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【読書感想】無人島漂着にまつわる物語(『蠅の王』『十五少年漂流記』から)


先日、『蠅の王』(ウィリアム・ゴールディング)『十五少年漂流記』(ジュール・ヴェルヌ)を読みました。
 
どちらも無人島に漂着した少年たちが救助されるまでの生活や、彼らの心理状態を描いた作品です。
 
どちらも似たような冒頭でありつつ、その後の展開は恐ろしいほどに異なります。
どうして同じような境遇にも関わらずこうなったのか、を考える良いきっかけとなったので、思うことを書いていきます。

ストーリー構成

『蠅の王』

無人島に漂着した少年たち。
いずれも無人島に漂着して初めて互いのことを認識する初対面同士。

そして、漂着物で生活に役に立ちそうなものは何一つなく、火を熾す唯一の手立ては、いじめられっ子のピギーが持つ眼鏡のみ。

当面の間、島にいる間のリーダーを決め、狼煙の管理や小屋の設営、狩猟活動についての取り決めをします。

少年たちの間では集会を頻繁に行います。
集会で発言する場合は、“法螺貝”を手に取ること、そして“法螺貝”を持っている者が発言する場合は、その者の発言を遮らないことといった細かなルールも策定します。

狼煙を重視するリーダーのラルフ一派。
狩猟活動に楽しみを見出すジャック一派。

当初はお互い協力をしているものの、狼煙の管理方法や狩猟のあり方をめぐって徐々に衝突するように。

そして
森の中に突如あらわれた怪物に怯え、疑心暗鬼となるうちに、ついに両派閥は決裂。
ジャック一派にとって、目標が「島からの脱出」ではなく、「相手派閥の打倒」へ置き換わります。

ラルフ一派はまだ島からの脱出をあきらめていないものの、火を熾す唯一の術であるピギーの眼鏡を奪われたことで、打開策も打ち出せない。
ジャック一派は火を熾すことが可能になったことに加え、運よく狩猟に成功したことで、食料に困ることもない状態。

ラルフは一派のリーダーとして、独裁政治を行うようになり、逆らうものには体罰を与え、忠誠を誓うものは優遇する。
次第に力ありきの狩猟部族集団になっていきます。

ついには、ラルフ一味を攻撃し始め、暴力をもって自身の支配下に寝返らせる、ラルフの理解者ピギーまでも・・・
孤立してしまったラルフは徐々に追い詰められ、、
といったストーリー。

『十五少年漂流記』

ニュージーランドの学校に通う仲の良い少年たちが夏休みを利用して親たちと船旅に行く予定が、ふとしたことから、少年たちだけで荒波の航海へと出ることに。
その結果、とある無人島に漂着。

船にはたくさんの食料や工具、備品などが積載されており、食料・物質面での困窮はしないであろう状態。

少年たちは、“大統領”を決め、大統領が少年たちの実質的なリーダーを務めることとし、集団としての結束を図る。

また、それぞれの少年に、料理人としての役割、日誌を書く役割、幼い少年たちへの先生役など様々な役職を作ることで、自治を行う姿勢を明確にしていきます。

とはいえ、少年たちは完全な一枚岩ではありません。
初代大統領となったアメリカ人のゴードンやフランス人のブリアンに対し、イギリス人のドノバン一派は何かとつっかかるような態度を頻繁にとるような状態。

島での暮らしも、長い冬の時期が到来したことにより、火を灯すための薪や油、備蓄可能な15人分の食料品の調達の問題が少年たちを悩ませます。

さらに加えて、島に流れ着いたシージャック犯が少年たちの食料や住環境、所有品を狙い始める危機的な状況に。

敵の偵察や敵を倒すための危ない計画を実行していく中で、対立していたドノバンと他のメンバーも和解をし、最終的には敵を撃退することに成功。

そして、敵の所有していた船を利用して島を脱出。
島に漂着してからおよそ2年の月日が経って、全員が救助されることになる、
といったストーリー。
 

両作品の違い

『蠅の王』は少年たちの自治がままならず、極限の生活状態となっていく中で、少年たちが徐々に負の心理状態に陥ってしまう様子が描かれています。

一方で、『十五少年漂流記』は、島に漂着してからも、自治を行うことをおろそかにせず、少年たちが知恵を出し合う中で前向きに生活していく様子が書かれています。
おそらく、彼らが島にいる期間がもっと長かったとしても、全員が無事に生きて島を脱出できただろうことは想像に難くありません。
 
では、同じような境遇でありながら、どこで差が生じたのか。
(そもそも読者の対象年齢層が違うだろう、というのはご容赦を)

