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サリーナー・サッタポン個展

サリーナー・サッタポン(Sareena Sattapon)はパフォーマンスやインスタレーションを中心とした表現をするタイ人現代アーティストだ。彼女の作品を私が知ったきっかけは、タイ人の友人が働くバンコクにある現代アートギャラリーからの情報だった。
東京の、しかも私たち家族にとっては非常に馴染みのあるピラミデビルという今や現代アートギャラリーがひしめき合う六本木駅から程近い不思議な形のビルの4階で、彼女の個展が開催されているという。お世話になっているギャラリーに久々に挨拶をしがてら、展示期間中に彼女の展示も見に行こうと計画する。
結局会期終了間際の鑑賞になってしまったのだが、もっと早めに行けばよかったと思った。


彼女は「見る」ということについて考えているアーティストだ。その「見る」というのは、時に「一瞥する」だったり「観察する」だったり「何かを見ないための選択的見る」だったりとさまざまな角度からアプローチしている。
それは決して鑑賞者に見ることを強制するものではない。いかに人間が見たいものしか見ないで生きているのか、そしてそれが文化や習慣から洗脳されたことによる結果としての選択的視野なのかを考えるきっかけを投げかけてくる。

彼女について興味を持ってから、展示を見にいくまでに、過去の展示の内容について色々とネット上にある記事を読み漁っていた。日本語による情報は決して多くはないが、番組形式で作品が特集されたものが動画で確認できたり、何よりも今回の展覧会は現代芸術振興財団が主催するCAF賞2022の最優秀作品として彼女の作品が選ばれたことによる展覧会だったため、財団と受賞に関連して出された日本語の記事はいくつか見つけることができた。しかしやはりまだまだ日本語での情報が少なく、彼女について調べるときにはタイ語のページを多く参照した。タイ語も学んではいるとはいえ、私のタイ語を読むスピードは英語で読むのの何倍も遅く、途中AIにも助けてもらいながら、なんとかタイ語で発信されてきた彼女の重要な情報をかき集めて調べていた。

CAF賞2022の受賞きっかけとなり彼女の代表作とも言える《Balen(ciaga) I belong》(2022)は、タイでは良く見かけ、なんと我が家にも数個ある極めて実用的なストライプのバックが印象的に使われている。ちなみに我が家になぜそのカバンがあるのかといえば、主人がタイに住んでいたことがあり、当時からあのカバンは周りの人たちの間でも重宝されるものだったらしく、安くて丈夫なシマシマバックはリアルに生き抜いてきた外国人としての主人たちにも必要なものであったようだ。タイから日本に帰ってきてからも、日本での引っ越しや、展覧会のための備品を大量に運ぶ際にも大活躍していて、シマシマたちは今も押し入れの中で次の活躍の機会を待っている。

彼女の過去作品でいくつか強く心をとらえた作品があった。
バンコクのBACCというバンコクアートビエンナーレの会場にもなっており普段から様々な現代アートの展示が行われている複合ビルで行われた展示だ。

BACCはこんなところ。私もバンコクに行くと立ち寄る場所の一つ。

タイ国政府観光庁によるBACCの紹介ページ

あの車もバイクもビュンビュン通り、人々もせかせか歩き、街中も街中のど真ん中の、そしてBACCというタイのアーティストたちが掴み取ってきた歴史を含んだ場所で、現実社会への疑問を文字通り体を張って提示するパフォーマンスを、現代の若いアーティストが実行するというのは、それだけでも強いものを感じさるを得ない。

上記のa day maazineでのサリーナー・サッタポーンの特集記事はタイ語の記事なのだがBACCでのパフォーマンスの写真がたくさん掲載されているので、タイ語を理解できなくとも何となくの雰囲気が掴めると思う。私はAIの助けも借りながらどうにかこうにか読んだ。(もっとタイ語をスムーズに理解できるようになりたい。頑張ろう私。)
あの耳障りな音がしてしまうカバンを持ってたくさんのパフォーマーたちが建物内を歩いていく様子は、きっとライブで見たらかなりの印象を残すものだったことと思う。見たかったなあ。

かつてバレンシアガがデザインに採用したことで一夜にして高級バックに仕立て上げられたというタイの安くて丈夫で持ち運ぶたびにガッサガッサと大きな音がする低賃金の象徴かのようなシマシマのナイロンバックは、彼女の作品に形を変えて何度も登場し、《Balen(ciaga) I belong》(2022)のパフォーマンスとインスタレーションが組み合わされた作品に変化していくこととなる。

《Balen(ciaga) I belong》(2022)のためのステートメントを彼女は以下のように記している。

不平等な社会において、異なる階級に生きる人々は、互いの存在に気がつくことは決してない。超高層ビルに住む裕福な人々は、高層ビルを建てた労働者や移民の存在に、決して気がつくことはない。この社会は、たった一つの階級の人々だけでなく、あらゆる立場の、全ての人々によって動かされているという事実を、私たちは無視している。

