毒親④現代版:火垂るの墓

<1>火垂るの墓

ジブリのアニメ映画「火垂るの墓」を知っているだろうか。

"戦時中、空襲で両親を亡くした兄妹が、親戚の家に引き取られて、そこで大人から厄介者扱いをされ、我慢の限界で兄弟だけで家出して、、、"

という物語だ。

昔、母・妹と火垂るの墓を観ていたとき、「これ、私たちじゃん」と言い合ったのを覚えている。

無論、戦時中でもないし片親だが親もいた。

しかし、私の子供時代の家庭環境は、火垂るの墓の兄妹の境遇に非常に似ていたと思う。


<2>母の実家での日々

私が6歳の時、母・妹と共に母の実家に引っ越した。

母が祖父(父方の)と折り合いがあわなくなったためだ。

母の実家には、祖父母(母方の)と独身貴族をしている叔父(母の弟)がいた。

母の実家での日々は、幸い、激しい暴力や性虐待等はなかったものの、真綿で首を絞められているかのような日々が続いた。


<3>祖母

特に祖母は典型的な男ひいきの母親だったため、娘(私の母親)のことが嫌いでしょうがなかった。必然的に娘の娘である私や妹のことも嫌っていた。

母は平日フルタイムで契約社員として働いていた。それだけでは年収が200万円程度と、とても子供2人を養える稼ぎではなかったため、週3日・3時間、準夜勤でコンビニでも働いていた。

子供の頃は、深夜1時過ぎに帰宅する母をみていて、「こんなに苦労させてごめんね。私が大人になったらたくさん稼いで楽させてあげるんだ。」と思っていた。

母は小柄だったため、誰かに襲われたりしないかと心配で帰宅を確認するまで眠れなかった。

また、母は朝異常に起きられない体質で、5回以上強くたたき起こしてようやく朝起きられるという状態であった。(子供の私が起こしていた)

遅刻・当日欠勤は日常茶飯事であった。

今思えば何かしらの病だったのではないかと思うが...

そんな母を、祖母が非難しないはずもなく、母に向かって口汚く罵る姿をよくみた。

そのたび、子供の私は自分の身を引き裂かれるような思いをした。

子どもにとって親は、自分そのものだからだ。

しかし、"居候"という身分のため、母も私も言い返すことができなかった。

祖母は母に文句を言うだけでは飽き足らず、私や妹に向かっても母の悪口を言ってきた。

「お前の母親は...」

具体的な内容はもう覚えていない。ただ、そのたびに心をえぐられるような感覚がしたこと、その感覚だけは鮮明に覚えている。

次第に母親批判から母親含め私・妹を1つまとめにして

「お前らは居候のくせにだらしない」「お前らがいるせいで光熱費があがる」「出ていけ」となじるようになった。

私は自分の部屋でインコを飼っていたのだが、「電気代が」といい、私が不在のときはしょっちゅう部屋の電気を消されていた。インコがいるのに!

私が14歳のとき、家が火事になり半焼した。その経験から、火事になることに対し人一倍恐怖心を抱くようになった。

祖母が台所でガスコンロで何かを煮たままそれを監視しないでリビングでテレビをみていたときは発狂した。火事は、隣家の火事が燃えうつってのことだったため祖母が原因ではなかったが、火事を経験しておいてこの神経には真底驚いた。

必死に、何度も何度もお願いだから火を放置しないでと懇願したが聞き入れてもらえず、私は藁にも縋る思いで消防署に電話をし、祖母を説得してもらえるように頼んだが、当然却下された。

(私は料理をしないためわからないが、煮ているときは火を監視しないのが普通なのか?そうだったとしても、怖いと必死に訴えているのにまったく聞き入れないのはあまりにも私の気持ちに無関心である)

