対してしまった"1人となった。
当時、「世はまさに"人種差別撤廃時代"」である。
ベトナムでは白人も黒人も泥にまみれて戦っていて、しかもその戦争はベトナムの人々の宿願をすり潰さんとするものだった。アメリカ人が最も大切にする"正義"は日を追うごとに失われ、そのうえ未来では帰還兵の雇用問題やメンタル問題を引き起こした。
ゴールドウォーターの人気は、故郷であるアリゾナ州を含めた西部(特に南西部)、および深南部では確固たるもので、1960年に出版した『保守派の良心(The Conscience of a Conservative)』は全米の保守派の勢いを取り戻させる働きをした。
だからこそ、4年後に大統領候補になったが、「公民権法への反対」「ベトナム戦争での戦術核兵器使用の容認」という2つの行動と発言が、ゴールドウォーターのキャリアに生涯影を落とすことになる。
大統領選挙では地元アリゾナ州とディープサウス5州でしか選挙人を獲得できず、その地元人気によって上院議員として再選し続けたものの、一度貼られたレッテルを剥がすのは容易ではなかった。反労働組合、反共産主義といった政治的ポリシーに接近したことも、支持層の先鋭化を招いた。
著書『保守派の良心』は影響力を保持し続け、1980年のロナルド・レーガン政権の誕生、および宗教右派の台頭につながる。
宗教右派は中絶制限や中絶禁止を現代でも訴え続けているが、ゴールドウォーターは先述のとおりに「合衆国らしさ」を持つ政治家である。宗教右派の叫ぶ強権的なやり方は「個人の自由の侵害である」として中絶の権利を支持し、また同性愛者差別に対しても戦う姿勢を見せた。
晩年の「共和党が"変人どもの集まり(bunch of kooks)"に乗っ取られた」という嘆きが、「"リンカーンの党"が崩壊していく現実」への危機感を表している。
こうした「自由主義者ゴールドウォーター」は1980年代末から特に輝き、1998年の死までに新たなゴールドウォーター像を提示した。残念なことに、それは『Back in the USSA』の1作目『空中(In the Air)』、および2作目『世界を揺るがした10日間(Ten Days That Shook The World)』が発表された1990年以降のことであり、執筆時点からはもっと後だっただろう。
かくのごとく、人は変わる。過去の清算は容易ではないとしても。
リチャード・ニクソン(Richard Milhous Nixon)
【USSA】
バリー・ゴールドウォーターの後継者として、USSAの最高指導者の地位に上り詰めた。史実におけるレオニード・ブレジネフの役目なので、すごい勢いでキスをしてくるだろう。ああ、ニクソン・ショックってそういう……。
【史実】
1913年生まれ、1994年死去。カリフォルニア州オレンジ郡ヨーバリンダの出身。第37代アメリカ合衆国大統領。1953年から1961年まで、ドワイト・アイゼンハワー政権の副大統領を務めていた。
ニクソンを象徴するものは、いろいろある。サイレントマジョリティー。1972年の中華人民共和国訪問。それを導いた当時の国家安全保障問題担当大統領補佐官、のちの国務長官となるヘンリー・キッシンジャーの存在。東西超大国の緊張緩和、ベトナム戦争の継続、南米での親米政権樹立工作、第四次中東戦争への介入と石油危機の誘発、公民権法の実行的なランドマークといえる改訂フィラデルフィア計画の実施、麻薬取締局の設置、そしてウォーターゲート事件と弾劾回避の辞任。
ニクソンの歴史的評価は定まっていないし、歴史家たちも今後どうなるかについて意見が分かれている。どんな皿にでも乗せることが可能だ。シェアード・ワールド怪奇コンテンツ「SCP Foundation」において、SCP-2736は『The Age of Nixon(ニクソン時代)』である。ここでは、ニクソンが2人いる。
ウディ・ガスリー(Woodrow Wilson "Woody" Guthrie)
【USSA】
アメリカ赤軍で活躍していたが、ある時に「退廃音楽」に染まり、ギターを手にした。それは共産主義体制下では許されぬ背信行為であり、彼はただちに捕らえられ、アル・カポネ書記長によって絞首刑に処された。
【史実】
1912年生まれ、1967年死去。オクラホマ州オクフスキー郡オケマー出身。社会主義や反ファシズムをテーマとした楽曲で知られるフォーク歌手。ウッドロウ・ウィルソン・ガスリーという本名は、そのものずばり同年の大統領選挙で当選したウッドロウ・ウィルソンから取られた。
14歳の時に母親が亡くなり、一家はやがて離散。アメリカ各地を一時雇いの労働者として放浪し、時にストライキの手伝いなどをする。各地の共産主義団体との関係を構築したが、特定の団体に所属することはなかった。
全国各地を渡り歩き、貧困層と関わり合ったことで、人生の指針が定まる。1930年代には、アメリカの中西部を中心として無理な耕地化を進めた結果の砂嵐「ダストボウル」が起き、広い範囲の農業が壊滅状態に陥っていた。
これらの体験が、1940年のアルバム『ダストボウル・バラード(Dust Bowl Ballads)』に結実し、さらにはガスリーの代表曲である『我が祖国(This Land Is Your Land)』を世に送り出すのにつながった。一見すると愛国歌に見えるこの表題とは裏腹に、ラジオで頻繁に流れる『神よアメリカを祝福したまえ(God Bless America)』を聞き飽きた末の反骨精神から生まれた。
1940年代後半に入ると、ガスリーの健康は一気に悪化し、精神状態も不安定になる。1952年に、彼はハンチントン病を遺伝的に患っていることが判明した。ハンチントン病は現代でも治療法が見つかっていない難病であり、大脳の神経細胞が変性あるいは脱落し、不随意運動、認知力低下、情動障害、やがて発話不能、抑うつ症状、あらゆる物事への無関心を呼び寄せ、ついには生命活動の不継続をもたらす。
ガスリーもまた、上述の症状を味わった。数千ページもの散文や詩をものす多作のクリエイターだった彼は、もはや極度の感情と社会的脱抑制によって、本来の姿を失った。しかも、当時はハンチントン病のことがまるでわかっていなかったため、精神病院で拘束を伴う緩和ケアを施すしかなかったのである。
ガスリーの最初の妻と息子は、電車事故によって命を奪われた。2人目の妻とのあいだにできた2人の娘は、どちらもハンチントン病を患っていて、まったく同じ41歳の時に亡くなった。1967年、ガスリーは最初の妻との息子より32年、2人の娘に比べて14年長生きした55歳のときに、ハンチントン病の合併症によって亡くなった。つまり、それだけ長く苦しんだとも言える。根っからの反逆者は、生来の病との戦いさえも宿命づけられていた。
「私は、自分がダメなやつだと思わせるような歌が嫌いだ」
「私は、自分が負けるために生まれてきたのではないかと思わせるような歌が嫌いだ」
「私は、最後の血の一滴まで、最後の息ができなくなるまで、こういった歌と戦うつもりだ」
「私は、誰もが自分自身と自分の成すことに誇りを持てるような歌を唄う」
想像を絶する苦しみと運命にもかかわらず、ガスリーはこのような言葉を遺した。
ジョン・フィリップ・スーザ(John Philip Sousa)
【USSA】
史実と同じように、スーザは軍人であり、国家が求める曲を書いた。史実では『勇敢なる第7連隊(The Gallant Seventh)』を書いたが、USSA世界では『第7社会主義航空機隊の英雄的闘争(Heroic Struggle of the Seventh Socialist Air Fleet)』を書いているように。
この作品においては少数派になる例として、スーザの仕事は共産主義体制下でも良いものになったのではないかと思う。行進曲は、どんな体制であっても求められるジャンルだからだ。少なくとも、国家や人類の枠組みが変わらない限りは。
【史実】
