見出し画像

描き貯めた絵、視覚、そして信仰者 ――『Klara and the Sun(クララとお日さま)』を読んで

流行の最先端?

流行りものにはめっきり疎い私が、今回だけは地球規模の流行に乗った――カズオ・イシグロの最新作、 ”Klara and the Sun”(邦訳『クララとお日さま』)のことだ。3月2日に「世界同時発売」された本作英語版を、夜中の0時にKindle版で手に入れて、「世界中で今これを読めているのは、オセアニア諸国と日本の読者だけ~!」などと浮かれた。

それから2週間、空いた時間にスマホで読み続け、これを今世界中でいったい何百人、何千人、いやもしかしたら何万人の人が読んでいるんだろう…それも色んな言語で…と考えると不思議な感じがした。読書というのはとても個人的な体験なのに、それが同じ対象について、あらゆる場所で同時に行われているというのが、ちょっと信じがたかった。

カズオ・イシグロの作品は、ノーベル文学賞を受賞した2017年以降に、日本語訳が出ている長編7冊+短編集1冊を一気に読んだ。でもこれまではすべてハヤカワ文庫の日本語版で。英語で読んだのは今回が初めてだった。

ちなみに私が一番好きなのは『わたしたちが孤児だったころ』で、二番目が『充たされざる者』。後者は文庫で1000ページ近くありながら、ワケがわからない不条理もので挫折したという人が多いのだが、私はむしろそのワケのわからなさが(常に邪魔が入って、主人公がいつまで経っても目的地にたどり着けない、など)面白かった。その意味では、”Klara and the Sun”は、小説としてはむしろ筋が通っていて読みやすい部類に入るだろう。

ネタバレ注意の警告

ここから先は内容について「ネタバレあり」で書いていくので、もしこれからこの作品を読もうと思っている人がいるなら、ぜひここから先は読まずに、小説を読み終えてから戻ってきてほしい。なるべく事前にネタバレ情報を入れずに読んだ方が面白いと思うからだ。

私も、刊行直後に出た書評や解説はあえて読まずに遠ざけておいて読了後に読んだが、内容をまとめて評した文章というのは、どうしても作品の一面だけを切り取らざるを得ず、また何かしら背景解説や文明批評などのトーンを帯びざるを得ないので、それを念頭に置いて引きずられてしまうのは、あまりに惜しい。へんに先入観を持たずに自由に、読んだときの素直な自分の反応・感覚というものを楽しみながら読んでほしいなと思う(これは小説に限らず、どんな芸術作品にも言えることだけれども。)また、イシグロの他の作品の内容にも言及しているので、未読の方は注意していただきたい。

他のイシグロ作品との共通点
――描き貯めた絵を人に見せるということ――

まずこれは他にも指摘している人も多いが、本作は『わたしを離さないで』に少し似ていると思った。SFであるということ、またある意味で「格差社会」を描いているということの他に、私が共通点として特に挙げたいと思ったのが、どちらにも、「自分が価値ある人間であることを証明するために、描き貯めた絵を見せる」というモチーフが登場することだ。

『わたしを離さないで』では、主人公や恋人が描き貯める絵(や美術作品)は、幼い頃には、「彼らにも心が存在する」ということを示すために描かされるものであり、大人になった彼らは、今度は自分たちの生命を救うために、それらを持参して、ある人のもとを訪れ訴える。

本作 “Klara and the Sun”でも、「unliftedな(日本語訳では『向上措置』がされていない、と訳されているようだ)」少年Rickが、自分の科学的才能を示すために、それまでに描き貯めたロボット工学の精緻なdiagram(設計図?)を描いたノートを、ある人の元に持参する場面がある。それによって自分の未来を切り開くための切符を手に入れようという、(正しくは、彼の母親による)画策だ。このシーンは、『わたしを離さないで』を読んだ人の多くにデジャブを呼び起こし、その感覚があるから尚更、切ないものになったのではないだろうか。

ちなみにこの、子ども(若者)が絵を描くという行為は、イシグロの他の作品にもしばしば登場する。『遠い山なみの光』では少女が絵を描くシーンがあるし、『浮世の画家』はそもそも画家の話であり、彼は幼い頃、描き貯めた絵を差し出すよう命じられ、画家になるのを反対する父親に作品をすべて焼かれてしまう。また主人公が孫にクレヨンと画用紙を与えて絵を描かせようとする場面もある。『充たされざる者』にもボリスという少年(主人公の息子?)が絵を描いているシーンがある。絵画の習作はその人間の能力や価値を測る分かりやすい指標であるという認識が、イシグロにはあるのかもしれない。

そして”Klara and the Sun”の中では、子どもが描く何枚もの絵というモチーフは、全く別の使われ方もしている。病床にある14歳のJosie(Klaraが仕えている少女)は、ひたすら絵を描いて日々を過ごす。何枚も何枚も描かれた絵は、その都度ベッドの周囲に放り投げられて、Klaraはそれを拾い集めて束にしている。お見舞いに来るRickとJosieが興じるのは、ベッドの上でJosieが人物の絵と吹き出しを描き、そこに、傍らに座ったRickが台詞を書いて埋めていくという遊びだ。二人はそのゲームに興じることで喜びを分かち合い、またそのせいで喧嘩をしたりもする。絵を描くという行為が、イシグロにとってとても価値あるもの、一種の大事なコミュニケーションの方法であると捉えられていることがわかると思う。