CAF賞2022入選作品展覧会のための冊子p.4


このステートメントや過去の他の作品を見ながら、私はかつて主人と同じ時期にタイのタオ島という場所で暮らしていた日本人から聞いた話を思い出していた。私たち日本人はどんな経済状況であったとしてもどんな家族歴を持っていたとしてもタイにいる間はあくまでも外国人なので、タイ社会における階級というものの中に組み込まれることはほとんど無い。他の国での経験談のようにアジア人ヘイトや見た目がアジア人というだけで無視されたりするような経験も、タイではほとんど無いと思われる。
しかしタイ人社会の中では、通例として消え去っているはずの身分階級区別が人々の心と習慣の中には存在し、いまだ根強く染み込んでいるという現実があるようなのだ。友達がその階級差別を目の当たりにしたのは今から20年も前の話だから、今日現在そのようなものがまだ存在しているのかはわからない。しかしここで、その友達から聞いた話をまとめると次のようなエピソードだった。とある食事会に招かれた日本人の友達家族は、大きなテーブルの席についた。タイ人たちに丁寧にもてなしてもらい、楽しく食事会は進行していたのだが、テーブルの一番端に着席した親子がとても静かに黙々と食べている様子が気になった。彼らはホストであるタイ人たちから明らかに無視されていた様子だった。食べ物を提供しないというような意地悪な行動はされていないものの、ホストのタイ人家族を含め、他の誰とも一切のコミュニケーションを取らず、ただ食べているその様子は、初めて同席した日本人からみてもやや奇妙な光景だったと言う。「そういう性格の人たちなのかな」と思いながらその日の食事会は終了したのだが、驚いたのは後日。全く別の場で、先日異常に静かだった人たちが、全く別のタイ人たちと楽しそうに大声で笑いながら食事をしている状況に遭遇したというのだ。それを見た時に「あ、身分が違うことで先日はあんな扱いを受けていたのだ」と気がついたという。
どのようなレベルでの身分の差によって、そこまでの無視が成立するのかはわからないが、ともかくその日本人家族が遭遇した身分の差による無視の場面では、本当に「見えていない」「存在していない」という扱いを身分の違う人たちに向けていたという。

サリーナー・サッタポンの過去作品 “INVISIBLE SOMETHING อินวิสิเบิลซัมติง”
でもクラス違いつまり身分違いの人たちは透明人間的な存在(インビジブル)という話について思い出させる作品がタイのLIV_IDというアートやカルチャーについても書いているサイトにて提示されていた。

https://www.lividcollective.com/attractions-artists/invisible-something-sareena-sattapon-

サリーナー・サッタポンが言う、「不平等な社会において、異なる階級に生きる人々は、互いの存在に気がつくことは決してない。」というのは、高級品が生まれるためには見えないところで貧しい人たちが労働しているからなのですよという象徴的な「見えない」だけではないものが含まれていると私は感じた。おそらくタイで生まれ育った彼女にとって異なる階級を無視するという習慣を、リアルに感じる機会もあったのではないだろうか。「互いの存在に気がつくことは決してない。」という言葉も、かつて私の友人の日本人家族が体験したエピソードを思い起こさせる。無視するということが長年の習慣になり、もはや脳が認識しないレベルまで染み込んだ身分差というのは、一言では片付かないような積み重なりがあるのかもしれない。

しかし彼女は決して社会活動家的なだけのアーティストでもなければ、人権主張の強すぎる単なる自己主張だけのアーティストでもないと私は感じる。作品は表面的には一見そのように見えてしまいがちでもあり、そのように安易にわかりやすく語られることもあるのかもしれないが、本質は異なる。彼女はあくまでも「自分自身のこととしての『見る』とは何か」についてとことん追求しているのではないだろうか。
だからこそ彼女の作品には揺るぎない強さがあり、多くの人の心を捉えるのだろう。

BACCのYoutubeには彼女への短いインタビュー動画もあり



今回のピラミデビル4階にある公益財団法人現代芸術振興財団の展示スペースで開催された個展『IN THE REALM BEYOND SPECTRUM 』では、《Balen(ciaga)I belong》(2022)で使っていた特殊シートの技術をギャラリーのガラス扉に貼り付けることで、画面に映る映像が見えたり見えなかったりする仕掛けを展開する展示となった。ギャラリー内に入ると映像から流れる音が聞こえ、しかし全ての画面は真っ白いままである。映像はギャラリーの外に出てガラスに張り付きながらでなければ出来ない(ガラスに特殊フィルムが貼ってある)のだが、ギャラリーの外に出ると映像から流れる音はほとんど聞こえなくなる。私は何度もギャラリー内と外を往復し、たまたま誰も他に鑑賞者がいない時間帯だっため、最終的にはギャラリーの入り口を半開きにしながら右目で特殊フィルム越しに映像を認識し、左目では真っ白な画面を見ながら耳で音を聞きという、奇妙な格好で鑑賞したりもしていた。最終的にガラスに張り付き作品をじっくり見ている私を、荷物を配達しに来た宅急便のお兄さんが困った様子で眺めていたのに気がつき、慌てて入り口を譲った。お兄さんはギャラリーの鍵が閉まっていて私がなんとか張り付いて中を見ているのだと思った様子だった。