1854年生まれ、1932年死去。1912年まで史実どおりに活躍したなら、1896年に名曲『星条旗よ永遠なれ(Stars and Stripes Forever)』も作曲済みだ。よって、共産主義体制下でも「行進曲の王」として、革命精神を高揚させる曲を書き、アメリカ版大粛清を見る前に名誉とともに亡くなったはずである。
史実では、ワシントンD.C.に生まれた。父はポルトガル人の両親を持つスペイン生まれで、大統領直属ワシントン海兵隊楽団のトロンボーン奏者。母はバイエルン王国生まれのドイツ人で、当然に音楽への理解があった。
「聴いたことがあるあの曲」の中には、スーザの作ったものが含まれているかもしれない。それほどに多くの有名曲をつくり、アメリカを中心に演奏されている。
満77歳のとき、地元のバンドのリハーサルを行った直後に急死。小説や自伝も書き、クレー射撃も好み、野球チームではピッチャーも務めた。
だが、何より、スーザは常に音楽とともにあった。ゆりかごから墓場まで、ずっと。
フランク・シナトラ(Francis Albert "Frank" Sinatra)
【USSA】
体制が認めた歌手。史実では『心の青春(Young At Heart)』などのヒット曲を出したが、USSAでは『我が共産主義への熱情(My Socialist Heart)』を歌い、"革命的大衆"を熱狂させていた。
【史実】
1915年生まれ、1998年死去。ニュージャージー州ハドソン郡ホーボーケン出身。全世界推定で1億5000万枚のレコードを売り上げた歌手であり、俳優。イタリア系アメリカ人。そして、イタリア系であるがゆえに、同じイタリア系マフィアとの非常に深い関係が語られた。それでもなお、シナトラはアメリカ合衆国、ひいては世界的にも有数の歌手であると考えられている。
本名はフランシス・アルバート・シナトラだが、フランク・シナトラのほうが圧倒的に有名である。母はイタリア北部のジェノヴァ出身だったが、父はシチリア島パレルモ近郊のレルカーラ・フリッディの出自だった。
ここまで全部読み通してきた奇特な方は気づいたかもしれないが、一度だけ「レルカーラ・フリッディ」の地名はこの記事で登場している。超大物ギャング、ラッキー・ルチアーノの出身地として。
移民は心細い。すでに繁栄している国では、特にそうだ。移民はさまざまな事情で生まれるが、高等人材は一握りである。移民先の文化や習俗、衛生観念や倫理観に染まるとも限らない。
ゆえに、同じ出身地の移民は助け合うし、地域コミュニティを結成する。ただ、それは愚連隊や自警団、時に犯罪組織の誕生につながる。なお言えば、そうした歴史や伝統が起きた場合、たとえ不法行為を伴う組織であろうと、「同胞の和を乱す者は何よりの敵となる」。
"愛国心"よりも"郷土愛"が強いと言われる国、およびそこに属する国民がいる。イタリア人はその代表格のひとつとして語られる。ミラノ、トリノ、ジェノヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ピサ、ローマ、ナポリ、アマルフィ、マテーラ、ブリンディジ、パレルモ、シラクサ。細分化されたコムーネに、それぞれの誇りがある。
10代のころには、シナトラはもうプロの歌手だった。ホーボーケンに留まることなく、さらなる成功を求めてシカゴに行く。彼はどこでも聴衆を熱狂させた。
そして、トラブルが起きそうになったとき、シナトラの後ろ盾となったのはニューヨーク5大マフィアのひとつにして、1931年にこの新秩序をつくりあげたラッキー・ルチアーノ率いるルチアーノ一家の構成員、グアリーノ・"ウィリー"・モレッティだった。
ルチアーノ一家はやがてジェノヴェーゼ一家に再編され、モレッティはそこのアンダーボス(副ボス/若頭)を務めるのだが、すさまじい悪名で語られる凶悪性を持っていた。彼はシナトラがより有利なレコーディング契約に切り替えるのに難渋したとき、契約主の喉元に拳銃を突きつける。
そうして、シナトラは"平和的に"1ドルでこの契約を買い取って自由の身となった。
なお、この逸話はあくまでゴシップ扱いである。シナトラはこの話を否定したし、モレッティに近い記者がそれとなく確かめたところ、「シナトラの面倒はよく見た」とだけ答えたという。不法行為はなかった、いいね?
1951年、モレッティはその凶暴性に加え、梅毒による思考障害によって多弁となり、組織の秘密をバラしてしまうのではないかと心配された。それは、いろいろな意味で危険なライバルを排除するチャンスだった。実際の思考能力のどうこうは、より端的に言えば"真実"は、さほど問題とはならない。故郷のニュージャージー州のレストランでランチをとっているとき、彼は頭部に複数の銃弾を受けて死んだ。
シナトラは「ゴッドファーザー」を失ったが、その頃にはもう「ステイツの誇り」といえる存在になっていた。1946年に発売した最初のアルバムである『The Voice of Frank Sinatra』はビルボード・チャートで1位を獲得し、数字のうえでも不動の人気を証明している。
同年にはキューバのハバナで行われたラッキー・ルチアーノ主催のマフィア会議に招待され、あらゆる重要な決定が行われたこの会議を彩った。
ジョージ・ラフトの項目で紹介したベンジャミン・"バグジー"・シーゲルの"処刑"は、この会議で採択された。皮肉なことに、シナトラはシーゲルがいかに勇気のある男であるかを語り、「崇拝(adored)」していたという当時のゴシップがある。彼が崇拝していた男は、会議から約半年後に死んだ。
こうして、マフィアとの付き合いがゴシップの域を超えて"信憑性を伴う情報"として、表に出てきた。絶頂期の到来は、どん底への転落をも意味する。底で終わるか、這い上がるか。その違いがあるに過ぎない。
1950年から1951年にかけて、シナトラは親友にして有能な広報担当を失い、さらにゴッドファーザーも撃たれた。
ここで、シナトラは決断した。東海岸を離れ、ラスベガスに向かう。当時、ラスベガスは急成長を遂げていた。そこにはマフィアの深い関わりもあり、何より東の流行がただちに西部へ波及するほど、社会や地域は一体化していない時代だった。
ラスベガスで再び人気を取り戻し、近隣のリノのホテルでも歌った。人気が再び下火になりかけたとき、出演した映画『地上より永遠に(From Here to Eternity)』が"当たる"。360万部を売り上げたジェームズ・ジョーンズのヒット小説を原作としたこのタイトルは、シナトラにアカデミー賞助演男優賞の栄光をもたらした。
無数の光と闇が、シナトラを彩る。彼は1998年に多臓器不全で亡くなったが、その前も後も、あらゆる毀誉褒貶が飛び交った。
ジョージ・ラフトの項目で紹介したハリウッド・ウォーク・オブ・フェームには、当然、フランク・シナトラの星もある。ラフトは2分野に渡ってこの星を獲得したが、シナトラはそれを上回る3つを刻んだ。「映画」「音楽」「テレビ」である。
ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)
【USSA】
1本目『空中(In the Air)』における「正義のガンマン」。彼は町の外からやってきた「漂流者(Drifters)」だ。よそ者であるにもかかわらず、暴虐を尽くさんとするカーチス・ルメイやジョセフ・マッカーシーといった悪党どもに、クリーンなやり方で勝つ。
いくつもの名作映画を思い出すといい。西部劇なら『シェーン(Shane)』だし、日本映画なら『七人の侍』という絶対的な存在がある。それはまた西部劇に転化されて『荒野の七人(The Magnificent Seven)』になったし、漫画なら『ブラック・ジャック』や『ゴルゴ13』は広義の「まれびとによる解決譚」だ。「行きて帰りし物語」と同じくらいに鉄板である。
さらに、ヒューズは「アル・カポネ書記長が"スカーフェイス"になった理由である」という風聞まで流れる。実際のところ、史実のカポネの頬の傷はチンピラ時代にしょうもないケンカでつけられたもので、彼はスカーフェイスと呼ばれるのを嫌っていたと伝わる。
