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全ては振動だった

物理や宇宙の法則などの話題の中で、ここ数年頻繁に目にするのが「振動」という単語。

乱暴にまとめるなら「全ての物質は振動している」という話である。
私もあなたも振動。目の前のコップも机も振動。全て違う振動をしているから違う物質になって存在している。

理屈は理解したつもりだし、納得もしていた。
なんとなく振動というイメージも湧く。
けれど実は全く本質を実感できていなかったことに、昨日ようやく気がつくことができた。

家への帰り道、駆け出したいような気持ちで車が大量に通る大通り沿いを歩いていた。
多分、浮き足立っているというのはこういう状態のことで、誰かが見たらちょっと変な歩き方になっていたかもしれない。
けれどそんなこともお構いなしで、私の心の中は全力で「そうだ。そうだったんだ。全部そうだったんだ。」と絶叫していた。
「振動だ。そう、振動なんだ。」

さて、この気づきのきっかけは何だったのだろう。
帰宅後から思考を整理しようとしているのだが、理解した情報量が多すぎて追いつかない。

気づきの一日を時系列で考えてみたいと思うのでしばしお付き合いいただきたい。

昨日は朝から、鎌倉界隈で美味しいご飯でケータリングやカフェ営業をしているRINちゃんの作ったものが食べたいと思った。
直感に従って行動する練習を今年から本格的に意識をしていたので、この日のランチは間違いなく彼女のご飯を食べるんだと確信を持って出かけた。

初めてイベントでRINちゃんを見かけた時から、弾ける笑顔と輝くオーラがとても印象的だった。ランチの時もお店全体が彼女の持つ無限のキラキラで満ち溢れていた。
きちんと丁寧に作られたものを、心と体の両方から感謝をしていただく。
今思えばこの日の気づきのベース作りはこのランチから始まっていたようにも思う。

その後、七里ヶ浜で友達数人がイベント出店をしているというので立ち寄る。
良い空気感に包まれて朝からたくさん売れたよと嬉しそうな友達。
会話をしている間に一緒にやってみたい未来のイベントが閃いた友達。
丁寧に用意されたことが一目でわかる素敵なスイーツを朝からモリモリ売っていた友達。
みんなそれぞれに、良いオーラを放っていた。

それから二、三の必需品の買い物を済ませ、観光の人たちでぎっちり混雑した江ノ電に揺られながら帰路についたのだが、ここから肝心の脳みそがどこかへ飛んでしまい、どうやって大切な確信に気がついたのか、思考のルートを辿れない。

気がつけば私はすっかり暗くなった道を買ったもので重くなった鞄を肩に一人歩いていた。
月がほんわりと夜空に浮かんでいて、車の通りが多い道沿いだったため、多分騒音もたくさんあるような状況だったと思う。

しかしその時、周りの音は消え去り、代わりに昔演奏したことがあるピアノの曲が次から次へと頭の中に流れ込んできた。
音楽大学でピアノ科にいた私は、若い頃たくさんの曲を毎日弾いていた。
その当時に、私はどうやって演奏していたのか。
自分が納得のいく演奏をしたときは、何かが内臓から湧き起こるような感覚があったことを突如思い出した。体の中心部、胃のあたりというか、もっと奥のど真ん中部分というか、その辺りが活動を始め、大きな「気」のうねりのようなものが演奏する音と同時に放出されていたのだ。体と楽器が一体となり、音と自分が重なって、心の叫びにも似たうねりと共に演奏をした時は、自分としても周りからの評価としても良い演奏に仕上がっていた。

そしてこれらを思い出しながら
「ああそうか、私は振動を楽しんでいたのだ。」
と気がついた。

ハンマーで弦を叩いて音を鳴らすピアノという楽器は、この振動の仕組みがとてもわかりやすい。
倍音というシステムもピアノの楽器全体に影響を与え、一音をポンと鳴らしただけでも他の倍音に該当する弦が一斉に共鳴するのがピアノだ。

ピアノから出る振動を楽しんでいたことに気がついた私は、さらに記憶を遡った。
3歳から習っていたクラシックバレエだ。
バレエはプロや専門家になるほどの技量ではなかったがそれでもコンクールで入賞できるレベルまでは続けていたし、踊らなくなった今でもバレエという文化そのものやダンスは大好きだ。
このバレエ、音とともに踊るということも、振動だったと気がついた。
私はバレエを通して、踊りながら全身で振動を味わい、楽しんでいたのだ。

