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自分で!は愉快

私は小さい頃、まだ能力が追いついていないうちから「じぶん(で)!!!」と何でもやりたがる、いわゆる我の強い性格だったと親から聞いている。じっさい大人になって、何でも自分でやることができるのは、けっこう快適だなと思っている。

コロナの自粛生活で、在宅の時間を持て余してみんながパンを焼き始めたり、凝った料理をし始めたという。それは、コロナの暗いニュースのなかで、ちょっと良い話。ただみんなが一斉に始めたことで、買い占めとか物流の混乱とか、既存の世の中の仕組みや需給とのギャップは確かに生じていて、そこは早く最適化されるといいなと思うけど。

みんなが今まではお金を払って外注していたことを、自分でやってみるようになったのは、人類の進化のなかで、個人がいつの間にか失ってしまう生活の技術とでもいうべきものを再び取り戻す、そんなイメージがある。

私の祖母は、どちらも縫い物や編み物が達者で、片方の祖母は糸の染色から機織りまでやれたのに、たった二代のうちに、すっかりその技術が失われてしまったことは驚くべきことだし、情けないし、哀しい。だから、今「ちょっと面倒だし難易度高めだけど、やれないこともない」くらいのことを完全にやらなくなると、本当に全然できなくなってしまうのでは、という危惧がある。

私が自粛生活に入って新たに始めた「自分で」は、野菜を育てることと、家族の散髪くらいでそんなに増えたわけではないが、ここ数年では、パンやピザを生地から作って焼いたり、梅仕事や手前味噌やらっきょう漬けやらを仕込んだり、子どもの通学グッズを縫ったりと、お金で買えば時間も労力もかからないものを、手作りする機会は気付けば自然と増えていた。

そして手作りすると、売られているもの、お金で買えるもののコスパの良さに嫌でも気付かされる。高度に効率化された経済のなかでは、パンひとつ買うのと粉から作るのとでは、買った方が断然コスパがよいのだ。でもそのコスパってよく考えるとものすごい地球や資源に負荷を掛けていたり、安い労働力に頼っていたり、するんだよねってことを、見直すことにもなる。

そしてもうひとつ、プロにはプロにしかない技があるということ。散髪だって、それなりにはやれるけど、プロのカットとは雲泥の差があるし、売り物の味噌は今年は塩分多めになっちゃってるね、みたいな不安定さもない。その道の匠への敬意や感謝も思い起こさせてくれる。

自分でやってみることは、ものの作られ方、原料や素材の組み合わせを学ぶことにもなり、一緒に作れば子どもの教育としてもすごく身になることだと思う。

しかし何より、自分の手を動かして何かが生まれる喜びを味わうこと。これが結局根源的に一番愉快なところなんだと、「自分で!」な私は思う。絵とか音楽とか、憧れるし鑑賞するのは大好きだが創造者としての才能は全くない自分でも、暮らしの中で、作ることはできる。作らなきゃいけない、となると苦しいけど、作ってみよう、は愉しい。

自分の娘が「○○が!(娘の名前)」と言い出した幼児期はもう過ぎて、娘も小学生だけど、私はやっぱり嬉しかったし、自分で!な子をなるべる伸び伸びやらせてあげたいなと思う。



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