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人生のテーマに気がつく方法の一つ

『わたしは5歳のときから〈自分とはなにか〉がテーマだった』

長山さきinstagram@sakiamsterdamより

トーン・テレヘンさんの著作を読んだことがきっかけで、以来その本の日本語訳を担当された長山さきさんのインスタグラムを時々覗いているのだが、彼女のある日の投稿に上記の一文が書かれていた。

これを読んだとき、ピカッと何かが光ったようにドキドキして、「そうだよ、そういうことでいいんじゃないの」と独り勝手に納得してしまった。

小さい頃に疑問に思ったことというのは、案外後々までちゃんと残っているもので、私にも、そういうことが実はある。

私にとってのそれは、「今とはなにか」であった。けれども大人になるについれて、その疑問に囚われている時間も減り、いつしか遠くに追いやってしまっていた話題だった。長山さんの文言を借りれば「わたしは小さい頃から〈今とはなにか〉がテーマだった」と言えるわけで、それはそれ以上でも以下でもない、しかし私にとっての確固たる何かだった。

小さい頃、その疑問が沸き起こった時は、居ても立ってもいられずソワソワして、大きな不安に駆られていた。私は今、今と思ったけれどそれは既に今ではなく過去で、では今はどこへ行ってしまったのだろうか、確実にあるはずなのに捕まえられず、ならば今は存在しないという事なのだろうかと、学校の宿題をこなすために買ってもらった立派な学習机に向かい、漢字プリントもやらずに悶えていたのだ。そして今更ながら思い出してみれば、それは自分にとっては非常に重要な「テーマ」だったはずなのに、すっかり放り出してしまっていた。

人生のテーマというのは、誰かに与えられるものではなく、いつの日か勝手に心に落とされるものなのかもしれない。それは誰かに説明する必要があるものでもなく、自分自身にただ一つ課された宿題のようなもので、きっとこうして思い出すべき時に何度も目の前に出てくるのだろう。

同じ1980年に生まれたマルクス・ガブリエルは(あちらは世界的天才。同い年というだけで自分とこうも違うのかと毎度唖然とするのだが、わたしの好きな哲学者の1人でもある)新存在論を提示しているのだが、世界は存在しないという話を読んだ時には妙に納得してしまうものがあったし、どうりで在ると思い込まされているものをいくら悩んだところで解決しないわけだとも思ったものだ。

文字通り「雲を掴むような」もので〈今とはなにか〉と考え、どうにかして掴めはしないかと苦戦するのだが、雲はそこにあれど手に握りしめることはできず。今はここにあるかもしれないし、無いかもしれないけれど、それでも気になって仕方がないのが私にとっての雲である今、ということなのかもしれない。

実は時々、現代美術家を羨ましいなと思っていたことがある。
彼らは作品や作家活動全体を通したステートメントというものを持っている場合がほとんどだ。個別の作品についてのものは作品ステートメント、もしくは展覧会ステートメント。全活動を通じてのものはアーティストステートメントである。
ステートメントが明瞭な作家が私は割と好きなのだが、自分の格となるステートメントを簡潔に言えるということにわたし自身憧れてもいたのだ。
例えば私の夫は主に写真を媒体として表現する現代美術家でもあり、簡単に言えば「自分が生きていること」そのものがアーティストステートメントである。そのスパッと潔い一文が眩しいのであった。

しかしよく考えてみれば、美術だ何だの前に、実は私にも幼少期からのステートメントがちゃんと存在していたのである。
〈今とはなにか〉それはステートメントとは何かを理解する前から自然発生的に心に存在した、私の生きるステートメントだったのだろう。

私は絵も上手ではないし、彫刻作品が作れるわけでもなし。他に特筆すべきようなこれといった特技があるわけでもない。ただ芸術分野を学びながら大学では音楽を専攻して、その後芸能界で粛々とお仕事をしてきただけの人であるから、今から何がどうできるのかも分からないままだけれど、そろそろこの人生の課題に戻る時が来たのかもしれない。

時々、思う。私は一体何のために生まれてきて、今日現在生きているんだろうかと。
けれど今回引用させていただいた冒頭の、長山さんの一文を見た時、
じゃあ「〈今とはなにか〉という問いに答えを出すために生きている」で良いんじゃないのかしらと思えたのだ。

いつか、この世を去る直前にでも、「私にとっての〈今とはなにか〉の結論は◯◯であった」と言えるようになっていたら、少しは嬉しい気分になるかもしれない。



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