消防署に電話をしたのは、私の意見より赤の他人の意見のほうを優先して聞く人だったからだ。孫の気持ちより世間体が大事な人だった。

外面は非常に良いため、何も知らない人が祖母を見たら「礼儀正しい可愛いおばあちゃん」に見えることは間違いないだろう。

ずいぶん前に脳梗塞を起こし、それから認知症が悪化して施設に入ったが未だに生きているらしい。すさまじい生命力である。


<4>祖父

祖父は母との折り合いは悪くはなかったため、特段、孫である私や妹のことが嫌いではなかったと思う。

しかし、根本的な人間性がキチxxだったため、この人にも苦しめられた。

祖母が言葉の暴力使いなら、祖父はただの暴力使いであった。

祖父は叔父との折り合いが悪く、叔父が子供の頃にキレてハサミで襲い掛かろうとしたことがあるらしい。

幸い、加齢もあってかそこまでの暴力性は私が同居したときにはなかったが、その片鱗は健在だった。

私が小さいとき、通りすがりにつねるのが趣味だったらしい。

私をつねり、痛がってる姿を見て楽しんでいたとか。私は記憶には残っていない。幼児期健忘があったほどの小さいときということだ。

私は背が伸びるのが早く、また肥満だったため10歳ごろにはかなり体格がよくなっていた。

物心ついてからそのような嫌がらせ行為を受けた記憶はないため、弱者にしかやらない卑怯者なんだろう。

とはいえ、体が大きくなってからも、暴力をふるうポーズはたびたび受けていた。

言語能力が低いため祖母ほど口をついて嫌味を言ってくることはなかったが、弱者(この場合は居候という立場)をいじめるのが好きなため、祖母の真似をして嫌味を言ってくることがあった。

私は16歳を過ぎたころから嫌味に対して言い返すようになったのだが、言い返すと、殴るぞのポーズをとられていた。

少し怖かったが、怒りを原動力に大声で怒鳴り散らして黙らせた。

16歳には祖父とそう変わらない身長で肥満だったため体が大きく祖父は引き下がった。

私が小柄だったらもっと酷いことになっていたのが容易に想像できる。

私が21歳くらいの時にあっさりと寿命で死んだ。ウケる。


<5>叔父

この人は3人の中では一番マシである。マシなだけでクソなのには変わりない。

この人も、先述の両親の子であるため、弱者をいじめて優越感を満たしたい根性は根付いていた。

祖母ほどではないが、居候という立場に対して嫌味を言われた。

また、私の肥満体型についても嫌味を言ってきた。

私の肥満体型はこの家の環境のせい(前回の毒親シリーズに詳細記載)なのに。

そして自分も肥満体型なのに、だ。

笑っちゃうね。

私の自己肯定感は崩壊した。

叔父は、私が23歳の時に交通事故で死んだ。

葬式に出たら、ものすごい人数の参列者がいて驚愕した。

中には泣き崩れる人もいた。

そう、この人も祖母同様、世間体第一で外面はとてもよかったのである。

家では弱者をいじめていたのに。


<6>人生で一番苦しかった10年間

6歳から祖父母・叔父と同居し、16歳になるまで、嫌味を散々言われ続けても我慢していた。

なぜなら、少しでも言い返そうもんなら、伝家の宝刀「出ていけ」が発動するからだ。

一言一言は、もしかしたらすさまじい虐待を受けてきた人からしたら、大したことない、と感じるかもしれない。

しかし、10年間ネチネチと言われ続け、私の心は削られていって、修復不可能になった。

16歳の時、我慢の限界がきて、「シね!!!」と祖母に言い返してみた。

追い出されるかも、という不安より、怒りが上回った瞬間だった。

言われた祖母は驚いてキョドっていた。その後しばらくは追い出されないかビクビクしながら生活していたが、追い出されることはなかった。

言い返しても追い出されない、と気づいてからは、何か言われたら大声で「シね!!!!」と言うようにしていた。

そうすると祖母をはじめ祖父叔父もだんだん私に対し何も言ってこなくなった。

ちなみに、相手の意見を聞いて議論するなんてことができる生物たちではなかったため、ひたすら大声と暴言で対抗した。

なんでもっと早く反抗しなかったんだろう。そう後悔するほどに、すっきりした。

とはいえ、傷ついた10年という時間はもう取り戻せるものではない。


<7>結

火垂るの墓に出てくる親戚の大人たちは、戦時中で自分たちの食べ物もままならない状況と、血縁とはいえ親戚程度の関係の兄妹を歓迎できなかったのは理解できる。

しかし、今は戦時中でもなく、母の実家はどちらかといえば現代でも裕福なほうであった。叔父はバブル期に就職し年功序列制度の恩恵に最大限あずかってきた人間で、祖父はバブル時代に働き盛りの4~50代だった世代だったから当然である。

しかも、私たちは直系血族の娘とその子供たちである。

どうしてこのような扱いができようか。

それぞれの死亡により同居が解除されてからもう4年はたとうとするが、

いまだに憎しみは1ミリも消えていない。

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