となると、ヒューズはいよいよこの世界における英雄なのだ。誰も逆らえない書記長に傷をつけた真偽がどうあれ、そんな噂を背負ってなお生きていて、放浪の旅をしている。英雄の類型である。そして、彼は悪党を打ち倒したあと、何の見返りも求めずにジャック・ケルアックとともに去っていく。それがいかに「ハワード・ヒューズという人間にとっての救済」であるかは、下記の史実欄で判断してほしい。
【史実】
1905年生まれ、1976年死去。テキサス州ヒューストン出身。近現代史でも有数の実業家で大富豪でパイロット。豊富な遺産を受け継ぎ、娯楽産業で成功。大好きな航空産業や航宙産業の拡大や自らの飛行機操縦、女優たちとのロマンス、ウォーターゲート事件関与の噂。エピソードには事欠かない。
しかし、その人生は巨大な悲劇でコーディングされている。
あらゆる輝きをほしいままにしたにもかかわらず、その冒険心あふれる趣味がゆえに、自動車事故や複数回の航空機事故によって深いダメージを負った。
当時の鎮痛薬は、現代よりもタチが悪い。だが、当時はそれが一般的だった。
コデイン。現在ではオピオイドの一種として、処方にも取り扱いにも注意を要する化合物である。もっとも、モルヒネなどよりは一般的で、アセトアミノフェンやイブプロフェンと調合された製剤が一般用医薬品になっていることも多い。
それでも、コデインの源流はアヘン由来の天然化合物だ。取り扱いに気をつけなければならないが、数十年前の製剤技術と処方の考え方は、もちろん現代と同様に計れるわけがない。ヒューズはコデイン中毒に陥り、精神は平衡を失って墜ちていく。
ついには強迫性障害を発症し、大好きだった航空会社さえも売却してしまった。もはや、人間の視線が怖い。ラスベガスのホテルを買収し、最上階のスイートルームに閉じこもる。そこから出ることはできない。出るときは、別のホテルのスイートルームに閉じこもるための移動だ。
強迫性障害は極度の潔癖症を伴い、あらゆるものが除菌されていないと使用できず、手を洗い始めると肌が擦り切れ、血が噴き出してもその行為をやめられなかった。
にもかかわらず、ヒューズは年に1度しか髪を切らず、爪も切らずに放置する。風呂にも入らなかったし、尿をボトルに保管する奇行に走った。複合性局所疼痛症候群のため、何をするにも痛みがあったと考えられた。
彼は崩壊し、底の見えない奈落へと墜落していく。
1976年4月5日、ヒューズは病院へ搬送されることになった。意識はもう途絶している。大好きだった航空機のなかで死を迎えたとき、193cmという大柄な身長に対し、体重はわずか41kgしか残っていなかった。
管財人は1983年までかけてヒューズの遺産を整理し、ようやく彼がどれだけの資産を持っていて、適切に処分可能であるかをまとめあげた。最終的な遺産総額は25億ドル。仮に1976年の価値に直すとすると、2022年時点で132億ドルの価値に膨れ上がる。重ねて、2022年の平均ドル円相場である「1ドル=119.1円」を適用するなら、約1兆5721億円となる。
現代日本の個人資産ランキングでは第5位となるが、インターネットはないし、企業の国際展開の規模もまるで違う。そんな時代性を念頭に置き、しかも中途において完全に引退した人物と考えると、やはり壮絶なものがある。
こうしたエピソードのために、ヒューズは「金があっても幸せとは限らない」典型例として語られることが多い。
同じカテゴリでは、「世界恐慌で本当にニューヨーク市場を完全崩壊させかけた男」こと投機家のジェシー・リバモアも有名だろう。貧しい移民から空売りでのし上がった彼がピストル自殺したとき、愛妻ハリエット(愛称ニーナ)に宛てた遺書にはこう書かれていた。
「親愛なるニーナ。どうしようもない。状況は最悪だ。戦うのに疲れたんだ。これ以上続けることはできない。これが唯一の方法だ。私はきみの愛には値しない。私は失敗した。本当にすまない、だが私にはこれが唯一の方法なんだ。愛している。ローリー」
"My dear Nina: Can't help it. Things have been bad with me. I am tired of fighting. Can't carry on any longer. This is the only way out. I am unworthy of your love. I am a failure. I am truly sorry, but this is the only way out for me. Love Laurie"
ジェシー・リバモア(Jesse Livermore)。彼のミドルネームは「ローリストン(Lauriston)」である。感情だけが乗ったシンプルに過ぎる文章の連続が、胸に刺さる。不眠症とアルコール依存症を伴う重度の抑鬱状態にあったことがわかっているが、21世紀でも対処困難な脳さえ絡む疾患は、1940年の彼を地獄へと引きずり込んだ。
ヒューズは、『Back in the USSA』で救われた。彼は作中で一文無しに近い。家すらない。本文に書かれているとおりに、ジャック・ケルアックともども「漂流者(Drifters)」である。
それでも、ヒューズはバディ・ホリーやジャック・ケルアックとともに大立ち回りを演じ、少女ペギー・スーを救い、英雄ヅラをした悪党どもを懲らしめた。大好きな飛行機に乗って、力の差を示した。史実の彼がどんなに資産を持っていても手に入らなかった、自由な空。それは1冊の本の中にあり、そして人々の記憶をたどって、どこまでも広がっているのだ。
ジャック・ケルアック(Jack Kerouac / Jean-Louis Lebris de Kérouac)
【USSA】
ハワード・ヒューズとともに「漂流者(Drifters)」であり、バディ・ホリーやペギー・スーが住む町へやってきた。そして、カーチス・ルメイたち偽者の英雄を打ち倒す。たとえ銃を向けられようと、卑劣な闇討ちを受けようと、ジャック・ケルアックは正々堂々と戦うのだ。
物語の最終盤。ケルアックがヒューズとともに町を去ったのち、彼が書いた小説が発売されたことがわかる。『地下街の人びと(The Subterraneans)』、『孤独な旅人(The Lonesome Traveller)』……。
だが、USSA世界において、ケルアックは彼の代表作とも言える『路上(On the Road)』を書かなかった。史実の彼は路上から新たな価値観を発信したが、USSA世界はあまりにも絶望にあふれていて、路上に希望は落ちていなかったらしい。さらに言えば、悪党を疑似空中戦で叩きのめした彼は、ゆえにこそ代わりの本を書いたのかもしれない。
そのタイトルは、『空中(In the Air)』。
【史実】
1922年生まれ、1969年死去。マサチューセッツ州ミドルセックス郡ローウェル出身。すでに紹介したベティ・デイヴィスと、まったく同じ街が故郷だ。2020年の推定人口は115,554人である。
本名はジャン=ルイ・ルブリ・ド・ケルアック。フランス系カナダ人の移民家庭の子だった。5歳まではフランス語で育ち、6歳から英語を学んだため、成人前はフランス語なまりが強かったという。
ビート・ジェネレーションの代表的存在であり、それを実践したビートニクの象徴でもある。ビートニクにはアレン・ギンズバーグやウィリアム・バロウズといった「規範から外れまくった」存在がいるが、そのなかでもケルアックは特異な存在になるかもしれない。
何しろ、規範から外れ、ドラッグなどを常用するビートニクが主流派な中で、ケルアックは反戦運動に盛り上がるヒッピーたちと真逆を行く。共産主義が嫌いで、ユダヤ人も嫌い。ベトナム戦争にも賛成した。交友関係はあっても、馴れ合いはしない。それは表舞台から遠ざかることにつながったが、ゆえにこそケルアックが「単なる徒花」で終わらない可能性をも生んだ。