音楽を奏でることも、踊ることも、全ては振動を楽しむ手段だった。
そして生まれた時からずっと、私はこの振動を楽しむことを全力でやり続けて、今もそれが続いているのだ。

ここから加速度的に気づきは続く。

現在の主な職業は声や容姿を使った職業なのだが、これらも全ては振動の新形態だった。
良い声で仕事ができた時というのは、体から空間に広がる振動が最も心地よく共鳴している時だ。言葉という音は使わず容姿のみを使う時も同じ。音を出さなくても振動は自分の体からその場に広がるということを、この仕事を通して学んでいたのだ。

夜道を変な歩き方でずんずん進みながら、私はさらに気がついた。

人間は、どの振動として存在するか、自ら決めることができる生き物なのだ。

物質はある特定の振動を持って、その形を維持している。
つまり究極に言えば、他の振動になったら他の物質になってしまうのだ。

けれど人間は、同じ一人の人という物質的形、つまり特定の人物としての肉体を維持しながらにして、自ら発する振動を選択することができる。

これは究極の自由だ。

もちろん振動が変われば、人間だって多少の肉体的変化は伴うだろう。
体型が変わったり、表情が変わったりもするだろうし、服や髪型など外見的な趣味が変わることもあるだろう。久しぶりに友達に会ったら見た目は大きく変わっていないはずなのになんだか雰囲気が変わっていたなあ、と思うこともあるだろう。
これはおそらくその人の振動が変わった、ということではないだろうか。

何か良いことがあった時はウキウキした振動を、残念なことがあった時にはどんよりと暗く濁った振動を発している。そして倍音である。振動は共鳴する部分があるのだ。
ウキウキした振動はその振動と親戚関係にある倍音の振動とも共鳴するし、反対も同じ。つまりこれが世に言う引き寄せの法則なのだ。

そろそろ今回の気づきをまとめてみよう。

1・全ては振動である。(私の人生は振動を楽しむことだった)。
2・人間は自らの振動を選ぶことができる。
3・振動は共鳴する。

私と同じように、振動を楽しむことが人生の主たる部分を占めるかどうかはわからない。
けれど私はこのことに気がつくことができた。
ここ最近、なぜ自分が今生きているのか疑問に感じて深い闇にハマりそうになっていたところだった。危なかった。そんなに複雑な問題ではなかったのに、すっかり妄想で複雑化させてしまうところだった。なぜも何も、私はただ極上の振動を探し求めてそれを味わいたいのだ。そしてその振動こそがあらゆる豊かさを産んでいる根源だということにも薄々勘づき始めている。

では自らの振動を変えたい時、どうしたら良いのだろう。

私は来月引っ越しをする。
これはおそらく振動を変える良い兆候だ。
住む場所は人に大きな影響を与える。その土地が持つ振動や、その土地が心地よいと感じて集まってくる人たちから出てくる振動は、毎日の生活の中で確実に体に染み込んでくるものだ。引っ越しをするという現象が先に決まったけれど、結局私は振動を変えるタイミングに来ていたのだ。

私は食べるものを変えてきた。
数年かけ、動物性食材から離れた食生活に変化させてきた。
ジャンクフードを無意識に選ぶことを止め、心のこもった生産と密接につながっているものを食べるようにした。これもおそらく振動に大きく影響していることだ。

私は着るものや持ち物を変えてきた。
自分が理想とする生き方からかけ離れた物を身に付けたり近くに置いたりすることを止めたことも振動に関連してくるだろう。

大きな変化を作らなくとも、意図するだけで振動を変化させていくことは可能だ。
夜寝る前までにする行動を変える。
読む本を変える。
毎日使う洗剤を変える。
なんとなく惰性でやっていることをキッパリ止めてみる。
掃除をして部屋を片付けたり、家具の配置を少し変えてみる。

もしも理想の人生を生きたいと心から願うのなら、
今すぐその「理想の人生」のシナリオにある行動を始めよう。
必ず振動が変わり、自らの振動が変化すれば周りの共鳴も変わるのは必然だ。

そして自由に決められるその振動を楽しもう。

人間は自らの振動を自らの意思で変えることができる魔法使いなのだ。


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