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新世界~どんな時も、自分の人生を生きる~

2020年。コロナで世界が、目まぐるしく変化していく。
母の入退院。イベント自粛要請、緊急事態宣言。
家族、音楽、人生、学び。
必死に向き合ったこの3か月。
この変化の波で感じた私自身の成長をまとめてみました。

イベント自粛要請

2月中旬。すでに、リゾートの夏が近づく沖縄での音楽フェス<asylum>
世界中から集まったアーティストとプロデューサー、
そしてワールドミュージックファンで楽しい音楽漬けの連休を過ごす。

「東京に帰ったら現実かぁ。」夜景と共に、羽田空港へ降り立つ。
機内モードを解除。メールと電話の嵐。キャンセルの連絡が止まらない。
国や地方自治体の演奏依頼が、たまたま集中していた2月後半。
すべて飛んだ。家賃が飛んだ。

だけどそれは、長い旅への、ほんの入り口にしか過ぎなかった。

実家の母、倒れる

徐々にコロナが日本へと感染が広がりをみせる3月上旬。
レッスン以外ほぼ休日となった私。忙しくてすっかり遠のいていた、久しぶりの動画配信(showroom)。多くの反応があり、手ごたえを感じていた。

突然、病院に母のかかりつけの病院から電話が。「今すぐ来てください。」紹介状を受け取り、翌朝大きな病院で緊急検査。そのまま入院することに。

ヨーロッパでパンデミックが宣言された頃、母の主治医との面談。
「お母さまは、介護が必要になるかもしれない。」
母はつい数か月前、還暦を迎えたばかり。私もまだ独身。ようやく、母も娘も互いの一人暮らしに慣れて1年。<介護>もっと先の話だと思っていた。晴天の霹靂。

3月中旬、週末のステージを終えた後、そのまま心労で倒れこむ。翌週から週末の自粛要請。イベントは軒並み中止。
実家に帰れば大きな家で一人。テレビをつければコロナ。手帳は真っ白。

海外留学、白紙。

昨年夏、2020年秋からのトルコへの短期留学を志したがゆえに、さまざまな事を整理せざるを得ないことになる。たくさん方にご迷惑もおかけした。
音楽家としてキャリアがすでに構築しようとし始めてるときに、それは自分の一存だけでは決められない、本当にとても大きな決断だった。
それでも来年、”どうしても行かなければいけない”予感がした。

2020年春。コロナによる当面の先の読めない渡航禁止。そして急に降ってきた母の介護。わずかな可能性さえも、見えない。一旦、白紙に。

緊急事態宣言の夜に

入院当初は要介護、それなのに65歳の壁で介護保険も降りず、この状況下でどう乗り切ればいいのか。文字通り、お先真っ暗。

でも、母とお医者さまはじめ、医療スタッフのみなさんの多大なる努力があり、想像以上に早く回復。
日に日に厳しくなる面会。退院前夜、昨日までのんびりだった病棟がバタバタ。急に増える患者。新規の外来当面お休み。母はギリギリセーフ、ピリっと張り詰めそうな病院を背中に感じながら、無事、退院。

そして、緊急事態宣言。私はオンラインレッスンのみに。
仕事もなければ、リスクしかない。しばらく東京には戻らないことに。
色んな思いが入り交じり、心に浮かんだのは”Play for the World"。
そんな夜ふと思い立ってマリンバを弾く。それが<小さな祈り>だった。
※このあと<祈リレー>として世界中のマリンバ奏者へと繋がれていく。

オンラインで繋がる仲間たち

母の入退院。介護が出来る環境つくりのため、実家の9割を親戚や友人と共に大掃除。そして退院後のケア。一変する生活。そんな時、励みになったのは、音大時代の旧友たちと始めた、様々なオンラインイベントたちだった。

特に<#どうする音大生>は音楽家という仕事を経営者視点で捉え、オリジナリティ溢れるやり方で、築いてきた前向きな友人たちとの座談会だ。
先の見えない日々の中で<新世界>をわくわくするような視点で議論し、学生さんたちとシェアしたい。
そんな仲間たちとの夜は、私に「どんなことがあっても音楽家でいよう」と、心のモチベーションへとなっていく。

学び、深める

5月。留学が無くなっても、その学びのために志願した上智の大学院研究生は始まる。だけれども、演奏仕事はゼロ。オンラインレッスンに移行できたのは講師仕事の半分。その給料も毎月使っていない、東京の家賃や固定費をを払えるか払えないか。

勉強や練習に集中するよりも、日々消えていくお金に目がいく。
<ここまで頑張ってきたのに。>
頭がまっしろで何度もパニックになりそうになった。

そんな時<もう、あきらめよう>そう、思った。
長い人生で1年なんてあっという間。それだったら貯金が尽きるまで、ひきこもってももいいのではないか。働けるようになったら、猛烈に働けるように、準備をするために、学べばいいのでないか。
でも演奏する以外に、出来ること。私に、あったかしら。

考えた末、”音楽家という仕事を見直したい"という気持ちへたどり着く。
・私自身を商品として、ブランディングしていく能力をつけたい。
・得意の文章をより深く、専門的なライティング技術を学びたい。
・またホームページやフライヤー制作など、自分で作れるようになりたい。
・院の学術的な学びと並行して、生き抜くための技術も学びたい。
そうして見つけたのが<SHE Likes>だった。

超絶ポジティブしかいない毎日

一歩外に出ると井の中の蛙だったと知るように、演奏活動に追われる日々から一転、見る世界が一気に変わった。
実際にいるのは実家の自分の部屋だが、日々内面は進化していく。

この状況でも音楽家として生き抜き、乗り切ろうとする同世代の友人たち。
他人の夢を決して否定せず、自分の目的へ邁進していくシーメイトたち。
動画やオンラインから感じる先生方の、一歩上を行く指導力と世界観。
周りに、超絶ポジティブしかいなくなった。

世界のどこにいても、働ける環境つくりを

<あきらめよう>と決めた瞬間に見えたこと。それは、令和元年元旦。
明治神宮参拝中に自分で決めたことだった。

<世界のどこにいても、働ける環境づくりを>

世界の裏側にいたって、演奏できるし、教えられるし、学べる。
そんな音楽家になりたい。まさにそれに挑戦する令和2年となった。

緊急事態宣言、解除。東京へ戻った。怖かった。感染も良くなってきたとはいえ病気の母と離れるのも。なぜなら、実家の教室のレッスンと母の介助。東京での音楽活動。コロナ消えなくても、2拠点生活に戻るリスクの高さ。

待っていたのはこの3か月東京に置いてきた<本当の私>だった。
大好きな街と人に囲まれた温かいこの場所。それこそが<私>。
東京に戻ったほうが、母と電話するようになった。
実家に帰ると、母が元気でいることのありがたみがより染みた。
どこにいるかは関係ない。繋がっている。どんな時も。

そして一番大切にすべき人、それは最愛なる<自分>だと気づく。

どんな時も、自分の人生を生きる

何度も試されて、落ち込みながら、それでも希望を捨てない。
周りの優しい手を借りながら、なんとか踏み出した先。
どんな困難も強さへの活力としていく。
そんな自分の強さを強める変化を感じた、この3か月。
よく頑張った、わたし!!!そしてすべてのことに感謝です。

次の3か月は、院の研究生とシーライクスを終えて。
演奏活動もぼちぼち再開出来ているのでしょうか。はたまた。
人生のその時々で感じるどんなフレーバーさえも、
音に変えていくことが出来なら、ステージに立つ日が待ち遠しい。

どうぞ、その日をお楽しみに☆ステージで会いましょう。

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