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自分を深く掘ったら幼少期のトラウマが出てきた

昨今非常にふわふわした、なんたら自己分析、セルフなんとかというネーミングでのあれこれが、多数蔓延するようになったと感じている。それだけ多くの人が自分のことを知りたいと思っており、それだけ多くの人が自分自身の本当の気持ちと建前とのギャップで悩み苦しんでいるということなのだろう。

私自身、自分が商品という状況が長く、故に自分のことを知っていかねばならない部分も多かったはずなのだが、いつのまにか「これが自分」だと思っていたものは「社会の誰か」にすり替わっており、絵に描いた餅を生身でやる人になっていた。それに気がつくのに随分時間がかかってしまった。違和感はあったものの、仕事ってそういうものだからねと思い込ませていたり、仕事があってありがたいという気持ちで他のモヤモヤを全て押し流していたりもした。もちろん、仕事だからできることというのはたくさんあると思うし、仕事じゃなかったらやらないなということも世の中にはたくさんあるのだと思う。自覚して行動できていればよかったのだが、私はだんだんと本当の自分がどこにあるのか見失ってしまっていた。

約2年かけて、苦しんだり逃げてみたりしながらどうにか考え続けた結果出てきたのは、幼少期のトラウマだった。

私の母親は私の存在、あり方を根っこから否定する人だった。それは子を守りたい一心が故だったのかもしれないのだが、私はこの歳になるまでそのトラウマに気がつくことができず、ずっと苦しんだまま過ごしていた。

私の母は、私のことを見て「堂々としていると生意気に見えるからやめなさい」と頻繁に言っていた。「自信満々な態度をとらないで」「自信なさそうにしていなさい」という指導を常に私にし続けた。私は何のことかさっぱりわからなかった。私自身は、堂々とした態度をしようと思ったこともなければ、自信満々な態度を取ろうと思ったこともない。心の中にも、他人よりも私の方ができるんだなどと思ったこともなかったし、常にニュートラルな状態だったのに、そんなことを言われるので、全くもってどうしたらいいのかわからなかった。仕方がないので、母が言う自信がなさそうな態度はどんな感じなのかを研究し、背筋を丸めて人と目を合わせないようにして、モゴモゴしゃべってみたり、人前で発言しないようにしたりと、子供なりにあの手この手で工夫を凝らしていた。今でも思う、あれは一体何の指導だったのだろう。

私は次第にオドオドした態度を親の前で演じるようになった。母に「生意気な態度だ」と言われるのが心底面倒だった。親ですら心の中までは除けない。態度さえ仮面で覆って仕舞えばどうにかやり過ごすことができたし、母は残念ながら私の本心は見抜けない人で、その私の表面的な態度だけをみて満足する人だった。コツを掴んで、私は母からの攻撃をゲームのようにかわしていった。

最近になってようやくわかったことは、
「私は本当はありのままの自分のことを好きになりたかった」
と言うことだった。
芸能の仕事を始めたのも、「自分のことをちゃんと好きになってあげたかったから」と言うのが大きいかもしれない。スターになって権力を持って云々というのでもなかったし、目立ちたいからというのでもなかった。私は自分が自分として評価される場所を見つけて、そこで何とか生きていきたいと思ったのだ。

けれどそこはやっぱり大人の世界で、社会で、「私」だと思っていたものは、いつの間にか「社会に求められる誰かの像を演じている私」になっていった。
嘘をついていたわけではないけれど、嘘とも言えないような微妙なラインを綱渡していたことは否めない。社会人ともなれば、そんなことは当たり前だという話かもしれないのだが、私の中では自分がきちんと確立できないまま進んできてしまったが故に、心の中で事故が起きたのだと思う。

私は私に伝えることにした。

もう無理して自信がなさそうな態度を演じなくていいんだよ。

自信をひけらかす必要もないけれど、わざわざ逆の態度の仮面をかぶって無理をする必要はもうないよ。

私が楽しいと思うことはそのまま表現していいし、私が嬉しいと思うことは伝えたい人たちに伝えていけばいいんだよ。

なんか違うなと思うことは、もしやらなくてもいいなら、やめていいんだよ。

もうきちんと、自分という柱をしっかり立てて、それが誰からも見えるようになったとしても、大丈夫なんだよ。

不安だった小さい頃の私が泣いているのがわかった。これがインナーチャイルドとの会話であり、インナーチャイルドを癒していくということなのだろうか。その道の専門家じゃないから私の理解が合っているかわからないけれど、ともかくはっきりと、眉間の奥と胸の真ん中の奥の方で、小さい頃の私がボロボロ泣いていた。

「そんなつもりじゃないのに、どうしてママは自信ありそうに見えるって怒るの?」
「何もしていないで立ってただけなのに、どうしてママは生意気な態度だっていうの?」
「私がエーフリコキに見えるって、ママはどうして思うの?」

(「エーフリコキ」または「エフリコキ」は東北の方言で「見栄っ張り」などと訳される言葉。「口先だけのやつ」「言うことは大きいが実態が伴わないダメなやつ」というニュアンスも含む場合がある、非常に否定的な強い言葉で、悪口でしか使わない言葉である。)


ちょっとでも「だって」というと平手が飛んでくる環境だった小さい頃の私は、そんな疑問も誰にも言えずにいたのだ。幼い私は心の中でたくさん泣いて、泣いて泣いて、それから少し満足して、「これからはママの呪いをお祓いして、自由に生きる」と立ち上がっていた。我ながら、なんか強い。確かに子供の頃から、何かを失敗しても歯を食いしばってぐいっと立ち上がる強さは持っていた自覚はある。

外部から打たれることについては「負けないぞ」と立ち上がっていく強さを持った子供だったが、やっぱり幼い私は大好きなママには無条件に受け入れてもらいたかったのだろう。

いい歳なんだから親の言うことなんて関係ないと頭では思っていても小さい頃のトラウマというのはかなり根が深く、こんなにも影響が残ることなのかと、今回改めて驚いた。

私は私の存在に、正当な自信を持っていい。
私は私のことが好きになれるように、日々改善していきたい。
ここがイマイチだな、と感じることを丁寧に掘り起こして「じゃあどうしたらいいかな」と解決策を探していきたい。

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