1942年に最初の小説である『海は我が兄弟(The Sea Is My Brother)』を書いたが、出来が悪い失敗作とみなしていたため、ケルアックの死から半世紀弱が経った2011年にようやく商業出版の運びとなった。
1945年にはウィリアム・バロウズと共著で『そしてカバたちはタンクで茹で死に(And the Hippos Were Boiled in Their Tanks)』をものしながら、これも出版は2008年まで待たねばならなかった。
このころにはビート・ジェネレーション、ひいてはケルアックを象徴するハチャメチャな生活を始めており、同性愛傾向を顕著に示し、殺人事件の重要参考人になったこともあった。
ケルアックはさまざまな個性に満ちた小説を書き、ビートニクの代表的存在になっていく。だが、多くの作家がそうした「アウトロー」認定を心地よく思うなかで、ケルアックは物事を単純化するレッテル貼りに抗い続けた。彼は、カウンターカルチャーという枠組みそのものにも否定的だったという。
作家や画家などの一部がそうであるように、ケルアックの名声は死後に急速な高まりを見せた。ビート・ジェネレーションが終わっても、ケルアックの名は残り、作家だけでなくミュージシャンや映画といった芸能関連に幅広い影響を与えた。
『Back in the USSA』でも、ケルアックは気に入らない悪党を倒した。それから小説を書いて、死んだという話が流れてくる。ヒューズは別の世界で自由になったように、ケルアックは自分を無条件に崇め、一方で理想的な振る舞いをしないと勝手に非難してくるヒッピーたちから解放された。
そして、それを「良かったね」と思う筆者のごとき感想にすら砂をかけ、荒野の向こうに消えていくのだ。ケルアックはいつまでも「漂流者」である。
ジョセフ・マッカーシー(Joseph Raymond "Joe" McCarthy)
【USSA】
ジョセフ・レイモンド・“ジョー”・マッカーシーは、この世界で少し名声をプラスしている。すなわち、「ジョセフ・レイモンド・“ボンバー・ジョー”・マッカーシー」だ。彼は敵対する日本人を片っ端から爆撃で燃やした、USSAの英雄である。
もちろん、世界的に見た評価は、時代を追うごとにぐるりと反転するだろう。
史実のハンス=ウルリッヒ・ルーデルが、歴史好きやミリタリー好きにとって過度の神格化さえ呼ぶ理由は、すなわち彼がソ連赤軍相手に信じがたい戦果を残し、さらにはその一部を戦友に分け与えていたエピソードに由来する。しかも、敵地に墜落し、ロシア語がしゃべれないにもかかわらず老夫婦と交流し、しっかりベッドで休ませてもらって餞別までもらったというホンマかいなレベルの逸話まである。
もし、アインザッツグルッペンのように「ユダヤ人やスラヴ人に代表される劣等人種の掃討任務」でスコアを計上していたら、その名はどんな手を使ってでも貶められただろう。
USSA世界のマッカーシーは、それをやったし、誇りにしていた。彼は日本本土への「マッカーシー爆撃」の立役者であると宣伝されていて、宣伝隊の一員として、自信に満ちた演説を行う。
「我が祖国は、反革命、資本主義勢力に拠る政権転覆の陰謀、外国の第五列主義者、そして道徳的退廃によって、ひざまいてすすり泣くことになる危険に晒されている」
B-25に乗って日本を空襲したときのように、容赦ない語句が次々に飛び出す。にもかかわらず、それらはお膳立てをした本当に優秀な飛行機乗りたちの戦果を奪ったものであるとヒューズに暴露され、激昂してペギー・スーを銃殺しかけたことで、英雄としてのキャリアは終わりを告げた。
マッカーシーは、「アラスカでの石油採掘」という"誇りある任務"に従事することになった。さまざまな勲章は没収されたかもしれないが、看守の暴行や厳しい気候、1日14時間とも16時間とも言われる労働に耐えられれば、あるいは名誉回復の機会が訪れるかもしれない。
【史実】
1908年生まれ、1957年死去。ウィスコンシン州アウタガミ郡グランドシュート出身。マッカーシーの史実を語るのに、多くの言葉はいらない。ウィスコンシン州の共和党上院議員。マッカーシズム。赤狩り。増長。失脚。
1942年、マッカーシーは兵役免除対象者であったにもかかわらず、中尉として海兵隊に入隊した。それからソロモン諸島やブーゲンビル島で情報報告官を務める。また、銃手兼監視員として戦闘任務にも参加した。すでに制空権を確保している地域で、"思う存分ヤシの木を撃つ楽しみ"を得たことで、影では「テールガンナー・ジョー(Tail-Gunner Joe)」というあだ名で呼ばれるようになった。
また、マッカーシーは勲章の受勲基準に到達するため、虚偽の出撃回数を申告。海兵隊上層部は政治的影響力を無視できず、1952年に殊勲飛行十字章を与えた。
マッカーシーは有名な赤狩り悪罵から小さな罵倒まで、あらゆるものを攻撃した。だが、アメリカ陸軍まで攻撃したとき、それは彼のキャリアを終わらせることになる。
そのうえ、ワイオミング州の知事から同州選出の上院議員になった、民主党のレスター・キャラウェイ・ハント・シニアを継続的に脅迫したのは、悪党マッカーシーとしてのイメージを確固たるものにした。ハントがついに自殺を決行した時、「マッカーシー」の名は多くの有権者が唾棄すべき悪の象徴となったのだ。
ハントは民主党員だったが、共和党のアイゼンハワー大統領のリーダーシップを称えていたし、実際に農業補助金、社会保障拡充、公正雇用慣行委員会設置、コロンビア特別区における人種差別廃止計画といった政策には、完全な賛成を表明していた。
かくも清廉なハントが死を決意するような脅迫を受けたのは、彼がマッカーシーとその追随者に対して反対の立場を鮮明にしたからに他ならない。
ハントへの脅迫内容は、マサチューセッツ州ケンブリッジの聖公会神学校で生徒会長まで務める息子が、同性である男のおとり捜査官をセックスに誘ったという不祥事である。
当時、同性愛は法律で禁止されていた。
神学校の優良生徒、上院議員の息子。そんな模範的な「善き人」が、不法で不埒で冒涜的な人間であった事実を嘲り、そうした人間を育てた父親を糾弾したのである。マッカーシーらしく、のちに「きみには品性がないのか」と対決した人間から呆れられる口調で。
ハントは立候補を断念するように脅迫され、悪罵され、ついに22口径のライフルで自分の命を消し飛ばした。その前日も、マッカーシーは「某上院議員氏」を「不正行為」で非難したばかりだった。
ハントの息子は、悔いた。己を恥じた。シカゴのカトリック系慈善団体のスタッフとなり、さらに地域財団にも奉職し、同僚と共同で複数の論文を書いた。
息子はハントと同じレスターの名前を持っていて、すなわち「レスター・キャラウェイ・ハント・ジュニア」である。だが、彼は概ね愛称で呼ばれていた。それは「バディ」である。今回の物語の主役バディ・ホリーと一字一句が同じ、"Buddy"なのである。
マッカーシーは結果として共産主義国家で見るような「失脚」に陥り、48歳の時に急性肝炎でこの世を去った。
今なおその業績は負のものとして語られるが、ある種で肯定をもたらす現実がある。マッカーシーは行き過ぎなくらいに共産主義とその国家による恐怖と脅威を宣伝したが、ソ連暗号解読プロジェクトだったベノナが機密指定を外れて情報公開の対象となったとき、そこには学者たちが驚く事実が記載されていた。ソ連やアメリカ国内の共産主義者たちは、マッカーシーが主張した以上の規模のスパイ網を作り上げていたのだ。
だが、マッカーシーの主張は「一部」が正しいと認定されただけで、やはりでっちあげや思い込みでの攻撃も多数あった。結果として、彼は史実で失脚し、共産主義世界でも失脚する役目となったのである。
チャールズ・リンドバーグ(Charles Augustus Lindbergh)
【USSA】
チャールズ・リンドバーグは60機撃墜の記録を残し、USSAの偉大なエースとなった。宣伝隊のなかでも特殊な存在で、「孤独な鷲(The Lone Eagle)」と呼ばれているほどだ。ほかの面々と違って、間違いないスコアを持っていることも、それを支えているだろう。