"IN THE REALM BEYOND SPECTRUM" Sareena Sattapon
右が入り口の窓ガラス越し、左がガラスなし



今回の個展作品に寄せた彼女のメッセージの一部が以下の通りである。

人、空間、そして時間は、パフォーマンス作品において不可欠な要素であり、それらは複雑に絡み合う。従来、パフォーマンス作品を創作する過程において、作家はこれらの要素一切をコントロールする立場にある。しかも、もしパフォーマンスを「行う人」がパフォーマーではなく、観客であったらどうなるだろうか?「鑑賞すること」が「創造することとイコールになったとしたら、無制御な要素を、どのように制御できるのだろうか?
本作「スペクトルの彼方で」は、ホワイトキューブとガラスの壁、6チャンネルのモキュメンタリー映像で構成されたパフォーマンス空間を立ち上げ、観客と作品を接続する試みである。映像は、タイに住むサッタポンの叔母の人生譚から着想を得ており、それを日本の文脈に置き換えて描かれている。鑑賞者は作品の「内」と「外」の双方から作品を見聞きすることができ、作品の一部となることで、その立場は鑑賞者から作品の構成者へと変化する。個々人と空間の、一見すると終わりのない関係性は、鑑賞者ら自らが持つ繋がりを再訪する手がかりとなるだろう。

サリーナー・サッタポン個展「IN THE REALM BEYOND SPECTRUM」に寄せての文より


A4用紙一枚にまとめられた彼女自身による今回の作品の解説文を読むと、彼女が「見る」ということを追求してきたところから、彼女自身の日本での生活と制作を通じた経験と、タイに住む叔母の存在という二つの事柄から、新たに「繋がり」というキーワードに辿り着いたことがわかる。彼女にとってのその「繋がり」は、認識するという意味での「見る」にも結びついているのではないだろうか。

「繋がり」は本来、なんらかの行動として具体的に浮かび上がることがなくても存在しているはずのものだ。しかし人々が何かや誰かと「繋がって」いたと認識するのは、周りの人たちの行動があった時や、自分自身の誰かや何かへの反応をしっかりと確認できた時が多いのだろう。
例えば家族はどこにいても「繋がっている」けれど、大きな事件や変化が起きたことで何らかの行動や反応が発生し、それによって改めて「家族の繋がり」を認識したという話はイメージがつくだろう。今回の彼女の作品もタイに住んでいる叔母が病気になったことによってサッタポン自身の中に出てきた気付きから生まれている。

映像作品内で流れるタイ語の歌は「ス・クワン」というタイの東北エリアでの儀式の時に歌われる歌で、人々の魂を体の中に呼び戻すために歌われるのだとか。病気になったりどこか他の場所に長く出掛けてしまったりしていた人たちが、家に戻ってきた時、体は戻ってきても魂は戻って来られないと信じられていて、その魂を体に戻す、というのがこの歌だと言う。初めは気が付かなかったのだが、サッタポンが日本という自分自身との繋がりが全くないエリアで暮らし始めたことや叔母の病気を通じて感じた人々の「繋がり」を思い返してみると、この作品にこの歌を取り入れたことの意味がじわじわと理解できてきた。


展示室内に入ると画面は真っ白。音だけが聞こえる。


展示室内に入ると、6つのモニターは真っ白な画面で、何も映し出されていないように見える。しかし音声はしっかりと流れ、「ス・クワン」も聞こえてくる。そして鑑賞者は展示室を出て、ガラス越しに中を眺める。自分が数秒前までいた展示室内がガラスの外から見え、モニターにはそれまで見ることができなかった映像がはっきりと映し出されているのがわかる。つまり、鑑賞者は数秒前までいた状況をガラスの外から俯瞰してみることによって、外からそれが一体どんな状況だったのかを認識することになるのだ。故郷を離れて外から見たことで、自分が一体どんな状況にいたのかを知るかのように。エリアの中(展示室内及び故郷のような自分の置かれていた環境)とエリアの外(ガラス越しの展示室の外及び故郷から遠く離れて暮らす環境)は、同時に自分自身を2人に分裂させて存在させることはできない。エリアの中と外について考える時、あくまでも自分の脳内で合成して再生再構築させながら考えるしかないのである。展示室内で真っ白な画面を見ながら「ス・クワン」を聞くと、まるで真っ白な画面が魂が不在のまま体だけ抜け殻のように戻ってきた人に「ス・クワン」を歌って魂を戻しているかのような儀式を象徴しているかのようにも感じてきた。

展示室の外からガラスに張り付いて見るとこんな様子
ガラスに張り付いて見ている私を誰かにとって欲しかったような、欲しくなかったような。見るのに夢中だったけれどさぞ奇妙な光景だったことだろう。




何と層の厚い作品だろうか。こんな若手がタイから登場してきたとは。
すでにステートメントをしっかりと確立している彼女が、今後どのような作品を生み出していくのか、ますます楽しみだ。


サリーナー・サッタポン

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