写実力の結晶――視覚の描写

イシグロの小説の面白さの一つは、非常に写実的であることだと思う。だから映像での再現にも向いているのだろう。(本作品も、既に映画化が決定したと伝えられている。)

本作はKlaraというAI搭載型ロボットAF(Artificial Friend=「人工親友」)の目を通して一人称で綴られているので、当然、人工的な「目」や「耳」を通して認知された情景と出来事が語られていく。機械らしい空間把握の方法(空間が並列する「box」に分けられているなど)に最初は戸惑ったが、その情景描写の精密さが、後にある場面で大きな効果を生むことになる。Klaraはある目的を達成するために、精密機器である自分のパーツを動かす大事な液体を取り出すことになる。その影響か、それから少し経った後で、視覚に変調をきたしてしまう。ただ、そのことはあからさまにそうとは語られず、ただ、Klaraがそれまで見えていた人々の輪郭が「cone」(円錐)と「cylinder」(円柱)になって近づいたり離れたりする、という描写になる。声は普通に聴こえて人間同士の会話は成り立っているのだが、それがconeやcylinderの集合体から発せられるという、非常に奇妙な場面になるのだ。ここの描写はとてもコミカルでいて、ある意味とても怖い。このままKlaraの認知能力が失われたままになれば、Klaraは役割を果たせず、そのまま廃棄される可能性だってあるからだ。

Klaraの太陽信仰は、キリスト教信仰のメタファーか

Klaraは太陽光エネルギーで動くロボットだ。そのため、太陽の光は彼女にとっての「栄養」であり、「生きる糧」そのものだ。まだ「店」にいてウィンドウの内側から通りを眺めているときから、Klaraは太陽を大文字つきの「the Sun」として特別視していて、ビルの合間から太陽の光が注がれると、人間も元気になることを学習している。そのため、Josieが重い病気で臥せっているとき、太陽の栄養が与えられればJosieも回復するに違いないと信じ、太陽に直接お願いをするために、太陽が夕方、勤めを終えて「休息」に入る遠くの納屋(ちょうどJosieの家から見ると、太陽が沈んでいく場所にある)まで、太陽に会いにいく。そこは背丈ほどの植物が生い茂る丘をいくつも越えていかねばならず、Klaraは土地勘のあるRickの助けを得て、その場へ向かう。けれども最後は自分1人で納屋に入り、太陽と1人で対峙する。

この最初に太陽に会いにいく場面で、私はKlaraはキリストのメタファーなのではないかという印象をもった。Rickと一緒にではなく、最後は自分だけで行って太陽にお願いをする(祈る)Klaraの姿は、弟子たちを後方に残して1人で神に祈るゲッセマネのイエスとそっくりだからだ。果たして、太陽と交わした「約束」を守るべく、その後の展開で、自らの体の一部を犠牲にし、(前述のように)一時は認知能力に欠陥を来してしまうKlaraは、まさに自己犠牲によって他者を救おうとしたキリストのように見えた。

だが私のこの認識は、その後、物語が展開していくうちに変化した。Klaraは太陽との約束を果たすことに「失敗」し、その懺悔の報告と、それでもなおJosieを助けてほしいと懇願するために、再び納屋を訪れる。そしてその後、様々な手が尽くされてもJosieは回復せず、もはや危篤かと思われたとき、雲が低く垂れこめ太陽はもう姿を現さないかに思われたその朝、不思議なことに光が一筋雲の間から差し込んで、Josieの病床を照らす。他の人間たちの悲しみをよそに、Klaraは「でもお日様が出ています!」と喜びの声を上げ、カーテンとブラインドを開けさせる。病室がまばゆい光で溢れたその朝を境に、Josieは快復に向かう。

Klaraは救世主ではない。そうではなく、太陽の力を信じ抜き、絶望にとらわれることなく希望を持ち続けた、「信仰者」の姿なのだと思った。

新約聖書には、自分ではなく家族や友人のために、キリストに熱心に癒しを求め訴える人の姿が何人も描かれている。しつこいほどの「信仰」だ。そして家族の病が癒され、「あなたの信仰が、あなたの家族(友人)を救った」とキリストから言われる。KlaraはひとえにJosieの健やかな成長を見守り助けるという自分の使命に忠実であり、そのために自分にできることを探し求め、自分のこれまでに積み重ねた経験と知識をもとに決断を下し、実行する。AIがこれほどストレートに信仰者然とした行動を取るとは、非常な驚きではないだろうか。AIは機械であり計算機ではあるが、一方で、人間の脳の仕組みに近づくようにプログラムされていることを思えば、信仰や希望や愛が生まれていくことは、もはや必然なのかもしれない。

おわりに

ここまで、私が本作『Klara and the Sun』を読んで考えた3つの側面について書いてみたが、それ以外にも本当にたくさんのことを感じたし、ここではそもそもの物語のプロットや登場人物、「家族の抱える秘密」などの核心にも触れていない。これだけ書いてきても、本作の、ほんの一部を切り取った雑感でしかないということを、あらためて強調しておきたい。読んだ人それぞれが、色々な感想を持ち、色々なことを考えるきっかけにするだろう。私もまだまだ、何度か読み返したいと思っている。日本語でどう表現されているのかということにもとても興味がある。

世界がこの新しいイシグロ作品を知ってから、まだ3週間。他の人々それぞれの感想を読むのも、まだまだこれからの楽しみだ。

この記事が参加している募集

#海外文学のススメ

3,277件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?