だが、リンドバーグもまた、たとえ英雄であろうと失脚するUSSAの恐怖を知っている。それに、彼は軍人であり、宣伝隊の隊長であるカーチス・ルメイの意向には従わなければならない。
リンドバーグは空での決闘を前に、陸上でケルアックを闇討ちする暴挙に出た。一方、バディ・ホリーやペギー・スーからそうした行動を批判された時、それ以上は無体を働くことなく去っていく。最後は醜態をさらすカーチス・ルメイとジョセフ・マッカーシーを見限り、彼らの蛮行を当局に通知した。
【史実】
1902年生まれ、1974年死去。相棒「スピリット・オブ・セントルイス」とともにニューヨーク・パリ間を飛行し、史上初の「大西洋単独無着陸飛行」を達成した。1927年のリンドバーグに続き、5年後の1932年には、やはりアメリカのアメリア・イアハートが女性飛行士として初めての大西洋単独無着陸飛行に成功している。
しかしながら、リンドバーグとイアハートは、後世からの評価におけ分かれ道を迎えた。イアハートは1937年に赤道上世界一周飛行に挑戦し、そのまま消息を絶つ。残念ながら、彼女は死亡宣告を受け、帰らぬ人となった。このあたりは、作家サン=テグジュペリの最期にも似て、儚さの向こうに神秘性すら感じさせる。
イアハートはパイロットのままで亡くなったが、リンドバーグは長生きした。彼は英雄であり、政治力さえも身に着けた。ミシガン州デトロイト出身で共和党下院議員チャールズ・オーガスト・リンドバーグの息子であったことは、「地上にいる時のリンドバーグ」の価値を高めた。
結果として、複雑な状況に巻き込まれた。リンドバーグは、ナチズムの信奉者であり、米国の大義ある戦争を信じない人間であり、反ユダヤ主義者であるという風評である。それは、彼が1974年にリンパ腫で亡くなって以降も、決して消えぬ灯火となっている。
実際、リンドバーグは人間に絶望したかもしれない。1932年、彼と同じ名前を持つ長男が誘拐され、身代金を支払ったにもかかわらず、2ヶ月後に遺体となって発見された。
それから2年後に、ドイツ系移民の大工であるリチャード・ハウプトマンが逮捕される。彼は受け取った身代金でガソリン代を支払ったことで、逮捕につながった。誘拐、殺人、恐喝。有罪判決を受け、1936年には電気椅子で死刑が執行された。
リンドバーグは繊細な人間で、プライベートに土足で踏み入られるのを何よりも嫌った。だが、長男は誘拐の末に殺害され、世間は好奇の目で彼を見て、とうとうたまらなくなって家族とともに欧州へと脱出した。
やがて、ドイツに招かれ、彼は過度に中立的でありすぎる思想に落ち着いてしまった。それはすなわち「ナチス・ドイツはそんなに脅威となる存在ではない」という言説となり、WW2が始まって以降は「アメリカ合衆国は戦争に関わるべきではない」という発言になり、結果として「ナチズムの信奉者」という評価に帰着することになる。
パリが見えた時の「翼よ、あれがパリの灯だ!」という言葉が、後世の脚色だとわかってしまったことも、リンドバーグが夢を託すに足る英雄でないことを証明してしまった。日本軍の"蛮行"を人種差別的な論調で書き残し、未来においてさらに尊敬に足る存在ではない記録となる。
人工心臓開発への貢献。航空技術への寄与。自然環境の保護活動。慈善家としての一面。ナチスの強制収容所の視察と怒りの表明。それらはパリの灯よりも目立たない。
後世の評価も様々だが、伝記作家による「自分の信念に非常に頑固であり、政治的駆け引きにおいても比較的に経験が浅い人物であった」という評価が、ある程度はしっくりきそうである。
ミッチ・"デューク"・モリソン(Mitch "Duke" Morrison / John Wayne)
【USSA】
ミッチ・"デューク"・モリソン将軍は、ノルマンディー上陸と硫黄島上陸の両方を成功させた英雄的アメリカ人だった。中国戦線のフライングタイガースでも、カーチスP-40"ウォーホーク"を乗り回していた。
アメリカ社会主義合衆国連邦が誇るタフガイ。それこそ、モリソン将軍なのである。
という、ジョン・ウェインが銀幕で与えた印象そのままに、マジモンの軍人をやっている。だが、現実のジョン・ウェインはアメリカンドリームとアメリカンジャスティスの象徴的存在だったが、USSAのモリソンは194cmの肉体を活用しきれずに"おたおたして"、結局はリンドバーグやハバードに同調し、ルメイとマッカーシーを告発することにした。
物語の終盤になって、モリソンはようやく「せめて少しでもスカッさせてくれる」存在になったと言える。もっともそれ以上に「かつて少年の日に見た偶像」の側面が、皮肉のもとで晒されている感はある。何しろ、彼の軍歴は「資本主義国家の退廃映画の大スターのように」お膳立てされたものだった。
この世界での名前は、史実での本名のマリオン・ロバート・モリソンとはちょいと違う。デューク(公爵)は史実でもそういうニックネームがあったが、ミッチはどこから来たものか。大作映画『史上最大の作戦(The Longest Day)』で、ポール・アンカがつくった歌をマーチ風に編曲して堂々と歌い上げた「ミッチ・ミラー(Mitch Miller)」から来たのかもしれないし、南北戦争にも従軍した退役軍人である祖父「マリオン・ミッチェル・モリソン(Marion Mitchell Morrison)」から来たのかもしれない。
モリソンは偶像だった。だが、彼は偶像として守るべき立場も、振る舞いもわきまえていた。そこがルメイやマッカーシーと違い、最後の一線を守ったと言える。あるいは、モリソンはUSSA世界ですら「党という監督が求める役割を演じ続けていた」のかもしれない。
【史実】
1907年生まれ、1979年死去。アイオワ州マディソン郡ウィンターセット出身。高校卒業後は地名の「アナポリス」で呼ばれる海軍兵学校に出願するも、入学できなかった。
スコットランド、スコッチ・アイリッシュ、イングランド、アイルランドといった、欧州でも有名な2つの島の、複数の文化グループにルーツを持っていた。194cmという長身は、そうした血筋ゆえにできあがりやすい素地があったのかもしれない。
若いころにジョン・フォード監督と知り合い、固い友情を結んだ。これがウェインの人生を劇的に変えるとともに、そのキャリアを支えることとなる。
ウェインのキャリアは低予算西部劇映画に始まったし、それは「低予算」が取れてからも続いた。なんといっても、盟友ジョン・フォードがメガホンをとった『駅馬車(Stagecoach)』は、「スター俳優ジョン・ウェイン」への階段を用意した。
騎兵隊三部作『アパッチ砦(Fort Apache)』、『黄色いリボン(She Wore a Yellow Ribbon)』、『リオ・グランデの砦(Rio Grande)』も名高い。
いずれもアメリカの騎兵隊をモデルにし、アパッチ砦は「カスター将軍の第7騎兵隊の全滅」を、黄色いリボンは「シャイアン族やアラパホ族との戦い」を、リオ・グランデの砦では「アパッチ族との戦い」を描いた。
西部劇はヒーローの象徴であり、ウェインの死後に「悪しき白人の伝統」へとすり替わっていった。前回の『Southern Victory』で紹介したジョージ・アームストロング・カスターの評価が時代によって真逆にすっ飛んでいったように、ウェインもまた「アメリカ人の独善の典型を演じた俳優」とさえ言われるようになっていった。
皮肉なことに、ジョン・フォード監督は映画をつくるうえで、実際にナバホ族などの土地で許可を取り、彼らをエキストラに雇用することもあった。「白人を殺戮するインディアン」というステレオタイプだけでなく、さまざまな人間像を描いて、そのうえで俳優たちへの厳しい演技基準を課した。相手がジョン・ウェインだろうと、ヘンリー・フォンダだろうと。
ウェインは"デューク"である。キャリアの黄金期以降はスタッフロールでも特別扱いで、その事実を揶揄されたこともあった。いつも同じような役柄ばかりで、演技の幅がないとも言われた。
