2つの命日【8月9日は、終わりではなく始まり】


今年の8月9日は、
「75年間、草木も生えない」と言われていた被爆地長崎に青空が広がっていました。

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いつも通り賑やかな蝉の声がこだましていました。この日は、75年前、長崎に原爆が投下された日。

長崎市内の約7万5000人が命を落としました。

「NAGASAKI」、「HIBAKUSHA」は、世界でも知られている言葉。

海外の人と戦争、核兵器について話すとき、その言葉を何度も耳にしました。

生まれ育った〝長崎を最後の被爆地に〟という思いを持って、これまで私は、記者、アナウンサーとして取材を続けてきました。

しかし、1945年8月9日は、
ある戦闘の始まりであったこと
それが大好きな祖母をずっと苦しめていたことを知ったのは、恥ずかしながら2年前のことです。

おばあちゃん

米国国立公文書館の資料、防衛研究所の戦史、祖先の軍歴証明書や戸籍を読めば読むほど、
戦争当時の様子が明らかになっていきました。

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祖母は4年前、94歳で亡くなりました。

晩年まで長崎でずっと夢にうなされていました。

「慶ちゃん、ごめんね」

慶ちゃんというのは、祖母の最愛の弟、慶一さんのことです。

1945年春、20歳になった慶一さんは、
国内の銀行に内定が出ていたものの
その年の6月に召集され、満州・新京に入隊。

銃の撃ち方もままならないまま

最前線、満州とソ連と国境地帯であるムーリン(牡丹江省)へ駆り出されました。

日ソ中立条約を結んでいたソ連軍は、
不意打ちして8月9日未明、大雨の中、満州に侵攻。

ソ連軍は、約150万人
T−34など最強の戦車や自走砲5556両、航空機3446機。

それに対する日本(関東軍)は、その半分以下の約68万人
戦車は200両、航空機200機と言われています。

特に12日前後の戦闘が激しく、
多くの若い日本人が亡くなりました。

祖母の弟もその1人です。

慶一さんは、12日夕方、肉弾特攻
(体に約10キロの爆薬を巻きつけ敵軍の戦車に走って潜りこむ)に出て
ソ連軍の砲弾にあたり、即死しました。

私自身が遺族であること、これまで集めた連隊・部隊名など全ての情報を防衛省防衛研究所の方に伝えると、
現物の戦歴資料を見せて下さいました。

その時の様子を記す地図↓は、
かなり壮絶でした。

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現物の戦歴資料を1ページ、1ページめくっていった。

慶一さんがいた部隊は、指示された陣地に着く前、ソ連軍の猛烈な攻撃にあい、
ほとんどの兵士が。その後、近くの街にいた多くの子供、女性たちも 死にました。

私自身、どこかで信じたくない気持ちがあったためか、
死亡者名簿で慶一さんの名前を見つけた時は、

涙が止まらなくなりました。

あの戦歴資料の古びた紙の匂いは、
一生忘れません。

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あと3日、生き延びていたら

8月15日の終戦を迎え、助かったかもしれない。

慶一さんがいた歩兵第272連隊の動きを読み進めました。

仲間の兵士たちは、その後、退陣を繰り返し、
地下壕に逃げこんだものの、ソ連軍に居場所が見つかり、

敵が中に突入する前に全員が手榴弾で自決していました。

また、部隊長が移動する際、食べ物に困り
乗っていた馬を食べたという記述もありました。

現地では8月15日以降、戦闘は、むしろ拡大し、9月上旬まで続きました。

調べる中で、幸運にも慶一さんをよく知る
山中伍長の息子さんと連絡がとれましたが

国境地帯で生き残ってもシベリア抑留で
厳しい生活を強いられたそうです。そして、 ふるさと岡山へ戻った後もお父様は、晩年まで夢にうなされていました。

祖母だけでなく、山中伍長にとっても
“8月9日は、苦しみが始まった日”。

これまで出会ってきた長崎の被爆者の方々も同じでした。

戦後も人知れず
ずっとトラウマを抱えていました。

最愛の弟、部下を亡くした2人の悲しみは、
計り知れません。

今回、資料を丁寧に探し、解説してくださった防衛省防衛研究所の研究者の方に
感謝の気持ちを持つと同時に

帰り道、その防衛省内の廊下で迷彩服姿の人とすれ違うたびに
戦歴資料の光景と重なり、、

心がずっしり 重くなりました。

いつまでも「戦後」でありたい、
と切に感じました。

祖母や慶一さんは、
今の時代をどう見ているのでしょう。

香港を始め、民主主義が危ぶまれている世界を
どう捉えるのでしょうか。

このお盆の時期になると、戦後を生き抜き
日本の平和を守ってこられた方々に
いつも感謝、尊敬の念を持ちます。

家族を失い、1人 空の骨箱を握りしめ、満州から引き揚げた祖母。

“いのち”を繋いでくれたおかげで
今の私がいます。

おばあちゃん、ありがとう

祖母の命日は、今日、8月16日
慶一さんの命日は、 8月12日

奇しくも、2つの命日は、
お盆を挟んでいます。

これからもずっと、私は、お盆が来る度
1945年の日本の夏を振り返り、向き合っていくのだと思います。


合掌

2020.8.16
前田真里

*追記 2022年8月 私の祖母について 新聞の取材を受けました。ありがとうございます。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20220806-OYT1T50360/

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