1.少年同士の関係性

『蠅の王』の場合、全員が初対面同士で、それぞれがどんな個性を持つ人間なのかがわからない状況でスタートしました。

誰が我の強い存在で、誰が調和性の高い人間か。

学校社会や仕事社会でも、合う合わない存在がいれば、その関係性に応じた距離感を取る。もし、その距離感が取れない場合は、うまく社会が回るような役割を演じることも往々にあります。

しかし、
この『蠅の王』では、それがわからない条件下にいきなり放り込まれます。
そんな中でいきなり我を主張する人が複数出てきたのでは、フォロワーもどう振舞うべきかがわからなくなります。
 
一方、『十五少年漂流記』の場合、元々見知った存在同士。

そのため、誰が頼るべき存在なのか、この役割をしてくれるのは誰か、が事前に分かっていることは、極限状態において心理的な安心感をもたらしてくれるものと思います。
作中でも、幼い少年たちに規律を与えるのがゴードンであり、安心感をもたらすのがブリアンと、明確に描かれています。

2.ルールの浸透

『蠅の王』では、集会で発言ができるのは、“法螺貝”を持っている人だけというルールが設けられました。

しかし、
議論がヒートアップすると、このルールは守られず、あろうことかこのルールを決めた張本人ラルフも破る始末。もはや形骸化している状態。

ルールを破ったことを指摘してまた口論の火種になってしまう負の連鎖。

集会で何かが決まったこともなく、ただ集会を開くだけでラルフ一派とジャック一派の主張のぶつけ合いに終始しています。
 
一方の『十五少年漂流記』では、少年たちそれぞれに役割を与えるとともに、島にいてやるべきことを習慣化させます。
例えば、資源の無駄遣いをしないことや、勉強をすること等。
この習慣を全員がやることで、ルールを浸透化させることに成功しています。
 
強圧的にルールに従うことを押し付けるよりも、自然に集団内に浸透させること。
これらを比べても後者の方が反発なく受け入れられるでしょう。

3.共通敵の存在

『蠅の王』では、<獣>と呼ばれる存在が島内に存在していると徐々に仄めかされます。姿は大きくとても太刀打ちできるような存在ではないとして威圧的に描かれます。

ですが、
誰も実物をしっかりと見たわけではないので、不安が不安を増大させていきます。
少年たちも、「<獣>に関わらないでいようとする立場」と「倒してやろうという立場」に二分します。

気づいたときには、本来共通的として扱うべき<獣>から焦点が逸れ、気づいたときには<獣>に対して見解の相違がある相手一派を敵として捉えるようになってしまいます。

もはや少年たちは一枚岩ではありません。
 
『十五少年漂流記』では、シージャック犯という明確な敵の姿で少年たちの前に現れます。

また、敵のことをよく知る存在が仲間に加わったことにより、敵に立ち向かうための作戦を練る気力体力も十分にある状態。
もはや、両作品で真逆の心理的状態と言えます。

4.フォロワーシップ

フォロワーシップは、一般的に「自律的かつ主体的にリーダーや他メンバーに働きかけ
支援すること」
とされています。

複数名が異なるリーダーシップを発揮したのでは、目指す方向性がわかりません。
また、適切なリーダーシップが発揮されたとしても、それを実行する面々がいなければ当初目的は達成されません。

適切なリーダーシップがあって、かつ、それを支える存在がいてこそ、集団の自律が果たせるものです。
 
両作品を見てみると、作中の随所に、集団が一枚岩になっていない描写はありますが、それでもリーダーの指示に最終的には追随しているか否かを見ると、違いがみられます。

『十五少年漂流記』の場合、ただ指示に従うだけではなく、集団がうまく回るように補佐する存在がいたことも、よいフォロワーシップの典型かと思います。

初代大統領のゴードンは規律を重んじ、やや保守的な選択をする傾向があることから、好奇心旺盛な幼い少年たちからはあまり良く思われていない描写があります。
そこをリーダーと構成員の橋渡しをするブリアンがいたからこそ、組織の自治が保たれているのだと読んでいて感じました。

おわりに

いきなり無人島で生活しろ!となることは、現代では(ほとんど言っていいほど)ないかと思います。
 
しかし、程度の差はあれど、右も左もわからないような環境下に身を投じなければならないことはありえます。
チームマネジメントやフォロワーシップの重要性が説かれ、様々なビジネス本も出回っている昨今、読んでみて教訓となる作品でした。
 
機会があればぜひ手に取って読んでみてください。
 


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