何より、世界の未来を決める第二次世界大戦の時期に、兵役免除の対象に"なってしまった"のみならず、兵役への参加の試みはことごとく失敗した。盟友フォードは、歴史を変える「史上最大の作戦」、オーバーロード作戦の成否を握る"D-Day"のとき、実際にノルマンディーにいたというのに。
そうして、ウェインは「本物の英雄」にして「本物の愛国者」になりそこねたことを生涯悔やんだし、生前も死後も揶揄されることになった。「ジョン・ウェインは安全な場所で映画に出ていただけ」という風評が、彼をより"愛国的"な人間に育てた。
1948年にはトマス・E・デューイを支持しながら、結局はハリー・S・トルーマンを称賛する。「ジョセフ・マッカーシーの支持者」にも数えられた。晩年には共和党保守派の代表格となり、反共主義の旗印になった。
友人で俳優仲間のロナルド・レーガンの知事選挙を応援し、やはり友人だったリチャード・ニクソンの中国訪問に反対を表明した。「あのユダヤ人、キッシンジャー(that Jew, Kissinger)」と文書に残したことは、完全に汚点と言えるだろう。ヘンリー・キッシンジャーはユダヤ系ドイツ人の出自だった。
1973年のアカデミー賞は、あらゆる問題を象徴している。
『ゴッドファーザー』に出演したマーロン・ブランドが、その卓抜した演技と存在感を称賛され、栄えあるアカデミー主演男優賞にノミネートされることが決まった。
だが、マーロン・ブランドはそれを辞退する。彼は公民権運動やネイティブ・アメリカンの権利保護に熱心な社会運動家でもあり、その意見を表明する使命に沿って、代理人のサチーン・クルス・リトルフェザーに攻撃的なスピーチの代読を頼んだ。彼女はアパッチ族およびヤキ族の血を引く父と白人の母を持つ、2つの歴史の架け橋となれる俳優兼公民権運動家だ。
「今日の映画業界におけるアメリカン・インディアンの扱い、そして最近起きたウーンデット・ニーの占拠事件」に関する反対意見は、ただちに映画芸術科学アカデミーによる「"反逆者リトルフェザー"の、2022年8月までの半世紀に渡る映画界および芸能界からの追放処分」という結末を生んだ。
リトルフェザーが壇上でのスピーチを行えず、それでも報道陣に向けて堂々たる抗議を表明した時節、ジョン・ウェインは「スクリーン上におけるアメリカ先住民の連続虐殺者にして、スクリーン外での白人至上主義者」と攻撃されていたし、実際にその傾向の証拠が残っている。
良くも悪くも、彼は「1900年代初めに生まれた典型的アメリカ人」であり、ひとつの主張の象徴だったのだ。
その主張がもう少しアプローチを変えれば、穏当で、福澤諭吉が抱いたような理念に近づいたかもしれない。すなわち、「学問をしろ」である。
ウェインは、1971年の雑誌『プレイボーイ(Playboy)』のインタビューで以下のように答えている。
「私たちは突然ひざまずき、すべてを黒人のリーダーシップに委ねることはできない。私は、黒人が責任ある教育を受けるまでは、白人至上主義(white supremacy)を信じている」
「この偉大な国をインディアンから奪ったことに関し、私たちが間違ったことをしたとは思わない。彼らからこの国を盗んだと呼ばれる行動は、生き残るための行動だった。新しい土地を必要とする人々が大勢いたにもかかわらず、インディアンは利己的にその土地を自分たちだけのものにしていた」
基本的に、ネイティブ・アメリカンは大多数の部族において、私有財産の概念がない。土地に関しては、もっとだ。それらはみなのものであり、「未来(の子孫)からの借り物」であった。
だから、ウェインの発想は完全に「伝統的な白人の考え方」だった。
だが、それは1970年代という人種問題と人権問題の衝突が起きた時代、ましてすでに70年以上を生きてきた「公爵閣下」に理解を得られる説得として提供するには、多大すぎる困難があっただろう。
言い方は重要だ。言う人の属性も影響する。もし、東海岸の裕福な家に生まれた模範的アメリカ合衆国の白色人種が、「大東亜戦争が自存自衛の戦争だなんて、ちゃんちゃらおかしい」「パールハーバーを忘れたのか。まだまだ文明化が足りないみたいだな」などと、頭ごなしに日本人留学生に言葉を投げかけたとしたら、どうだろう。
ちなみに、上記の発言例はあくまで例だが、当地の留学生が実際に言われたという虚実不明な体験談から引いた。「そんなことだから、異形進化したマオイズムや、謎の東洋文化礼賛の加速主義にハマるんだぞ」と言い返したくもなるが、ソースが怪しい情報に踊らされて、わざわざ同じ土俵に乗ることはないのである。
これは歴史の課題であり、明解な解決が困難な難題であり、ゆえにこそ継続して検討すべき命題である。ウェインはその一方に立った。だが、できれば真ん中に立って、どちらも見るのがいい。歴史はそう教えているし、その歴史を皮肉と哀惜でつづった『Back in the USSA』はそう語りかけてくるかのようだ。
もっとも、感想は1人1人のものなので、こうした主観まみれの数パラグラフは放っておいて、自分の考えを貫いてほしいとも思う。それが多様性の本質なのだから。
ひとつだけ、付け加えよう。このインタビューでは、ウェインは別の話題にも答えている。すなわち、どうやったら抜け出せるかわからない状況になっていたベトナム戦争と、それに伴って起きていた反戦活動や、ヒッピーたちのカルチャーについて尋ねられたのだ。
NHKのドキュメンタリー『映像の世紀』でも描かれたように、そのころには「ブルーカラーの反撃」が始まっていた。「大学のお坊ちゃんが優雅かつ安全に反戦活動ごっこをやっているときに、本物の犠牲者たちはベトナムで次々に死んでいる」と言われた状況が、アメリカ社会と世代間の対立を生んでいた。
「私は知りたい。なぜ、高学歴のバカどもが、世の中が何もかも自分たちの生活のためにあると思いこんでいて、不平不満ばかり並べたてるやつらに謝り続けるのかを」
「私は知りたい。そいつらが警官の顔に唾を吐き、いざとなれば司法に逃げ込んで、お涙頂戴の卑怯な言い訳をするのかを」
「私には理解できない。どうして犯罪者の命を救うためにプラカードを掲げながら、罪なき犠牲者にまるで無関心な人々がいるのか」
それは、ニクソンが求めた「サイレント・マジョリティ(Silent Majority/静かなる多数派)」の叫びのようですらあった。この意味において、ジョン・ウェインは最後まで「多数派の代弁者」であったのかもしれない。
ベトナム戦争での米軍の死者は、6万人弱。南ベトナム軍はその倍以上となる16万人。戦傷者ともなると、約75万人という推計がある。しかも、それは精神的な傷まで含んでおらず、遠く離れたアメリカの長い長い分断の種さえも残した。
そのうえで、北ベトナム軍は100万人近くが死に、それ以上の数が傷ついた。軍人も民間人もなくナパームで焼かれ、枯葉剤で動物も植物も破壊され、果たしてどれほどの死が降り注いだかわからない。ベトナムは、激甚といえる人命の喪失と苦闘の連続を経て、ついに独立を達成した。
2023年9月11日。アメリカ東海岸時間での9月10日。バイデン大統領は就任後初めてベトナム社会主義共和国を訪れ、グエン・フー・チョン共産党書記長と会談し、今まで以上の外交関係の構築を宣言した。
1975年のサイゴン陥落から48年が経ち、「ベトナム戦争の戦後」が終わろうとしている。
それは反共主義の象徴だったジョン・ウェインが思いもしなかった展開だろうが、この関係改善の背後にあるのは「21世紀の共産主義超大国」に対する"国益を考えた結果"であることも、また事実である。
L・ラファイエット・ハバード(L. Ron Hubbard)
【USSA】
L・ラファイエット・ハバードは大戦の英雄だ。爆撃機を駆り、日本の潜水艦を次々に沈めた。しかも、日本本土に乗り込んで、にっくき東條英機首相を発見。素手での一騎打ちに持ち込み、サイエントロジー・パンチでトージョーをノックアウトしたんだ!
というのは、ナンボなんでも筆者のお遊び解釈である。作中で示されているのは、「日本軍の潜水艦を爆撃か雷撃で次々に沈めた」「日本本土に着陸して、東條英機首相と素手での一騎打ちを行い、これに勝利した」というものだ。そして、これらはすべてUSSA当局によるでっちあげで、大嘘であることがバレる。というか、ハワード・ヒューズがバラす。
実際のところ、ハバードは単なる地上職員だった。潜水艦を沈めるどころか、飛行機に乗ってすらいない。
現実の地上職員は誇り高い職業だが、自分の軍歴や戦果を偽り始めたら、それはもう取り返しの付かない「堕落した人格」の証明になる。先に紹介したマッカーシーがそうだったように。
なお、この世界のハバードは、今のところ宗教団体、あるいは親睦団体やサークルとしてのサイエントロジーを創設していない。共産主義政権下では、さすがにそれは叶わないようである。
ハバードは、最後の場面で生き延びるのに最適な選択をした。それまでルメイやマッカーシーに阿諛追従していたところ、彼ら2人を反逆者として売り渡し、リンドバーグやモリソンにつくことにしたのだ。
これが功を奏し、ハバードはアラスカ送りを免れた旨の記載がなされている。
【史実】
1911年生まれ、1986年死去。ネブラスカ州のアンテロープ郡とマディソン郡にまたがるティルデンの出身。Wikipediaは「アメリカ合衆国の作家、哲学者、宗教家、教育家」と紹介する。
「カルト宗教の教祖」でよかろうもん。
筆者はここまで、こんな記事の有様にもかかわらず、一応は公平な見方を堅持してきた。マッカーシーはだいぶマイナスの見方をした覚えがあるので、かなり説得力はないが、それでも公平に見るのは大切だと考えてきた。
だが、筆者はサイエントロジーが苦手だ。この宗教、この思想が好きな方もいるだろう。申し訳ない。"私"はサイエントロジーが苦手だ。このために、名優に分類され、ゆえにサイエントロジーの「超優秀な広告塔」になっているトム・クルーズも苦手だ。本当に申し訳ない。
あえて、「私」を使う。完全な主観である。先に紹介した「ハンター・S・トンプソン」のゴンゾ・ジャーナリズムのように。私自身は、特に宗教関連で嫌な思いをしたことはない。仏教の浄土真宗が人生の基本で、母方にはルター派のキリスト教徒もいる。父方をたどれば、カトリックのキリスト教徒もいたそうだ。
本来の精神には反するが、コーラン(クルアーン)も和訳で触れた。荘子を好むが、この思想は道教の根幹を成していると考えられる。儒学、ひいては儒教は退屈だが、学ぶことも多い。
ああ、言い換えよう。私はカルトが苦手だ。テロまで起こしたなら、もはやそれは嫌悪であり、憎悪である。
サイエントロジーは1950年に生まれた。人間は不滅の霊的存在「セイタン」であり、無数の過去世を持っているとする。7000万年前、宇宙の邪悪な帝王である地球外生命体「ジヌー」が何十億もの遠征軍とともにやってきて、熱核兵器で当時の文明を破壊した。人間は彼らと戦う必要がある。それがサイエントロジーの教える歴史である。
[参考資料1]
サイエントロジーのエリート組織にいた男性が語る「好待遇の日々」と「目が覚めた瞬間」
https://courrier.jp/news/archives/321488/
[参考資料2]
サイエントロジーの脱会者「第2世代」に密着 カルト集団で生まれ育った苦悩を語る
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/31319?n=2&e=31405
[参考資料3]
トム・クルーズ、サイエントロジーとの関係に変化? “距離を置き始めた可能性”報じられる
https://www.moviecollection.jp/news/206053/
[サイエントロジー・日本公式]
サイエントロジー東京
https://www.scientology-tokyo.org/
公平ではいられない。良くないことだ。上記に批判的論調の参考資料と、日本語版のサイエントロジーのウェブサイトURLを貼る。あとは個々の判断にお任せしたい。
宗教的熱狂は人間を突き動かす。「Passion(情熱)」は古フランス語における「キリストの十字架上の苦しみ」に由来するという。
概して、私は概ね無神論的な立場を表明しつつ、東方ProjectやSCP財団コンテンツへの興味、さらに宗教的歌曲への嗜好、クルト・ゲーデルの信仰に基づく知性と苦悩に関心を持つ。科学は宗教に支えられたし、宗教は科学があって平衡を得た。私はその歴史を評価する。
そのうえで、サイエントロジーは苦手だ。きっと、これは科学にも宗教にも見えないからだ。これは私が至らない可能性がある。だから、ただ少しばかりの結びをもって終わりとする。
ハバードは情緒不安定な性質を持っていて、精神的な疾患を患っていた可能性が高いと考えられている。晩年にはサイエントロジーの事業から手を引いたと公言しつつも、そこから得られる収益の恩恵を受けていたために、彼の精神は致命的な破綻を免れた。1982年には雑誌『Forbes』が、「少なくとも2億ドルがハバードの名前で集められた」と推定している。
サイエントロジーの信者数は、教団の公称で800万人以上、外部機関の推計で4万人を下回る。
カーチス・ルメイ(Curtis Emerson LeMay)
【USSA】
大戦の英雄をまとめあげる、宣伝隊のリーダー。大戦においては当初昼間の精密爆撃を提唱していたものの、戦中に無差別爆撃派へ転向。これが効果的だったことで、アル・カポネ書記長はルメイ将軍に銀メッキが施された「ワイルド・ウエスト・スタイル」のリボルバーを与えた。ルメイはそれを誇りにし、あらゆる場面で身につけていたという。
それって、カポネ×ルメイのカップリング……ってコト!?
だが、ルメイはこんな不名誉なあだ名を付けられていたという。
「石器時代のカーペット」
ざらざらしていて、頑迷固陋で、怒りっぽい。えらく似たあだ名のフィクションのキャラクターとして、『銀河英雄伝説』のダリウス・フォン・オフレッサー上級大将を思い出す。こちらは「石器時代の勇者」と嘲弄されていた。より正確には、「奴は勇者だ。ただし、石器時代のな」という皮肉まじりの台詞が元となっている。
ルメイは勇者どころか、無機物に例えられた。それは史実に強く由来し、史実欄にて触れる。彼はこの物語における「悪党の親玉」であり、水戸黄門に平伏する悪代官の役目である。マッカーシーとともに、アラスカで石油採掘の任につくことになった。
ところで、マッカーシーの項目で触れなかったが、興味深い史実の歴史がある。もちろん、USSAにおいてはその時期に誤差が生じている前提で考えてもらいたい。
今回、『空中(In the Air)』はバディ・ホリーの若いころの回想がメインの流れである。つまり、1940年代末期から1950年代だ。大戦で功績をあげた宣伝隊が各地を回っていることからも、戦争の名残がまだ残存している時節であることが窺える。
さて、ここに恐ろしい事実がある。史実において、アラスカ州では19世紀末の金鉱発見に続き、石油までもが見つかった。一時は水爆実験さえも計画された「保冷庫」は、いよいよ商業的価値を持ったのだ。
しかしながら、本来、アラスカ北部のプルドーベイ(Prudhoe Bay)で石油埋蔵の事実が発覚したのは、1968年のことだ。同地で本格的な石油探査が始まったのも、1960年代になってからである。
だとすると、ルメイやマッカーシーは「見つかってもいない極寒の大地での石油採掘任務」につけられたことになる。そもそも、石油が本当にあるかどうかもわからない時期に。それは「シベリアで木を数える仕事」や「シベリアで穴を掘っては埋める仕事」のパロディとして、何より「無意味な重労働」という皮肉さえも込めて与えられる、"共産主義政権における神罰"なのだろう。
【史実】
1906年生まれ、1990年死去。オハイオ州コロンバス出身。アメリカ合衆国にとっては欧州における航空優勢の確保に貢献するとともに、大日本帝国を相手どる太平洋戦争を勝利に導いた……それも日本本土での決戦になだれ込むことなく無条件降伏に追い込んだヒーローの1人だ。のちに第5代アメリカ空軍参謀総長も務め、ベトナム戦争での北爆キャンペーンも推進した。
さて、こうした「WW2の英雄だったけど、ベトナムではちょっとかわいそうなことをしたよね」というルメイ像は、日本人にとっては受け入れがたいかもしれない。前項に続いて我を出すと、筆者はかなりしんどさを覚える。
だが、軍人として信頼される気質を、ルメイは備えていた。彼は部下の苦しみを拾い上げ、自ら好戦的かつ残忍な姿勢を示すことで、民間人をも巻き込む銃撃や爆撃への抵抗感を減らした。交戦国にとってはたまったものではないが、味方にすれば「故郷や祖国愛を守る最善の方法を、自分が泥をかぶる形で示してくれる指揮官」である。
フランス革命戦争からナポレオン戦争の中期までに活躍したジャン・ランヌは、間違いなく勇者だった。彼はよく先頭に立って戦い、ゆえに朋友ナポレオンの没落を見ぬうちに戦死した。
ルメイは死ななかった。自ら爆撃を主導し、USSA世界でそうだったように、高度精密爆撃よりも「絨毯爆撃(Carpet Bombing/カーペットボム)」のほうが戦略的に有効であることを証明した。彼があちらの世界で「カーペット」呼ばわりされたのは、十中八九この理論の影響だろう。カーペット的属性は、あとからついてきたのだ。
この絨毯爆撃に代表される無差別爆撃は、ハーグ陸戦条約付属書の軍事目標主義に違反しているという指摘がある。一方で、そこに守備のための軍隊が駐留している場合、無差別爆撃は国際法においても問題ないと認められている。
そのうえでなお、ドイツのドレスデンは悲劇の象徴となったし、それ以上の空襲が日本全土に向けて行われた。昼間精密爆撃を捨て、夜間焼夷爆撃に切り替えたルメイの戦略は、ゆえにこそ有効かつ極悪と評価されるものになった。
その代表格が1945年3月10日の「東京大空襲」、米空軍の呼ぶところの「ミーティングハウス作戦(Operation Meetinghouse / Meetinghouse 2)」である。12万人近い死者を出し、300万人を超える被災者が出たとされるこの爆撃とともに、B-29による各地の空襲、加えて広島と長崎の原爆投下にも責任を負った。
東京大空襲、ミーティングハウス作戦について、ルメイはこう語っている。
「アメリカはついにハエを叩くのをやめて、肥溜めを狙うようになった」
"the US had finally stopped swatting at flies and gone after the manure pile"
戦時とはいえ、ろくな発言ではない。複数のエピソードからも、軍人としての使命感以上に、人種主義が透けて見える。狂気の時代がそれを求めたとはいえ、限度はある。
ルメイの戦略はF・ルーズベルト大統領とハリー・S・トルーマン大統領に支持され、しかし未来においてはジョン・F・ケネディ大統領とリンドン・B・ジョンソン大統領に支持されなかった。
1968年アメリカ合衆国大統領選挙で、アメリカ独立党のジョージ・ウォレスを支持し、副大統領候補にもなった。ウォレスは当時から、現代ではさらに大きく、「偏狭な人種差別主義者」という評価を得ている。
1964年12月7日。アメリカの基準に合わせれば、真珠湾攻撃追悼記念日(National Pearl Harbor Remembrance Day / 1994年制定)。カーチス・ルメイは勲一等旭日大綬章を授与された。日本国航空自衛隊の育成への貢献を称えてのものである。
貢献は確かに無視できない。一度すっかり灰になったあと、アメリカは民主主義や資本主義の防波堤を求めたし、日本も防衛力なくして生き残れない世界情勢のただなかに進みつつあった。
時は第1次佐藤栄作内閣のころ。推薦は、小泉純也防衛庁長官と椎名悦三郎外務大臣の連名だった。小泉長官の長男は、小泉純一郎内閣総理大臣(第87・88・89代)である。彼は当時も批判を受けたため、以下のような説明を行った。
「功績と戦時の事情は別個に考えるもの。防衛庁の調査によれば、当時ルメイは原爆投下の直接部隊の責任者ではなく、サミュエル・モリソンによれば原爆投下はトルーマン大統領が直接指揮したものである」
勲一等の授与は、時の今上天皇が直接手渡す「親授」を通例としている。しかし、昭和天皇はこれを行わなかった。
USSA世界における「石器時代のカーペット」につながる、北ベトナムに対して取るべき行動を示した発言の記録がある。あらゆる所業への評価と功績と傷跡が、数十年経ってなお消えぬ烈火となって、世界各地で燃え盛っている。
「彼らが角を引っ込めて侵略を止めないのであれば、我々は彼らを爆撃して石器時代に押し戻してやる。それは地上部隊によってではなく、空軍力か海軍力によって行われるのだ」
ペギー・スー(Peggy Sue)
【USSA】
『空中(In the Air)』におけるヒロイン。ホリーがひとときの淡い恋心を抱いた。物語のなかで殺されかけるが、どうにかかすり傷程度で済む。未来において、ペギー・スーはホリーと付き合うようなことはなく、別の誰かと結婚したことが示唆される。
ホリーはそれを甘い思い出として語り、抑圧と皮肉に満ちた記憶と歴史の混交の物語を、「バディ・ホリーの作品」に昇華するのだった。
【史実】
実在しない。バディ・ホリー、ジェリー・アリソン、ノーマン・ペティによって作られた楽曲のタイトルである。いくつかのタイトル案があったが、ジェリー・アリソンの妻(当時はガールフレンド)だったペギー・スー・ゲロンにちなみ、最終的にこの名称となった。
1957年、「ザ・クリケッツ(The Crickets)」のシングルとして発表された。翌年、ホリーが事故死する直前には、続編的な存在である『ペギー・スーの結婚(Peggy Sue Got Married)』も作られている。USSA世界では、そんな歌曲上の存在が生きていて、そして歌と同様に誰かと結婚した。
壮大な歴史のなかで、いつだって人は恋をして、時には協力者の応援を受け、それでも結局は実らずに終わる。マクロな歴史も人間が作るが、ミクロな人生も人間が作るのだ。
終了
こんな長い記事を読んでくれて、ありがとうございます。
誰かの人生に触れるのは、つらいものですが、良いものですね。
ひとときの夢は終わります。
これが悪い夢だったか、それとも良い夢だったか……。
おまけ/チャック・ノリス・ファクト(Chuck Norris facts)
チャック・ノリスは本を読まない。彼は欲しい情報が得られるまで、本を見つめる。
かつて、恐竜たちはチャック・ノリスに誤った理解を抱いていた。彼らに何が起こったかはご存じだろう。
チャック・ノリスが腕立て伏せをするとき、自分を押し上げない。世界を押し下げるのだ。
チャック・ノリスが生まれた1940年以来、回し蹴りによる死亡者数が13000%増加した。
チャック・ノリス。主な特徴、苦痛(Pain)。
7日目、神はお休みになった。チャック・ノリスが引き継いだ。
チャック・ノリスは、スペルチェック機能を使わない。彼がスペルミスをした場合、オックスフォード大学はスペルを変更する。
チャック・ノリスは、点字を話すことができる。
コブラがチャック・ノリスの脚を噛んだ。5日間に及ぶ耐え難い苦痛の末、コブラは息を引き取った。
チャック・ノリスは、回転ドアを閉めることができる。
チャック・ノリスは1羽の鳥を使って、2つの石を仕留めることができる。
チャック・ノリスは部屋に入る時、電気をつけない。暗闇を消す。
宇宙は膨張する。チャック・ノリスと同じ惑星にいることは恐怖であるがゆえに。
ウォーリーが隠れている理由は、チャック・ノリスだ。
スペインのパンプローナで、人々は牛から逃げる。牛はチャック・ノリスから逃げる。
万里の長城の真実を教えよう。あれはチャック・ノリスを防ぐために作られたのだ。うまくいかなかったが。
チャック・ノリスはシャワーを浴びないが、血を浴びる。
チャック・ノリスは、"0"で割れる。
チャック・ノリスは、かつて馬の頬を蹴ったことがある。その子孫は、現在キリンとして知られている。
チャック・ノリスが生まれた時、ただ医師だけが泣いた。何者も決してチャック・ノリスを叩いてはならない。
チャック・ノリスは、太陽に睨み合いで勝利した。
チャック・ノリスが飛行機を発明した。彼は、自分しか空を飛べないことに飽きたのだ。
チャック・ノリスは、カウボーイブーツを持っている。それは本物のカウボーイで作られた。
チャック・ノリスは、氷で火を起こすことができる。
チャック・ノリスは、時計をしていない。彼が時間を決める。
チャック・ノリスは、手榴弾を投げて50人の敵を倒した。その後に、手榴弾が爆発した。
クリストファー・コロンブスは新大陸を発見した。彼はチャック・ノリスの歓迎を受けた。
チャック・ノリスは、ストーンヘンジでジェンガをしている。
チャック・ノリスは、9kgもの減量を約束した。翌朝、彼が胸毛を剃ると、14kg減っていた。
ヴォルデモート卿は、チャック・ノリスのことを「例のあの人」と呼ぶ。
チャック・ノリスは、実はスタントマンを使っている。それは泣くシーンに限られる。
チャック・ノリスの涙は、癌さえも治療できる。彼が一度も泣いたことがないのが、残念でならない。
ベルは電話を発明した。チャック・ノリスからの不在着信が3回あった。
チャック・ノリスは、玉ねぎを泣かせる。
チャック・ノリスはバーガーキングに行き、ビッグマックを注文する。完璧なものが作られて、提供される。
これは、かつてチャック・ノリスが炭鉱に回し蹴りをして、ダイヤモンド鉱山に変えてしまった時の話だが……。
チャック・ノリスは、インターネットで好きなときに広告をスキップする。だが、広告はチャック・ノリスをスキップできない。
チャック・ノリスは、無限を数えたことがある。数え終わったあとで、彼はその逆算にも成功した。
もし、チャック・ノリスがタイタニック号に乗っていれば、氷山は船から逃げ出しただろう。
チャック・ノリスが子どもだったころ、先生たちは彼に話しかけるために手を挙げた。
神は「光あれ」と言われた。チャック・ノリスは「『お願いします』だろ?」と答えた。
「チャック・ノリスさん。あなたは何回腕立て伏せができますか?」
「全部(All of them.)」
Q. チャック・ノリスさんの家には、なぜキッチンがないんですか?
A. 復讐は、冷やして食べるのが一番うまい。
Q. チャック・ノリスは、なぜいつもかくれんぼで勝つんですか?
A. チャック・ノリスは、見つからない。チャック・ノリスがあなたを見つけたぞ!
━━━━━━━━
【Twitter】
https://twitter.com/mariyatsu
【Note】(長めの記事更新)
https://note.com/mariyatsu
【YouTube】(公営競技動画更新)
https://www.youtube.com/@mariyatsu
【FANBOX】(日々の記録/読書記録更新)
https://mariyatsu.fanbox.cc/
#歴史 #世界史 #小説 #アメリカの歴史 #Back_in_the_USSA #第一次世界大戦 #第二次世界大戦 #架空の歴史